のむけはえぐすり 第32弾 原善三郎の話 その14 鉄道創業の地記念碑2006年10月19日 22時21分59秒


のむけはえぐすり 第32弾

 明治5年(1872)、原善三郎44才、横浜新橋間の鉄道開業式で祝辞を述べる。

 鉄道を造ることを決めたのは、大隈重信さん達。反対したのは西郷隆盛さん達。
明治3年に、ネルソン・レーさんから資金を借り、鉄道建設の技師イギリス人エドモンド・モレルさんら19人の技術者を招き、鉄道建設を始める。一生懸命日本の鉄道建設のために尽くしてくれたモレルさんは、日本での生活が合わなかったか、翌年には肺結核で亡くなる。次の日には、奥さんの梅さんも死んでしまう。

 太田町で材木問屋を営んでいた高島嘉右衛門さんが、神奈川海岸の埋め立てを請け負う。鉄道と国道に使われた残りの埋め立て地は、高島町になる。この功績に報いるために、嘉右衛門さんに開業式での祝辞をお願いしていた。

 初めの予定では、開業式典は明治5年の陰暦の9月9日、重陽の節句に行われるはずだった。それが秋の長雨にたたられ、晴天の開業式にこだわった鉄道頭(かみ)・井上勝さんは、陰暦9月12日に延期する。
これで被害を被ったのは、「10月11日」。その年から変わった太陽暦に換算すると10月11日だったのに、延期されたために10月14日に鉄道記念日を持って行かれてしまう。
 他に被害を被ったのは、高島嘉右衛門さん。一民間人が天皇陛下の前で祝辞を述べるために、極度の緊張が続いた。その挙げ句に延期では、体がもたない。案の定、体調を崩してしまい、急きょ善三郎にお鉢が廻ってきた。

 天皇陛下は新橋からお召し列車で11時に横浜に到着される。天皇陛下からお祝いのお言葉がある。
次に、お歴々の気合いが入った話をさんざん聞かされた後、まず在留外国人代表として祝辞を述べたのが、イギリスの貿易商W ・マーシャルさん。マーシャルさんはBavier商会の向かい、今はアウディになっている横浜58番のマクファーソン&マーシャル商会の社長である。生麦事件で重傷を負った古傷も癒え、その時は外国人商業会議所の会頭を勤めている。そして、横浜住民代表として、善三郎が祝辞を述べる。

町中で申し合わせて国旗と提灯が掲げられ、横浜全体でお祝いムードが盛り上がる。この盛り上がりがよかったと言うので、明治6年、祝日には国旗を掲げようと言う法律までできる。
一方、鉄道作りに反対した西郷さんは、西南の役で、兵員と軍事物資の輸送に活躍した鉄道と横浜港からの海上輸送のおかげで、敗色を濃くするという皮肉な結果にもなる。

 その後も鉄道建設ラッシュは続き、明治22年には新橋・神戸間が開通する。大正2年には東海道線が複線化する。大正3年には東京駅が開業する。いつまでも今の桜木町に横浜駅があるのも不便だというので、大正4年には新しい横浜駅が誕生する。その時から古い横浜駅は桜木町駅となった。

 関東大震災で、旧桜木町駅は焼けてなくなる。昭和31年(1956)の相鉄名品街、昭和33年の高島屋百貨店の開店がきっかけとなって、横浜駅の裏玄関であった西口の開発が進む。今や、横浜一番の繁華街に成長する。

 写真は、弁天橋に向かう桜木町駅のはずれにある「鉄道創業の地記念碑」である。碑の裏には、「鐵道列車出發時刻及賃金表」が書かれている。横浜発八字(ママ)、品川着八字三十五分とある。乗りたいものは遅くとも十五分前には来て、切手(ママ)を買い、用意を調えよ。ただし、列車の方は遅れないように努力はするが、できなこともあると、かなり居丈高だ。犬一匹につき、25銭もらうが、犬用の檻に入れるか、車掌室に入れておくので、チャンと紐に繋ぐように、とも書いてある。
 喫煙車以外は禁煙とある。受動喫煙を予防するためか? それとも、ポンと出されたキセルの火玉が危ないからか?

 参考文献
 1)横浜開港資料館:図説・横浜外国人居留区、有隣堂、1998
 2)「図説・横浜の歴史」編集委員会:図説・横浜の歴史、横浜市市民局市民情報室広報センター、1989