のむけはえぐすり 番外編;アバディーンからの手紙 ― 2007年09月19日 00時00分33秒
早速、Aberdeenから返事が来ました。
Dear Mr A***
Thanks very much for the explanation. Perhaps we could get together to try as you suggest someday!
Regards B***, ****, Your Guide
Jane Kxxx
Development Officer Glover House,Neighbourhood Services,(Central Area), (01224) 709303
写真は、Aberdeen大学のKings CollegeからDon川の先、グラバー邸に向かう途中のSt. Machar's Cathedral(聖マハー大聖堂)です。
15世紀後半に建てられました。
のむけはえぐすり 第65弾 原善三郎の話 その44 Aberdeen取材旅行 Aberdeen大学 King’s College ― 2007年09月19日 22時31分33秒
のむけはえぐすり 第65弾 原善三郎の話 その44 Aberdeen取材旅行 Aberdeen大学 King’s College
アバディーンの町は、北側のオールド・アバディーンと南側のニュー・アバディーンに分かれている。 オールド・アバディーンには、1494年創立のカトリック系のKings College(キングズ・カレッジ)があり、ニュー・アバディーンには1593年に対抗して創立されたプロテスタント系のMarischal College(マーシャル・カレッジ)がある。二つの大学は1860年に統合され、今のアバディーン大学となった。 グラバーさんや明治の日本人留学生達が学んだ大学は、キングズ・カレッジの方だ。
今回の旅行で、日差しがあるのに肌寒い8月、ニュー・アバディーンの中心街ユニオン・ストリートにあるマーシャル・カレッジ前のバス停から、二両連結の巡回バスに乗ってキングズ・カレッジに向かう。10分ほどで、左側に芝生の広場が見える。案内が一切ないバスから、学生らしき数人の若者が下りるのを見て、私も急いで飛び下りる。
夏休みだからなのか、広々とした芝生と並木のキャンパスに、学生の姿は少ない。広い敷地の中を歩いていると、1506年に完成した壮大な石造りの古い校舎と礼拝堂がある。写真には、その校舎と、芝の上で寝そべって話をしている誰かの銅像が見える。 キングズ・カレッジから閑静な住宅街を10分ほど歩いたところに、セント・マハーズ教会がある。その先のシートン公園を通り抜けると、ドン川に出る。14世紀に作られたスコットランド最古のバルガウニー橋を渡ると、グラバーさんの記念館が近い。
その家は、沿岸警備隊の大尉をしていたグラバーさんのお父さんが1861年に購入し、住んでいた。二階の一室には、伊藤博文さん、井上馨さんたち5人の密航した長州藩の留学生の写真が飾られ、ご丁寧に伊藤博文さんが描かれた千円札も添えられている。
だが、キングズ・カレッジに通った密航留学生というのは、彼らではない。
長州藩士の5人は、文久3年(1863)にジャーディン・マセソン商会のケズウィックさんの協力で、同商会のチェルスウィック号に乗って横浜からロンドンに渡った。横浜の太田町の「佐野茂」という小料理屋で、密かな壮行会があった。
彼らはロンドン大学のユニバーシティー・カレッジに学び、化学協会会長のAlexander William Williamson(ウイリアムソン)博士やクーパーさんの家から通った。その間、マセソンさんの甥のヒュー・マセソンさんが、彼らの面倒を見ていた。
グラバーさんが全く関係なかったのかというと、そうではないだろう。
グラバーさんは1856年、19才の時に上海のジャーディン・マセソン商会に勤め、1859年に長崎が開港されると、そこの長崎代理店の支配人として長崎にやって来た。
長崎でのグラバーさんは、ジャーディン・マセソン商会の委託を受け、薩摩藩、熊本藩、佐賀藩、あるいは土佐藩の坂本龍馬らを介して長州藩に、艦船や武器・弾薬を売る仲介をしていた。1864年頃には、長崎における艦船売買の30%、小銃の販売では38%を占めていた。
その交渉の席で、幕府の禁を犯してまで密航し外国で勉強しようなどという大それた話を、若者から聞くことができたのは、グラバーさんの他にはいなかったはずだ。それを最初に実現したのは、先ほどの「長州ファイブ」といわれる5人だった。 5人のうち、当時28才の井上馨さんは初代外務大臣で、不平等条約の改正を実現している。22才の伊藤博文さんは後の初代総理大臣であり、20才の井上勝さんは鉄道頭(てつどうのかみ)となって新橋横浜間の鉄道を建設し、27才の遠藤謹助さんは造幣事業を興し、26才の山尾庸三さんはグラスゴーで造船の勉強をしたあと、帰国して工学寮(今の東京大学工学部)を創設している。いずれも名の知れた顔ぶれだ。
イギリスに密航して留学したいくつかのグループの中で、実際にアバディーンまで来て勉強したのは、慶応元年(1865)にグラバーさん所有のオースタライエン号で鹿児島からロンドンへ渡ってきた薩摩藩の19人のうちの、13才の長沢鼎さんだ。長沢さんはグラバーさんの実家に引き取られ、中学に通い、成績優秀だったことが伝えられている。長沢さんはその後カリフォルニアに渡り、ブドウとワインで成功し、アメリカで亡くなった。 また、肥前鍋島藩の石丸虎五郎さん、馬渡八郎さん、安芸藩の野村文夫さんらの3人のグループもグラバーさんのチャンティクリーア号でロンドンに渡り、アバディーンでグラバーさんの兄のJamesさんの世話になって、キングズ・カレッジに通った。少し遅れて長州から密航してきた南貞助、山崎小三郎さんらのグループの竹田庸次郎さん、さらに別便で長州から密航してきた4人のうちの毛利幾之進さんも同じ頃、寄宿していた。
彼らの帰国後の活躍は、「長州ファイブ」ほどではなかった。グラバーさんの功績を伝えるのに、わかりやすいという点で、お札にもなった「長州ファイブ」の写真が飾られたと考えられる。
グラバーさんは明治維新の後、長崎貿易の衰退によって倒産してしまう。その後、高島炭坑で三菱の渉外担当顧問を務めたり、横浜のキリン・ブルワル・カンパニーの社長を務めたりした後、1911年に麻布の富士見町の自宅で亡くなった。
参考文献
1)犬塚孝明:薩摩藩英国留学生、中公新書、1974 2)犬塚孝明:密航留学生たちの明治維新 井上馨と幕末藩士、日本放送出版協会、2001
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