のむけはえぐすり 第44弾 原善三郎の話 その24 東洋銀行(Oriental Bank)2007年01月14日 15時48分30秒


のむけはえぐすり 第44弾
原善三郎の話  その24 東洋銀行(Oriental Bank)

 今までのきれいゴトの裏には東洋銀行がいたという、ある政府高官のウラ話。

 新政府が何度か窮地に陥った時、その度に助けてくれたのは東洋銀行だったジャア。お国言葉がでてしまったケエ、お許し下され。(以下標準語訳)

 特に、英領事館のバークス公使と「横浜東洋銀行支配人」ロバートソンさんには大変お世話になりました。

 始まりは、フランスから幕府が借りた横須賀製鉄所のための50万ドルの返済を迫られた時でした。困り果てた大隈卿は、外交問題が山積する中、その交渉相手であったバークス公使に、恥を忍んで相談しました。
すると、バークス公使はロバートソンさんを紹介してくれて、日本通の外交官のアーネスト・サトウさんを通訳にして話し合い、その場で貸付を承諾してくれました。
写真は昭和6年に建て替えられた旧英領事館(現開港記念館)です。日本大通を挟んで神奈川県庁の向かい側の山下町172、173番地です。

 明治2年(1869)には、新貨幣を鋳造するための大阪造幣寮を設立するにあたって、外国人技師の採用やその監督を、東洋銀行に任せました。中には酒乱の外国人職工もいたし、香港造幣寮から連れてきた造幣寮長のキンドルさんが自信過剰でプライドが高いJohn Bullだったのには参りました。ことごとく日本人と対立して、一時造幣寮はムチャクチャになってしまいましたから。

 鉄道建設のための資金調達を依頼したネルソン・レイさんが、勝手に英国で日本の国債を発行し、利ざやまで稼ごうとしたのが分かり、大変困ったことがありました。レイさんとの契約を解消するための示談交渉をしてくれたばかりでなく、その後の鉄道建設のための資金調達をしてくれたものです。だから、鉄道建設の真の立て役者は、レイさんではなく、東洋銀行なのです。
 
 それが図らずも、第一回の外国公債となりました。明治5年(1872)に、士族に対して退職金のような禄債を発行することにしました。その資金調達のために、第二回の外国公債を発行しましたが、結局、それも東洋銀行が全て引き受けてくれたのです。

国立第二銀行発行の洋銀券をめぐる外国銀行との紛争の際にも、フランスのコントワール・デスコンテ銀行が中心となった洋銀券ボイコット運動に、独り東洋銀行は参加しませんでした。そのため我が方は心強く交渉に当たることができ、早期解決につながりました。東洋銀行が洋銀券を発行していなかったという事情はあるにせよ、我が国に対する信義を感じたものです。

 最後の裏話は、三井組を助けてくれたことです。もともと幕末にかけて往年の勢いはなくなっていたところに、国立銀行条例ができ、三井組ハウスが傾きかけたのです。さらに、政府が官金を扱う業者に抵当額を増額したことも追い打ちをかけました。
国立第一銀行設立のパートナー小野組が、倒産する事態にもなったのです。その時に、三井組に100万ドルを用立ててくれたのが、東洋銀行だと言うことは、あまり知られていません。

そんな東洋銀行も、世界的な銀価格の低迷によって為替業務が不振に陥り、それを挽回しようと焦ったのでしょう、セイロン島のコーヒー栽培やモーリシャス島の砂糖栽培という不動産抵当金融に手を染めてしまい、それが破綻の元になってしまいました。

 長年取引があったジャーディン・マセソン商会が、当座勘定を香港上海銀行に移してからは転げ落ちるのも早かった。明治17年(1884)に、東洋銀行はニューオリエンタル・バンクとして再建を図りましたが、結局は上手く行きませんでした。

 エ!? ワシジャアか? 今はある特殊法人に天下ったケエ、理事をシチョル。仕事は何もシチョランガ、税金はたっぷり使わせていただいチョル。