のむけはえぐすり 第98弾 原善三郎の話 その76 ジャーディン・マセソン商会 鹿鳴館のメニュー ― 2008年08月02日 05時24分30秒
のむけはえぐすり 第98弾
原善三郎の話 その76 ジャーディン・マセソン商会 鹿鳴館のメニュー
日本にアヘンが持ち込まれなかったのは、当時の政府のお役人が頑張ったからだという人がいる。
日本が開国して以来、お役人が最も警戒したのはアヘンの密輸だった。修交通商条約にアヘンの輸入禁止を盛り込んだものの、現に1868年(明治元年)長崎ではアヘンによって女郎が死んでいる。横浜のジャーディン・マセソン商会の清国人が、アヘンを吸っているという噂もあった。
当時のお役人の対応は早かった。1870年(明治3年)には「販売鴉片烟律」などの法律を作り、アヘンを水際で取り締まろうとした。
だが、当時は日本でも大阪の北摂地方でケシが栽培され、大阪の薬問屋街の道修(どしょう)町で「一粒金丹」などという商品名でアヘンが販売されていた。取り締まりのための法律を作っても、日本産と外国産の区別などできないし、ジェネリックなどと言われればそれまでだ。そこで、1875年(明治8年)、お役人は「阿片専売法」を制定し、アヘンを一括管理することにした。
それでもアヘンは持ち込まれた。
横浜に住んでいたイギリス商人Hartley John(ハルトレー)が「日英通商条約付属貿易章程第2条」に違反し、アヘンを二度に渡って持ち込み、横浜税関によって摘発される事件が起きた。最初は1877年(明治10年)12月14日に20ポンドのアヘン、二回目は性懲りもなく年が明けた1月8日に12ポンドのアヘンを、持ち込もうとした。
横浜税官長の本野盛亨さんが告訴人になって、神奈川のイギリス領事裁判所に訴えた。裁判所のウイルキンソン法務書記官は、初めの事件については「このアヘンは薬用アヘンだから、日英条約章程にいうアヘンではない」と無罪を言い渡した。
二度目の事件については、「本件のアヘンは条約章程にいうアヘンの密輸入と認めるので、アヘン1斤につき銀15ドル、全部で165ドルの罰金を支払え」と判決を言い渡した。実刑もつかず、刑が軽すぎて不満なのに、「但し、包装函に表記したゴムは被告人に返付すること」と、訳の分からない付け足しがあった。また使えるように、それを戻せというように聞こえる。要するに、素直に非は認めたくないらしい。
さすがに、イギリスのソールズベリー外相や外務省の責任者も、この判決は妥当ではないとコメントしたが、それを聞いて日本のお役人は、いつもの「熟慮の結果」、英国最高法院への上告をとりやめた。
それ以外に密輸入事件はなかったかと思い、外交史料館で調べてみた。調べ方など全く分からなかったのだが、現代の外務省のお役人が懇切丁寧に教えてくださった。
外交史料館の史料は、「外務省記録総目録」にまとめられている。目録は2巻に分かれ、私が探したのは「戦前編、第1巻、明治大正編」であった。一般の本は、章、節に段組されるが、外務省は独特で、門、項になっている。その「3門通商、5項密輸出入、6項禁輸出入」の外交文書の史料の目録を調べてみた。中には、「英吉利国商船ロンニメート並びにオーサカ号羽後國能代及び土崎港に於いて密商嫌疑に係わる事実取調一件」などという史料はあるものの、アヘン関係のものはなさそうだった。ハルトレー事件関係の外交史料もなかったのは、集録されるには古すぎる事件だったのかも知れない。
ハルトレー事件の判決を受け、お役人たちは治外法権を認めた不平等条約を悔しがった。条約改正の必要性を痛感し、改正に向けさまざまな努力が払われることになった。日本の近代化を誇示するための社交場、鹿鳴館もその一つだった。
外交史料館で撮った写真の左は、明治17年の天長節に行われた鹿鳴館の晩餐会のメニューで、右は明治26年の天長節の晩餐会の演奏曲目と舞踏メモ帳である。晩餐会のメニューを見ると、牡蠣、魚肉、獣肉、鶏肉などの料理が10品も出され、最後は珈琲で締めくくられている。
こんなにご馳走したのに、条約改正を達成するには、1894年(明治27年)の日英通商航海条約まで待たなければならなかった。
参考文献 1)日本外交史辞典編纂委員会:日本外交史辞典、1976 2)倉橋正直:日本の阿片戦略 隠された国家犯罪、共栄書房、1996
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