のむけはえぐすり 第108弾 原善三郎の話 その86 神戸取材旅行 神戸旧居留地83番2008年11月03日 18時25分00秒

ギリシャ風の円柱がならんでいる神戸市立博物館

のむけはえぐすり  第108弾

原善三郎の話  その86 神戸取材旅行  神戸旧居留地83番

 

東アジア最大の商社、ジャーディン・マセソン商会が1862年(文久2年)に横浜で貸与された土地は、関内居留地の一番であった。香港でもLot. 1で、銅鑼湾の商業の一等地に位置していた。

 

安政の5カ国条約によって横浜と同じように開港された神戸にも、外国人居留地があった。当然、ジャーディン・マセソン商会は神戸の居留地でも一等地にあるのだろうと思いながら、今回訪ねてみることにした。

 

新幹線の新神戸駅から地下鉄で一つ目、三宮駅から、大丸百貨店に向かって歩く。江戸町筋、京町筋、浪速町筋、播磨町筋、明石町筋と、関西の情緒たっぷりの名前がついた町筋を通り過ぎる。

 

明石町筋の居留地の入り口に、地名の由来となった小さな三宮神社がある。境内には「史蹟 神戸事件発祥地」という石碑がある。事件は開港されたばかりの1868年(慶応4年)に起きた。神戸の守備を命じられた岡山備前藩の家老の一行がここに差し掛かった時、隊列を強引に横切ったアメリカ水兵がいた。これを制止しようとした藩士と、居合わせたイギリス兵との間で、撃ち合いになった。誰が傷ついたわけでもないが、外交事件に発展し、家老は謹慎、藩士瀧善三郎は切腹ということで決着した事件である。横浜の生麦事件から6年も経っているのに、まだこんなことが起きていたことに驚く。

 

三宮神社の筋向かいに、大丸百貨店がある。今から20年ほど前に、居留地38番の倉庫を改造し、居留地ブームの発祥となった場所である。そこから海岸まで石造りのビルが続き、ところどころに大正から昭和の初期に建てられた古そうなビルがある。見つけるたびに近づいてみると、例えば居留地5番といった標識があり、そこが商船三井ビルだと分かる。商船三井ビルの筋を挟んだ海岸通の居留地3番には、海岸ビルと呼ばれる旧三井物産神戸支店がある。

 

神戸の居留地は一区画が200から300坪と広く、全体で126区画ある。中ほどにメインロードの京町筋があり、街全体が整然と区切られている。横浜のように一儲けをたくらむ怪しげな商人たちが先を争って住み着いた居留地に比べると、9年遅れて開設された神戸居留地は、それまでの居留地建設の経験が生かされ、それなりの商人たちが集まっていたので、横浜と違ってゆったりとした街づくりがなされたようだ。

 

海岸通をたどると、居留地7番に旧チャータード銀行ビルがある。中はキューバのホテル風に改造され、レストランE. H. BANKになっている。ひっきりなしに訪れる客と順番待ちをしながら、昨夜調べたジャーディン・マセソン商会の居留地の番地を確かめる。83番、今はKDC神戸ビルとなっているらしい。ここからは大分距離のある番地のようだ。神戸開港から20年経って、1888年11月(明治21年)にジャーディン・マセソン商会が進出してきた時には、そこでブラウン商会、コーンズ商会、バターフィールド・アンド・スワイヤー商会などと競合しながら、綿製品などを扱う商売をしていた。

 

食事を終え、裏の神戸市立博物館へと向かう。写真のようにギリシャ風の円柱がならんでいる博物館の建物は、もともとは1935年(昭和10年)に建てられた旧正金銀行神戸支店である。京町筋にある玄関から中に入ると天井が高く、画家のコローの展示会が開かれていてごった返している。この博物館には、私の興味を引く「三角縁神獣鏡」が展示されている。卑弥呼が西暦240年に魏の皇帝から賜ったとされる鏡だ。

 

それはさておき、館内を見渡すと1階に明治30年頃の居留地を再現した模型が展示されている。先ほどのアメリカ領事館の隣の居留地2番はHSBC、26番はブラウン商会、38番には行事局があったと紹介されている。その模型の横には、もう少し年代の新しい居留地が再現されている。メイン通りの京町筋を挟んで、博物館の側は先ほど通ってきた白い石造りの大きなビルが並び、反対側には煉瓦造りの小ぶりな建物が並んでいる。どこかにジャーディン・マセソン商会があるはずだが、分からない。

 

博物館を出て、ふと京町筋を挟んだ正面の近代的な建物を見ると、KDC神戸ビルと書かれている。83番、ジャーディン・マセソン商会があったところだ。どういう加減で付けられたのか、番号の付け方が複雑なようだ。その一画には横浜の日本大通にある日本銀行に似た平屋の建物があり、近づいて確かめるとやはり日本銀行の神戸支店であった。

 

結局、ジャーディン・マセソン商会の83番は、海岸通にはなかった。  

海岸通にあった12の区画は500坪から600坪の広さがあり、バンドと呼ばれ、当時から別格であった。1869年にバンドに建設ラッシュがあった頃、1番はアスピノール・コーンズ商会、2番がウオルシュ商会で、83番の海岸に面したバンドには11番があった。この11番は第1回の競売でグラバー商会が高値で落札した地所で、ジャーディン・マセソン商会の元長崎支店長のK. R. McKenzieさんが駐在していた。となりの12番は最も港に近く、ドイツのKniffler商会が最高値で落札した所だ。

 

神戸のジャーディン・マセソン商会は地番こそ83番だが、そこは為替の正金銀行と通貨の日本銀行に囲まれた一等地であったと言える。それは、ジャーディン・マセソン商会がここに居を構えた1888年という時期が、商会の活動が自己勘定による取引から手数料取引へと変化し、金融支配を目指した時期と重なっているからだ。  

ジャーディン・マセソン商会自らが海に出て物を売る時代は、終わったということだ。

 

参考文献

1)神戸外国人居留地研究会:神戸と居留地 多文化共生都市の原像、神戸新聞総合出版センター、2005