のむけはえぐすり 第106弾 原善三郎の話 ジャーディン・マセソン商会 蓬莱社2008年10月14日 21時15分27秒

のむけはえぐすり  第106弾  原善三郎の話  ジャーディン・マセソン商会  蓬莱社

のむけはえぐすり  第106弾

原善三郎の話  ジャーディン・マセソン商会  蓬莱社

 

しばらく、Keswickさんを主人公にした、“小説仕立て”で話は進む。

 

「James君、やはり、君に横浜に行って貰うことにした」  

1875年、香港のジャーディン・マセソン商会のtaipanの部屋で、William Keswickは左手でヒゲを撫でながら話している。悩んだ時にヒゲを撫でるこの癖が、近頃は頻繁に見られるようになっていた。

 

W. Keswickが窓の外に目をやると、7月の暑い日差しの中、先ほどまで善後策を協議していた香港上海銀行(HSBC)のビルが見える。

 

W. Keswickが上海に初めて来た時に、taipanの心構えを教えてくれたのは、Wittallさんだった。W. Keswickは今、そのWittallさんを横浜支店長の座から更迭しようとしている。その役目を頼めるのは、やはり弟のJamesしかいないだろう。それ以外に、Wittallさんの名誉は守られないと思ったからだ。

 

「Wittallさんが横浜で苦境に陥っていることが分かったのは4ヶ月前のことだ」と、W. KeswickはJamesにこれまでの経過を話し始めた。

 

横浜支店の帳簿に疑念を抱いたW. Keswickは、横浜支店から高島炭坑の勘定を香港本店に移すようにWittallさんに求めた。すると、炭坑の勘定に合わせて、蓬莱社と後藤象二郎個人への貸付残高が79万ドルと記帳されてきた。それまでW. Keswickが把握していた高島炭坑への貸付金は、炭坑の払い下げ時の即納金の20万ドルだけのはずだった。調べてみると、貸付金はマーカンタイル銀行やHSBCからの借入金で賄われ、金円勘定というわけの分からない勘定項目で処理されていた。HSBCの監査をすり抜けるための、帳簿上の操作は巧妙だった。

 

とにかく、後藤象二郎ひとりに振り回された2年間だった。今にして思えば、1874年12月にWittallさんが後藤を香港に連れてやって来たあの時から、自信満々に話す後藤という男には危うさがあった。    

後藤は土佐の出身だと言うが、薩長に主導権を握られた新政府の中では、主流からはずれていた。後藤は不満のはけ口を、商売で儲け、藩閥政府を見返すことに求めていた。そんなものは、大隈重信が言うように、「士族の商売」だった。ハナから相手にすべき男ではなかったのだ。

 

後藤が1873年(明治6年)に征韓論に敗れ、官界を去った時もそうだ。後藤はそれ以前から、蓬莱社を立ち上げる準備していた。征韓論は、後藤が辞めるための格好の口実になっただけだ。

 

蓬莱社の話は、1869年(明治2年)に後藤が大阪府知事だった時に、大阪の豪商たちに焚きつけられたようだ。その時だって、住友本邸の一隅を借りて住んでいた。冠をかぶりながら、平気でよその家のスモモ(李)を採りに行く男だった。

 

蓬莱舎設立の資本金340万円の予定も、旧藩債の下げ渡し金の当てがはずれ、どんどん減額されていった。最大の出資予定者である鴻池善右衛門さんからして、120万円の予定が2万円になっている。それでも後藤は、旧華族や為替方御三家のひとつ京都の島田組や士族仲間の竹内綱などから出資を募り、蓬莱社を立ち上げた。だが、為替方御三家の放漫な官金運用を警戒した政府の「官金抵当増額令」によって、間もなく島田組は破産し、さらに資金計画は狂っていった。そんな政府の方針転換を、後藤が知らなかったというのも迂闊な話だ。

 

予定した出資金をほとんど集めることができないまま、蓬莱社は発足した。それなのに、蒸気船を5隻も所有し、地方への物資輸送や海外貿易を行い、製紙業や製糖業にも手を広げていった。その都度、Wittallさんは独断で貸付金を積み増し、初めの損を取り返そうと深みにはまっていった。

 

Wittallさんは後藤や蓬莱社への貸付金を回収するのに苦慮していた。だからこそ、後藤から持ち込まれた高島炭坑の払い下げ話に飛びついたのだろう。

 

W. Keswickの話を聞き終えると、「Wittallさんは私が来るのを、きっと待っていると思います」と最後に言って、Jamesは部屋を出て行った。

 

一人になったW. Keswickは歴代のtaipanの肖像画を眺めた。そこには、Wittallさんが上海時代と同じような厳しい顔で、「William、それがtaipanの仕事なンだヨ」と、語りかけているように見えた。    

遠くの空から、「ドーン」と一発、大砲の音が聞こえてきた。  

「ウ~ン、もう正午になったか、昼飯どうしよう!?」  

W. Keswickは、無意識にヒゲを撫でていた。

 

写真は、明治5年に建てられた東京の木挽町にあった蓬莱社のビルである。蓬莱社は1876年(明治9年)には倒産し、この建物は後に国立第15銀行となり、明治16年に取り壊された。    

参考文献

1)石井寛治:近代日本とイギリス資本  ジャーディン・マセソン商会を中心に、前出

2)小林正彬:後藤象二郎より買収以後の三菱高島炭坑、前出

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