第134弾 のむけはえぐすり 高句麗の帰化人 日高の聖天院2009年09月18日 03時00分26秒

のむけはえぐすり 高句麗の帰化人 日高の聖天院

第134弾  のむけはえぐすり
高句麗の帰化人 日高の聖天院

 早速、霊亀2年(716)に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7国の高句麗人1799人をまとめ、若光が郡令として移り住んだとされる武蔵国高麗郡をたずねた。

 西武池袋線に乗り、所沢から入間を過ぎた辺りから、起伏に富んだ緑が多くなり、関東平野が終わりに近づいていると感じた。飯能駅で秩父方面に行く電車に乗り換えると、たった二駅なのに、高麗駅周辺はすっかり山に囲まれていた。高麗川の急な流れが、これから扇状地に出て暴れ回ろうとする直前の地形で、遠くに平地が見える。

 高麗川はこの辺りで何度も蛇行する。ひらがなの「ひ」の字のようにとりわけ大きく蛇行した中で、初めての稲作が行われたという。その形から巾着田と呼ばれ、現代では秋に曼珠沙華の群生する公園になっている。上流の橋から眺めると、蛇行する間の高低差を利用して、容易に川の水を田に引き込めそうな地形に見える。

 だが、高麗川には水害の年もあれば、逆に干魃の年もあったらしい。巾着田に向かう途中に、天保年間に水難を鎮めるために建てられた「水天の碑」がある。川に頼ってこの土地に住んでいた人々の祈りが込められている。

日本の秋には、田舎の田んぼの畦道に曼珠沙華が見られる。根に毒がある曼珠沙華は害虫を防ぐために田の畦道に植えられたというが、飢饉の時にはその根を何日も晒すことで非常食になったともいわれる。巾着田の真っ赤な曼珠沙華は自然に群生したのだろうか? 飢えた村人を何度も助けたことがあったのだろうか? 

カワセミ街道をなだらかに下りながら15分も歩くと、聖天院(しょうでんいん)の駐車場に着く。

写真のように、駐車場の広場には、石でできたチャンスンと呼ばれる「天下大将軍」の男神と「地下大将軍」の女神の像が並んでいる。チャンスンは韓国では村の境界にあり、村の守護神である。朝鮮半島とのつながりを演出するために、観光化してそこまでサービスしなくても、と思うような違和感があった。

山門の前には、聖天院の縁起を書いた掲示がある。そこには、若光が大磯からこの地に来て、周囲を開墾し産業を興し治績を治めたとある。それ以後、この地は明治29年まで高麗郡の中心であった。若光は没後、近くの高麗神社に祀られたが、冥福を祈るために侍念僧の勝楽がこの寺の創建を始めたという。志半ばに亡くなった勝楽の意志は弟子の弘仁と王の第3子の聖雲に受け継がれ、天平年間の750年頃にようやく完成した。正式には高麗山聖天院勝楽寺というが、若光が高句麗から持ってきた聖天歓喜仏を本尊にしているので、聖天院の名で知られている。その歓喜天も今は、秘仏となっているという。

高麗山の額が掲げられた山門は、天保年間に建てられ、柱も相当古く、継ぎ手には緑青が浮いている。山門を守っているのは、阿吽の仁王様ではなく、赤い塗料のはげた風神雷神である。

山門を入るとすぐ右に、黒御影石でできた大きな碑が目に入る。「高句麗若光王陵」と大書され、それを書いた「大韓民国 国務総理 金鐘泌」の名が記されている。横に韓国の陵墓でよく見る、等身大の羊の石像が置かれている。石碑の裏には壇紀4333年8月15日 施主尹炳道」とある。壇紀とは韓国の建国神話に基づいて作られた年号で、壇紀4333年は西暦2000年に当たる。尹炳道さんは秩父に住む在日1世で、聖天院にさまざまな貢献をした人らしく、聖天院の至る所に名前が残されている。

その碑の傍にムクゲの樹に守られた門があり、中に高麗王廟の額が掲げられた祠がある。祠に守られるように2mほどに石で積まれた素朴な塔が納められていて、これが若光の墓だという。切石を積み上げたのは、高句麗の王族の横穴式石室の一部を模したというところだろうか。

石段を登ると、平成12年に落成した真新しい本堂がある。傍らに、創立以来50世となる住職によって、本堂落慶と同時に行われた在日漢民族無縁仏供養塔建立の経緯が書かれた石碑がある。室町時代からは、聖天院も新しく不動明王を本尊として、真言宗の道場となっていたようだ。本堂は内も外も真新しく、金色に輝く堂の中に、黒い小さな不動明王像が納められていた。

 本堂の左に重要指定文化財の鐘がある。1261年に物部重季によって鋳造された古い鐘だが、お許しがあるので、一発、突かせていただく。澄んだ鐘の音が、ゆったりとした抑揚のある余韻を乗せて遠くまで響いた。合掌。
 
 鐘楼から階段を上った高台に、冠をかぶり、あごひげを蓄え、目をつり上げ、エキゾチックな服を着た男性の石像がある。台座には高句麗若光王と書かれている。晩年の若光は白髭が美しい老人だったようで、白髭明神とも呼ばれた。

 左の山裾を見ると、広場に大きな石碑と塔があり、そばに韓国風の五色の建物がある。行ってみると、途中の山裾に5人の石像が並んでいる。向かって右から、高句麗の最盛期の王である公開土大王、統一新羅の礎となった新羅第29代目の王である太宗武烈王、高麗末期の政治家であり儒学者である鄭夢周、百済から日本に漢字と儒教を伝えた百済の王族である王仁博士、16世紀の李朝時代の良妻賢母の鏡とされる女流書画家の申師任堂であった。いずれも、韓国で尊敬される歴史上の人物である。

 広場の奥にある石碑と塔は、在日漢民族無縁仏供養塔であった。近代から現代にかけて朝鮮半島からやって来て無縁仏となった人々の遺骨を安置し、慰霊している。広場の周りに並ぶ石像は、葬られた人にも訪れる人にも、朝鮮半島の誇りと文化を伝えようとしている。それが、尹炳道さんの願いなのだろう。

1300年の時を経て、聖天院は再び、朝鮮半島出身者が身を寄せ合う場所に生まれ変わろうとしていた。山門を出て振り返ると、小雨の中にチャンスン、朽ちた山門、真新しい本堂が一緒にかすんで見えた。

 参考文献
1)金達寿:古代朝鮮と日本文化 神々のふるさと、講談社学術文庫、2000

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