ああ、勘違い!”ジョニー・ビー・グッド”2009年01月12日 02時07分53秒

ああ、勘違い!”ジョニー・ビー・グッド”

ああ、勘違い!”ジョニー・ビー・グッド”

チャック・ベリーの名曲で”ジョニー・ビー・グッド”というのがあります。ジミ・ヘンも演っていたし、ほとんどのロック・ミュージシャンがカバーしているので超有名な曲ですが・・・何故か僕はこの曲の意味は(タイトルは)”ジョニー(少年)よ、いい子であれ”だと思っていました。

歌詞は;

Way down in Louisiana close to New Orleans

Way back up in the woods among the evergreens

There stood a log cabin made of earth and wood

Where lived a country boy name of Johnny B. Goode

He never ever learned to read or write so well

But he could play the guitar like ringing a bell

Go go

Go Johnny go, go

Go Johnny go, go

Go Johnny go, go

Johnny B. Goode

「ニューオリンズの田舎町に ジョニー・ビー・グッドという少年がいて、彼はギターが上手なんだ。頑張れジョニー・ビー・グッド!」というものだったんですが何故か歌詞の意味は全然考えていなかった。

今日夜中のワールド・ロック・フェスティバルを見ていてタイトル曲が英語で出たのをみて初めて気づいた。なんと30数年振りに訂正をすることになった^^;)

同じような話で20数年前に見た映画;”プライベート・ベンジャミン”

これも”ベンジャミンの私生活”みたいな意味だとばかり思っていた。

あらすじは「2度の結婚に失敗した世間知らずの富豪の娘が、ひょんなことから軍隊に入り、騒動を起こしながらも自我を確立していく姿を描くコメディ映画。」

ところがスピルバーグとトム・ハンクスで98年度アカデミー賞最優秀監督賞を受賞した作品”プライベート・ライアン”で初めて「プライベートに一等兵」という意味があることを知ったのでした。

思いこみというのは恐ろしいですね。ちょっと辞書を引くとか歌詞をちゃんと読めばわかるんだけど(^_^;;

写真はフライペンにある小太鼓

第115弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 伽耶の滅亡2009年01月12日 19時06分16秒

国立光州博物館に展示されていた百済式土器

第115弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人 伽耶の滅亡

 

古代に朝鮮半島から帰化人が集団で渡来した5世紀末から6世紀初、日本では雄略天皇から欽明天皇の頃に、朝鮮半島では何が起きていたのだろうか?

 

日本で雄略天皇(第21代)から欽明天皇(29)というと、470年頃から570年頃になる。それ以前に、5世紀初から「倭の五王」が何度も使者を送ってきたことが、中国の「宋書」に記されている。「倭の五王」をどの天皇に比定するかは諸説あるが、最後の倭王武を雄略天皇とすることでは概ね一致している。

 

その間、「倭の五王」が宋からいただいた称号は、「安東将軍」に始まり、徐々に位が上がり、倭王武は新羅、任那、加羅を含めた「六国諸軍事」の将軍号をいただいている。実状を知らない宋の役人が、日本から言われるままに新羅も伽耶も入れてしまったらしい。

 

その宋も479年には滅び、南朝は斉、そして梁へと変わる。百済は475年に熊津(公州)に遷都する。日本では、武烈天皇(25)の王位継承者が途絶し、応神天皇の五世の孫と称する継体天皇(26)が福井県の三国から長年かけて大和に入って即位する。  

この頃から日本では伽耶より百済の方が重視されるようになり、512年には大伴金村が任那4県、己汶(コモン)、帯沙(タイサ)を百済に「与えた」とされている。

 

欽明天皇(29)の550年代になると、百済は戦乱の南朝から逃れてきた南朝出身の五経、暦、易、医などの博士を日本へ交替で派遣し、代わりに日本は百済に佐伯連らの援軍が送っている。百済に派遣された武人の中には、百済の官位に就くものもいた。    

この頃に渡来した帰化人集団は、先に安羅伽耶国から来ていた東漢(やまとのあや)が連れてくる陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、錦部(にしごり)などの技術集団で、大和の武市郡に定住した。  これとは別に、先に百済から来ていた西文(かわちのふみ)、武生(たけふ)、蔵(くら)氏に始まる西漢(かわちのあや)に属する百済からの帰化人が、外交文書や籍帳などの作成に詳しい集団として、河内の古市や丹比郡に定住した。

 

話を朝鮮半島に戻す。  

朴天秀さんは、伽耶諸国の盛衰を考古学的な発掘資料から考証していく。

 

金官伽耶の大成洞古墳群の副葬品には、4世紀以降、それまでの九州産広形銅矛や鏡とは違う、畿内産の巴形銅器がみられるようになるという。逆に、同時期の日本の古墳からは金官伽耶産の鉄製品、馬具、筒形銅器がみられることから、大和朝廷と金官伽耶が同盟関係にあったと考えるのだ。  

4世紀末から、洛東江を挟んだ東萊地区の古墳に新羅産の副葬品が多くなることから、新羅の浸透が身近に迫ったと推測する。5世紀に入ると大型古墳が造られなくなり、6世紀以降には古墳群が内陸へ移動したことから、金官伽耶の衰退が確実に進んだとみる。  

事実、532年には金官伽耶は新羅に降った。

 

安羅伽耶は洛東江と南江が合流する地域を支配し、5~6世紀の造営された末山里古墳群は伽耶でも有数の規模を誇る。小伽耶や大伽耶に分布していた安羅伽耶式土器が、5世紀初からみられなくなるので、その頃に安羅伽耶の衰退が始まったとみる。安羅伽耶式の初期須恵器が、日本の大和地方ではなく、四国地方に分布していることから、地方豪族と独自の交流があったと考える。  

写真は国立光州博物館に展示されていた土器である。これは光州で撮った写真なので百済式土器ということなのだろうが、表面の模様、口の広さや高さ、本体部分のふくらみ具合などで、何々式と判断するようだ。  

562年、安羅伽耶は大伽耶とともに新羅によって滅亡する。

 

小伽耶の5~6世紀の代表的する遺跡に、松鶴洞古墳群がある。その副葬品に4世紀にはみられた安羅伽耶式土器が、5世紀には小伽耶式土器にかわり、5世紀中頃からは大伽耶の文物が出土するという。小伽耶が大伽耶の圏内に組み込まれていったとみるのだが、562年、小伽耶も大伽耶とともに滅亡する。

 

大伽耶の5~6世紀の遺跡は、伽耶山から続く丘陵にある池山洞古墳群である。伽耶地方最大規模の古墳であり、周辺伽耶諸国への大伽耶式土器の波及をみると、大伽耶がそれまでの安羅伽耶や小伽耶にかわって伽耶の盟主的な存在になっていたとみる。大伽耶が支配した地域には洛東江へと続く会川、黄江へと続く安林川、河東へと出る蟾津江(ソムジンガン)など、多くの河川がある。日本の内陸の古墳に大伽耶の副葬品がみられるのは、これらの河川を介した大伽耶と日本の福井平野や若狭との交流があり、そこから日本の各地に広がったと考える。    

大伽耶は6世紀前半に百済との間で、任那4県と己汶、帯沙の支配を巡って攻防を繰り返す。この時期、百済にも大伽耶にも倭の武人が被葬者と思われる古墳が出現するという。512年に、大伴金村が百済に任那4県、己汶、帯沙を「与えた」とする日本書紀の記述を意識した話のようだ。朴さんは己汶・帯沙が蟾津江水系にあったと考えており、ここが百済に占領されたことで、大伽耶の衰退が始まったとみている。

 

今回の話からは、朝鮮半島からの第2波の集団的な帰化があった5世紀末から6世紀初には、金官伽耶が新羅に降り、かわって大伽耶が伽耶諸国の盟主となって百済と新羅に対抗するが、結局、伽耶諸国が百済に圧迫され、新羅によって滅びた激動期であることが分かった。

 

参考文献

1)武光誠:韓国と日本の歴史地図 民族の源流をたどる、青春出版社、2002 2)朴天秀:伽耶と倭、前出