のむけはえぐすり 第69弾 原善三郎の話 その48 Aberdeen取材旅行 The Palace of Holyroodhouse2007年10月08日 05時49分49秒

Edinburghのロイヤル・マイルの西のはずれにあるHolyroodhouse宮殿

のむけはえぐすり 第69弾

原善三郎の話  その48 Aberdeen取材旅行  The Palace of Holyroodhouse

結局、東インド会社が解散した1858年までに、既に貿易会社としての実態はほとんどなくなっていたと考えて良さそうだ。
 そうなるには、いくつかの過程があった。

初めは、イギリス政府が東インド会社のあまりの乱脈さに、あきれてしまったことだ。
 
徴税権を得て、元手のいらない金が入るにもかかわらず、東インド会社の収支は赤字だった。集めた税金をよってたかって、かすめ取ってしまう上に、イギリス政府への上納金もあったからだ。

借金の穴埋めをさせられたイギリス政府は、18世紀末にインド監督庁を設け、さらに総督や知事といった会社の高官の任免権を掌握し、本業となった植民地経営に対しても、副業となった貿易に対しても、監視や規制が必要だと考えるようになっていた。

次は、産業革命だ。
 
18世紀の初め、インドからの主な輸出品は、綿製品の「キャラコ」だった。上質で、しかも安かったので、一時イギリスでは輸入禁止法が出されるほど、大量に輸出されていた。

ところが、1779年にイギリスで紡績機が発明されると、「キャラコ」よりも安く品質の良い綿製品が生産されるようになった。インドは逆に綿製品の輸入国になってしまい、1820年代にはインドの綿手工業は壊滅し、東インド会社は主要な輸出品を失った。

産業革命の直後、人口が都市へ流入し、ほとんど選挙人がいないような選挙区がいくつも生じた。そこから金の力で下院議員になったインド成金のネイボッブが、ある時期は18人もいて、下院の一大勢力になっていた。だが、産業革命で力を得たマンチェスター、リバプール、グラスゴーなどの商人達が1832年と1867年に選挙法を改正し、そのようなネイボッブの「腐敗選挙区」を廃止し、最終的にはランカッシャーなどの綿業資本家達を下院に送り出した。

新たに議員となった資本家は、貿易への自由な参加を求め、自由貿易を主張した。1813年にはインド貿易独占廃止法を作り、東インド会社による貿易の独占を、まず中国以外の場所から廃止した。その結果、1820年頃には個人の貿易商社がカルカッタに32社、ボンベイに19社も作られた。

そして、中国とのアヘン貿易だ。
 
東インド会社は中国からお茶を輸入する対価に困り、1784年からベンガル地方でアヘンを栽培し、中国へ売りつけた。アヘンを製造する権利を独占していた1797年には、アヘンは東インド会社の全収入の12%を占めるほど重要な輸出品だった。だが、インドで200ドルのアヘンが、中国では800ドルで売れる。こんなボロイ儲けの商売を、他の商人が放って置くわけがなかった。

1820年頃にはインドやアジア在住の貿易商人も、アヘンに手を出すようになった。その貿易商人達はイギリスの議会を抱き込み、東インド会社が中国との貿易を独占していることに反対し始めた。1829年には、まず、東インド会社による茶以外の中国との貿易の独占を廃止し、1833年にはとうとう茶の貿易の独占を廃止することにも成功した。

だがそれ以前に、広東にはイギリス系の個人商社だけで66社あり、他の国の商社もあったので、東インド会社による中国貿易の独占という実態はもっと早い時期から無視され、中には東インド会社をしのぐような個人商社も出現していたと考えられる。

そんな個人商社の中から、1840年に巧妙にアヘン戦争を仕組み、中国貿易を支配する会社が生まれた。それらの会社は戦後の賠償金を得て、中国に香港を割譲させ、貿易自由港となった香港に移り住んだ。初代の香港総督にはポッティンジャーさんが任命され、第二代の香港総督にはサー・ジョン・デイヴィスさんがなった。二人とも東インド会社とのつながりの深い人達だったので、東インド会社はちゃっかり御輿の上には乗っていたことになる。

そんな経緯なので、東インド会社が解散する時には、副業の方の貿易会社としての分け前は既に「誰か」が先取りしていたということだ。その「誰か」に興味があるのは、その「誰か」の次の標的が、原善三郎のいた頃の日本だったと考えられるからだ。

写真は、Edinburghのロイヤル・マイルの西のはずれにあるHolyroodhouse宮殿である。この宮殿は16世紀のJames Ⅳ以来、現在もロイヤル・ファミリーが時折滞在する。
 
セポイの反乱後にインド女帝となったビクトリア女王は、「あのインドは私のものだ、国民は皆そう思っていることでしょう」と言ったとされる(Brian Gardner、イギリス東インド会社、396p)。
 
東インド会社の本業の方は、この宮殿に時折滞在する方が受け継いでいたようだ。

参考文献

1)浅田實:東インド会社 巨大商業資本の盛衰、講談社現代新書、2007

2)ブライアン・ガードナー、浜本正夫訳:イギリス東インド会社、リブロポート、1989