第121弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 新撰姓氏録2009年03月17日 19時58分24秒

のむけはえぐすり;当麻寺辺りからみた二上山(ふたがみやま)

第121弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 新撰姓氏録

 弥生時代に海を渡り日本海側に住み着いた人を、帰化人とは言わない。

 平野邦雄氏によれば、帰化という言葉は日本書紀や古事記にもあり、「オノズカラマウク」と読ませていたという。だから、古代の帰化人とは、自らの意志でやって来て、それを国が受け入れ、内民化の手続きを経て、自国に帰属させた人だとしている。

 帰化人のほとんどは朝鮮半島からだが、実にさまざまな階層の人たちが来ている。王族、 貴族、官僚は勿論、実務的な下級官人もいる。一緒についてきた農民たちもいる。なかには、専門分野の技術者もいる。早い頃の帰化人たちは、大和や畿内に住まわされた。その数は、私たちが思っている以上に多い。だから、かつて私が奈良や飛鳥の古墳や寺社仏閣を訪ねた時に、至る所に朝鮮半島の匂いがしたのだと、今にして思い当たる。

 なんという帰化人がどこから来たのかを調べるのに、新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)という本がある。平安京に遷都した桓武天皇が編纂を命じ、嵯峨天皇の815年(弘仁6年)に完成したものだ。現物は存在しないが、畿内にいた全氏族の出自や祖先、氏名の由来、枝分かれした氏族の様子がまとめられている。

 新撰姓氏録によれば、当時、畿内にはさまざまな出自の氏族が1182氏いたとされる。それを出自によって三つに分類している。
 ひとつは「皇別」といい、神武天皇以来の天皇家から別れた氏族で、清原、橘、源など335氏を数えている。皇別は、さらに真人の姓を持つ皇親と、それ以外に分けられている。
 次は「神別」。神武天皇以前の神代に起源を持つ氏族で、404氏を数えている。このうち、246氏は天神、藤原、大中臣などのように、ニニギノミコトが天孫降臨した時に付き添ってきた子孫である。128氏は天孫、尾張、出雲などのように、ニニギノミコトから三代のうちに分かれた氏族であり、残りの30氏は地祇、安曇、弓削などのように、天孫降臨以前から土着していた氏族である。

 どこにも属さない氏族が117あるが、問題は、最後の「諸蕃」である。「諸蕃」は帰化人の氏族で、326氏ある。実に、畿内の全氏族のうち、30.6%が帰化氏族であったことになる。

 それが実際にはどのくらいの人数になるかというと、帰化人の代表的な秦(はた)氏の記録から推定している。秦氏は33氏に分かれ、雄略天皇の頃には全国で92部、18670人いたとされる。欽明天皇の頃になると、753戸、16万人いたと考えられ、当時の全人口を500万とすると、秦一族だけで全人口の約3%を占める計算だ。
 
 「どこから?」ということでは、中国の漢が163で、百済が104、高句麗が41、新羅が9、任那が9となっている。だが、秦氏は秦の始皇帝がルーツだと自慢しているので、漢に分類されてはいるが、実際は新羅や加羅から来たようだ。漢(あや)氏も後漢の霊帝の子孫だと名乗ってはいるが、これも百済の出身らしい。畿内にはもうひとつ、西文(にしのふみ)氏、後に西漢(かわちのあや)と呼ばれる代表的な氏族がいる。こちらは素直に、百済王が日本に派遣した王仁(わに)を始祖だと言っている。
 
 帰化人の中でも草分け的な存在は、秦氏と漢氏である。日本書紀の「応神紀」に、秦氏の始祖、「弓月君」が百二十県の民を率いて帰化し、また漢(あや)氏の祖、「阿知使主(あちのおみ)」とその子「都加使主(つかのおみ)」が党類17県を連れて帰化してきたと書かれている。ところが、似たような記載は「雄略紀」にもあるというのだ。登場人物を比定すると5世紀末の「雄略紀」に書かれていることが史実で、「応神紀」の記述は後世の脚色と見られているが、渡来そのものは4世紀頃から始まっていたことを示唆している。

 渡来したばかりの秦氏と漢氏は「秦の民」や「漢部」と呼ばれ、臣(おみ)や連(むらじ)に仕えていた。それが5世紀末に集められ、「秦酒君(はたのさけのきみ)」、「漢直(あやのあたい)」という姓氏を賜ったのが、帰化氏族の始まりだとされている。

 その後、漢氏は天皇に進言し、故国にいる専門的な技術に秀で、才能のあるものを呼び寄せた。その時にやってきた人々を「今来漢人(いまきのあやひと)」、あるいは「百済才伎(くだらのてひと)」といい、宮廷のさまざまな分野で「部」を組織し、世襲していった。鞍作(くらつくり)、靭負(ゆげい)、錦織(にしごり)などのように、それがそのまま氏の名前になって、「負名氏(なおいのうじ)」と呼ばれている。
 
 その後も、大和朝廷は帰化人の改姓を積極的に促した。
 724年には「宮廷に仕える帰化人には一人二人でも姓名を賜る」として、百済人には角、麻田、椎野など、高句麗人には清原などの姓を賜った(改賜姓)。758年には「改姓を願い出るものがあれば全て許可する」とし、中山、松井、清田、小川、朝日などの姓が生まれた。さらに、799年には東国に移住した農民たちにまで改姓を広げ、甲斐の百済系からは石川の姓が、信濃の高句麗系からは須々岐、村上、玉井などの姓が生まれた。
 こうして、帰化人たちはたくさんの氏姓を持つようになり、日本人との融和が進んでいった。

 写真は、当麻寺辺りからみた二上山(ふたがみやま)である。二上山を挟んで、大阪の河内には西漢(かわちのあや)氏、奈良盆地の飛鳥には漢氏の本拠地がある。どちらも古代の朝鮮半島の香りが、色濃く漂う場所だ。

参考文献
1)平野邦雄:帰化人と古代国家、吉川弘文館、2007
2)水野祐:高句麗壁画 古墳と帰化人、雄山閣、1972

コメント

_ まりあぱぱ ― 2009年03月22日 19時33分09秒

いつも、のむけ氏の研究レポートには関心させられます。
秦氏と漢氏ですが、『はたし』と『かんし』と読むのでしょうか? 漢部を『あやべ』と読むような記憶があるので・・・  漢氏は『あやし?』  疑問がわきあがり、夜も寝られそうにありません。(古い?) のむけ氏、教えてください!

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