のむけはえぐすり 第109弾 原善三郎の話 その87 神戸取材旅行 北野異人館前2008年11月22日 06時45分22秒

煉瓦で造られたジャーディン・マセソン商会の門

のむけはえぐすり  第109弾

原善三郎の話  その87 神戸取材旅行  北野異人館前

 

横浜にも神戸にも山手には、外国人が住んでいた異人館がある。

 

安政の5カ国条約によって開港された横浜、長崎、神戸、函館、新潟では、外国人は日本政府から土地を貸与され、限られた居留地の中でだけ居住と営業が許された。

 

1859年(安政6年)に開港された横浜では、1866年(慶応2年)の大火の後、幕府と外国公使団との約定によって山手が居留地に編入され、関内居留地は商工業地区、山手居留地は住宅地区として街並みが造られた。

 

1868年(慶応3年)、横浜の開港から9年遅れて開港された神戸は、当初、居留地が準備されていなかった。泥縄式に造られた居留地が手狭になると、外国人は居留地の外に日本人から土地家屋を借りて住むことが許された。その結果、日本人と外国人が混在する地域が居留区を取り巻く北野、生田、栄町などに生まれ、「雑居地」と呼ばれていた。そのなごりで、神戸の山手の北野には、異人館が残っている。

 

北野の異人館を訪ねてみる。  

新神戸駅から緩やかな坂を登る。右に折れて急坂を上ると、薄緑の板塀に囲まれ、緑に縁取られた白い板壁の2階建ての家がある。Sassoon商会の館で、今は結婚式場になっている。Sassoon商会はイラン出身のユダヤ系商社で、上海でアヘン戦争に一役買い、ジャーディン・マセソン商会と中国のアヘン貿易で競合していた。旧居留地にある有名な木造の15番館は、1880年(明治13年)に建てられた時はSassoon商会だった。神戸市立博物館の旧正金銀行神戸支店を挟んで、ジャーディン・マセソン商会は京町筋83番、Sassoon商会は浪速町筋15番。ライバル同士、立地条件では負けてはいない。

 

さらに急坂を上ると、旧中国領事館がある。玄関の両側には牙を向いた亀の像が置かれている。中に入ると、玄関横に青い服を着た清の高官の肖像画がある。黄色が皇帝のはずだから、それなりに偉い人のようだ。室内には中国古代の遺物に混じって、豪華な彫り物や螺鈿の調度品が溢れている。海を望む書斎には、見事な透かし彫りの窓から、秋の暖かな日差しが降り注いでいる。ここは汪兆銘政権時代の一時期に領事館だったそうで、汪兆銘さんが国民党と離合集散を繰り返した挙げ句、南京政府を樹立し、日本の意のままになっていったことを思い出す。

 

そこから中庭を伝い、「北野外国人倶楽部」に入る。当時の会員制倶楽部があったところで、16、17世紀にイギリスやフランスの貴族が実際に使った調度品が並べられている。大きな暖炉の周りには、銅製のフライパンが何種類も錆一つなく壁に掛けられている。

 

隣の「山手八番館」は、まるで美術館のようだ。ヨーロッパ中世の鎧や、ガンダーラの仏像、殷の青銅剣、タイやカンボジアの仏像など、現代ならば文化財保護法に問われそうな美術品が、個人の屋敷の中に惜しげもなく置かれている。2階には槍を持ったドン・キホーテと馬のロシナンテ、メタボなサンチョ・パンサの等身大の像がある。東西の文化が雑居した不思議な空間だが、日本のものはない。

 

少し歩いて、「うろこの家」に入る。鱗状のスレートで覆われた外壁が名前の由来らしく、外観は中世のドイツのお城のようだ。腰が抜け、何とか立ち上がろうともがいているような姿で、イノシシの銅像が中庭に置かれている。

 

そこから歩いて5分ほどで、小さな北野町広場に出る。広場に面して、30年ほど前に連続テレビ小説の舞台になった「風見鶏の館」がある。館内は観光客で溢れ、ゆっくり見ることもできず、人混みに押し出されるように外に出る。

 

次の「萌葱の家」に行くために、広場に隣接した北野町中公園を通る。その入り口に、写真のような煉瓦で造られたジャーディン・マセソン商会の門がある。この門が造られたのは1904年(明治37年)頃で、居留地が返還された1899年(明治32年)よりも後である。1978年(昭和53年)に、神戸市によって京町筋の旧居留地83番から、この場所に移されたという。

 

それを記す小さな表示に、足を止める人はいない。それも当然な話で、開港150周年を来年に控えてお祭り気分で盛り上がる横浜でさえ、ジャーディン・マセソン商会を知る人はほとんどいないからだ。山下公園の英一番にシルクホテルがあったことを知る人はいても、そこにかつて東アジア最大のイギリス商社の支店があったことを知る人は少ない。

 

明治32年7月1日、各地の居留地が日本に返還された。  

その日、神戸市内の民家には国旗が掲げられ、提灯が吊され、役所、銀行、会社は休業し、学校はすべて休校となった。北野では自国と日の丸の旗を交叉して掲げる外国人が多かったが、旧居留地では国旗が掲げられることもなく、休業する外国商社もなかったと、神戸又新日報が報じている。

 

北野の異人館に両国の旗が揚がったのは、そこが居留地ではなく、雑居地だったからだ。

 

参考文献

1)神戸外国人居留地研究会:神戸と居留地 多文化共生都市の原像、前出