第196弾 のむけはえぐすり 住吉大社 遣唐使・遣新羅使の港2013年06月16日 03時24分44秒









第196弾 のむけはえぐすり
住吉大社 遣唐使・遣新羅使の港

西に向かう遣唐使や遣新羅使が出帆した港はどこだったのか。それが分かる当時の公的な資料はない。だが、使節やその縁者が詠った万葉集の歌から、ある程度うかがうことができる。

万葉集の歌を引用する際に付されている番号は、佐佐木信綱が編纂し1924年に刊行した「校本 萬葉集」に準じている。

 4245番の一首は、「天平五年、入唐使に贈れる歌一首・・・」と題される詠み人知らずの歌である。その歌には、「・・・平城の京師(みやこ)ゆ 押照る 難波に下り 住吉(すみのえ)の 三津に船乗り 直渡る・・・」とあり、この時の遣唐使は奈良の都から難波に行き、住吉の三津から船に乗って出航したと記されている。

この歌はさらに、「ゆゆしかしこき 住吉の わが大御神 船の舳(へ)に 領(うしは)きいまし 船艫(ふなども)に 御立いまして・・・」と続き、住吉大社に航海の安全を祈願し、遣唐使の第一船の舳先に何やら社殿を祀って出港していった様子が詠われている。

この歌からは、住吉大社が古くから航海の安全を守る神で、遣唐使は住吉大社を経由して出航していった様子がうかがえる。そこで、住吉大社に行ってみた。

住吉大社に向かうには、天王寺の阿倍野から阪堺電軌上町線の古びたチンチン電車に乗って、見通しのよい平坦な「あべの筋」の下町をガタガタと揺られながら南下する。

実は、このあべの筋を反対に北へ向うと、天王寺を境に谷町筋と名前を変え、洒落た街並みの通りとなる。天王寺から5Kmほどで大阪城を過ぎ、天満橋で大川を渡る。大阪城の手前で谷町四丁目を右折し、なだらかな法円坂を上がれば、左手に大阪歴史博物館、右手に難波宮跡があり、1.6Kmで森ノ宮に至る。

現代は内陸にある住吉大社から大阪城の辺りまでは、古代には淀川と大和川から運ばれた土砂によって北に突き出た砂嘴(さし)であった。砂嘴は上町台地と呼ばれ、ほとんどが海であった大阪平野を、瀬戸内海と河内湾とに分けていた。砂嘴は時代とともに砂州となって対岸近くまで延び、今の吹田市垂水の辺りにわずかな幅の水路を残した。河内湾は淡水化し河内湖となり、氾濫を繰り返した。河内湖の流れを整えるために、仁徳が上町台地の途切れる辺りに「難波の堀江」を開削した。その堀江が今の大川で、大和川が江戸時代につけ替えられるまでは、大和川と合流して淀川の本流であった。地図は藤井寺市立生涯教育センターに掲示されていた「河内潟周辺の初期の弥生ムラ」の地図を基に作成した。弥生ムラが全くない地域が、河内湖の範囲でもある。

その後も河内湖は陸地化し、河内潟になった。江戸時代まで大阪東部に新開池、深野池として名残を残していたが、1704年の大和川の付け替え工事とともに開拓され新田となった。

上町台地の南の傾斜地であった住吉大社から大阪城にかけては、高さも大阪城大手町で24m、天王寺で10m、住吉大社で6mとなだらかで、電車から見たとおりの平坦な地形である。古代も両岸は浅瀬が多かったはずで、大船が停泊できる港があったとは考えにくい。

前述の4245の歌では、遣唐使は難波に着いて、住吉の三津から出発したと詠われている。三津は御津や美津と同じで、遣新羅使の秦間満(はたのはしまろ)の歌(3593)では「大伴の御津」と詠われており、大伴が御津の枕詞のように使われている。

現代の谷町4丁目を右折した法円坂に、孝徳や聖武の難波宮の跡と大阪歴史博物館がある。大阪歴史博物館の屋外に、5世紀後半に営まれた16棟の法円坂倉庫群の高床式倉庫のひとつが復元されている。法円坂倉庫群は難波津の物資が集積する倉庫群であり、大伴室屋時代の大伴政権の支配下にあったと考えられている。本来、御津といえば難波津のことで、大伴氏の本拠も上町台地にあったことから、大伴の御津と呼ばれていたようだ。

難波津の正確な位置はわかってはいないが、平安時代から室町時代にかけて京都へ水運の中継点となっていた渡辺津は、大和川と淀川の流れを集めた大川の左岸、今の天満橋から高麗橋にかけての北船場の辺りにあったことが知られている。難波津もその辺りにあったと考えるのが自然だろう。

住吉大社に行ってみると、有名な反橋(太鼓橋)の近くに写真の「住吉万葉歌碑」がある。

万葉集に「大船を荒海に出(いだ)しいます君 恙(つつ)むことなく早帰りませ(3582)」の歌がある、碑に掲げられた船は、その大船を模したようだ。歌碑に刻まれていた遣唐使への餞(はなむけ)の歌は、「住吉に 斎(いつ)く祝(ほうり)が神言(かむごと)と 行くとも来とも 船は早けむ(4243)」とあり、住吉大社の神官(祝)が祈願したことが記されている。

碑の下の方には、「萬葉時代の住吉の地形」が描かれている。住吉大社は住吉津に臨み、反橋のかかる水路とつながっている。住吉津は今の細井川の掘り割り水路となって河内潟に通じている。一方、潟湖を南にたどると得名津のある浅香潟に通じ、途中は浅沢小野、遠里小野という低湿地になっている。

現代も住吉大社の周囲は平坦な地形であり、古代も浅い潟であった住吉津に、大船が接岸するのは難しいと思った。遣唐使や遣新羅使の大船が停泊して出航できる御津とは、やはり難波津だったのだろう。難波津を出航してから、どのような経路と形で航海の安全を住吉大社に祈願したかは、万葉集の歌からうかがうことはできなかった。

参考文献
1)ここまでわかった!古代豪族のルーツと末裔たち、「歴史読本」編集部、新人物往来社、2011
2)森浩一:萬葉集に歴史を読む、ちくま学芸文庫、2011
3)佐佐木信綱編:新訓 万葉集(下巻)、岩波文庫、東京、1998
4)住吉大社編:住吉大社、学生社、1977