第133弾 のむけはえぐすり 高句麗の帰化人 大磯の高来神社2009年09月10日 19時53分25秒

神奈川県大磯町の城山公園にある町立郷土資料館内の明神丸

第133弾  のむけはえぐすり
高句麗の帰化人 大磯の高来神社

 写真は、神奈川県大磯町の城山公園にある町立郷土資料館内の明神丸である。満艦飾りの明神丸は、毎年夏に行われる高来神社の御船祭で、もう一艘の権現丸とともに交互に町中を巡る。

御船祭の最中、氏子によって祝い歌が歌われる。「そもそも権現丸の由来をことごとく尋ねれば・・・」で始まるその歌は、「昔、応神天皇の頃、唐土から八つの帆を上げた舟が大磯の浜にやって来た。一人の翁が、自分は高麗国の守護だったが、よこしまな国から逃れてこの地に来たので、守護になってやることにした」という内容である。

このいきなりやって来て押しつけがましい翁というのが、実は日本書紀の天智5年(666)の条に書かれている「二位玄武若光」のことである。高句麗王族であった若光は進調使として日本にやって来たというが、668年の高句麗滅亡の2年前という時が時だけに、やはり亡命というか、逃げてきたと考えるのが妥当だろう。

百済滅亡以来、帰化人たちは大和周辺に定住するのを禁じられ、地方へと向かわされていた。大磯に上陸した若光たちは近くの花水川流域を開墾し、箱根の駒ヶ岳から伊豆の辺りまで開発を広げていった。その功績によって、大宝3年(703)に従五位下であった若光は王(こきし)の姓を賜ったと、続日本紀に記されている。

若光にしても、何の足がかりもなく大磯に来たわけではないだろう。東京には狛江があるように、この辺りには以前から高句麗からの帰化人が住んでいたと考えられる。近くには秦野の地名もあるように、高句麗人がいたくらいなら、新羅や百済からの帰化人はもっといただろう。朝鮮半島からの帰化人たちは混在していたと考えられ、各地で遅れてきた高句麗からの帰化人は先住の帰化人との間に軋轢があったかも知れない。

そのためか、若光は新たな郡令として、霊亀2年(716)に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7国の高句麗人1799人をまとめて、武蔵国、今の埼玉県高麗への移住を命じられ、大磯から去っていった。

一部、大磯に残った高句麗の人々は、高麗山の山頂に神皇産霊尊(かみむすびのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る高麗権現社を建てた。同時に、同じ山頂に千手観音を祀った。この千手観音は、大磯の沖で漁師が漁をしていると、光る波間から一匹の蛸が現れ、舟の舳先に上がったかと思うと、千手観音に姿を変えたという言い伝えがある。養老元年(717)に、諸国を巡回していた行基がこの地に来て、千手観音を高麗権現社の本地仏と定めた。

本地垂迹説(ほんじすいじゃく)によって、山頂にあった高麗権現社と下宮にあった千手観音を併せて高麗寺となった。高麗寺は、9世紀には24の僧坊を持つ相模国有数の寺となり、周辺には一大寺院都市ができあがった。

その後、高麗寺に源頼朝が北条政子の安産祈願をしたということもあったが、地震で倒壊したり、城として使われたり、戦国時代の武田の北条攻めの折りには、城を落とせなかった腹いせに寺が焼かれたりして、何度か苦難に見舞われ衰退していった。

江戸時代になると、家康から寺領百石と山林が与えられ、再びにぎわいを取り戻した。明治になると、神仏分離令によって高麗寺は廃寺となり、高麗神社は郷社として残された。明治30年には大住郡高来郷にちなんで高来神社(たかく)と名を変え、今に残っている。

現代の高来神社は、大磯の第1国道から少し入った高麗山の麓にある。石造りの鳥居の奥に、阿吽の狛犬が置かれている。石畳の左には、何に使うのか、10mほどの長さの二本の木材が、専用の小屋に納められている。家康の命日の4月17日に行われる春の大祭には、高麗山山頂に向かう険しい男坂を、山御輿を担ぎ上げてはまた降ろす勇壮な行事がある。その時に出番でもあるのだろうか。社の前には、高来神社と書かれた葵のご紋入りの提灯が掲げられ、寺領百石の誇りは連綿と受け継がれている。

そんな高来神社の周辺に、これぞ高句麗の帰化人の名残といえるものを探してみた。

高麗山から湘南平、城山にかけての大磯丘陵の一帯に、500を超える横穴墓がある。横穴墓は古墳時代の終末期から奈良時代初期にかけて造られ、関東地方に多く見られる。神奈川県では、三浦半島と鎌倉の丘陵地帯とこの大磯丘陵の3カ所に横穴墓が偏在しているという。

その中の一つ、城山公園の駐車場から大磯町郷土資料館に向かう途中の小高い丘にある横穴墓を見てきた。城山の中腹に東西二群の横穴墓があり、東に3段12基、西に1段4基ある。古墳の入り口には柵が設けられ、中は天上がドームのようになっていて、奥行きは5mほど、大人が腰をかがめて入るほどの大きさである。中には何もないが、奥に石棺が置かれていた横穴墓もあったようで、資料館には石棺のレプリカと、横穴墓で発見された土師器や須恵器などの土器が展示されている。

 高来神社の近くには、釜口古墳がある。7世紀後半に造られた頃には墳丘で覆われた円墳であったが、今は切石を組み合わせた横穴式石室の入り口が露出している。横穴式石室は高句麗・百済の墓制だといわれているが、北部九州から広まって後期古墳時代には各地に分布しており、必ずしも高句麗の帰化人と直接結びつくものではないようだ。まして、近くの愛宕山下横穴墓から出土した長頸瓶は、新羅土器だといわれている(文献1、85p)。

結局、大磯で高句麗からの帰化人の名残を伝えていたのは、高来神社の名前と縁起だけだった。そう思いながら高来神社を去ろうとする私の後ろ姿を、阿吽の“狛犬”が笑って見ていた。
 
参考文献
1)広瀬和雄、池上悟編:武蔵と相模の古墳、雄山閣、2007
2)相原精次、三橋浩:関東古墳散歩、彩流社、2004
3)金達寿:古代朝鮮と日本文化 神々のふるさと、講談社学術文庫、2000