第135弾 のむけはえぐすり 高句麗の帰化人 高麗神社2009年10月02日 03時06分54秒

のむけはえぐすり 高句麗の帰化人 高麗神社

第135弾  のむけはえぐすり
高句麗の帰化人 高麗神社

 聖天院を後に、小雨の中をトボトボと10分も歩くと、高麗神社の二の鳥居の前に出る。

 霊亀2年(716)に関東周辺にいた高句麗人1799人がこの地に集められ、高麗(こま)郡が作られた。

 郡令となった高句麗王族の若光は、没後、高麗明神としてここに祀られた。その後、子孫の高麗氏が高麗神社の神職を継ぎ、金達寿さんが1975年にお会いした高麗明津氏は、第58代目にあたるという。この神社の裏に江戸初期に建てられた高麗家の家屋が、重要文化財として残されている。
 
写真のように、鳥居から社殿に至る参道には、灯籠と古木とはいえない杉の木が並んでいる。その間に、若い木が植えられている。どの木の前にも白い小さな標識があり、植樹した人の名前が記されている。皇族の名が目立つが、政治家も多い。韓国人の名前もある。次々と記憶にある名前が途切れない。

 作家では尾崎紅葉の名がある。政治家では鳩山一郎、若槻禮次郎、浜口雄幸など、後に首相になった人たちの名もある。高麗神社に参拝した人は出世するという評判が立ち、高麗神社は出世明神ともてはやされるようになった。今でも、法曹界、財界、政界の人たちの植樹や献木が絶えない。
 
そんな中で、一本の杉の木が、私の目にとまった。太さが40cmほどなので、樹齢50年は越えているのだろう。
標識には、「李王妃方子(まさこ)女王殿下 御手植」とある。確か、戦前に朝鮮に嫁いだ皇族の方だったと思いながら、近くを探すと、同じような李垠(イウン)殿下お手植えの杉がある。

 日本人によって皇后が暗殺されるという閔妃(ミンピ)暗殺事件が起きてから2年後、1897年に朝鮮国は大韓帝国と名を変えた。初代皇帝は、朝鮮国最後の国王、高宗である。李垠殿下はその高宗皇帝の7番目の男子で、その年に生まれ、3才で皇太子となり、英親王を名乗られた。11才の時に、初代の韓国統監、伊藤博文に連れられて日本に留学し、学習院に在学し、日本陸軍士官学校を卒業して日本で軍人となった。1910年の日韓併合によって、皇太子から王世子に格下げとなり、日本の皇族に準じた待遇を受けることになった。殿下の敬称が使われるようになったのは、この時からだ。

李垠殿下が22才の時に結婚したお相手が、日本の皇族、梨本宮の長女で、当時18才の方子さんである。

 昭和天皇のお妃候補として本命視されていた方子さんが、突然、李垠殿下との婚約が決まった裏には、軍部の派閥争いがあったという。李垠殿下にとっても、この結婚は青天の霹靂だった。というのは、李垠殿下には生年月日も同じ閔甲完(ミンカプワン)という婚約者がいたからだ。この方も日本の植民地政策の犠牲になった方だ。他家に嫁ぐように日本から圧力をかけられ、拒んだ父は毒殺された。ご自身も生涯結婚することなく、「百年恨」という自伝を書いておられる。

大正5年(1916)の夏休みに大磯の別荘にいた方子さんは、ご自分の婚約を新聞で知った。その後ご両親から告げられ、14才の方子さんはただただ困惑しながらも、陛下の思し召しをお受けし、一所懸命やりますとだけ、答えたという。だが、間もなく、朝鮮式の髪型で学習院に通う方子さんの姿が見られるようになった。

挙式の4日前に高宗皇帝が急死し、結婚式は延期された。後に、皇帝の死は総督府官吏による毒殺であったことが判明する。第2代皇帝には長兄の李坧殿下が継ぎ、純宗皇帝を称した。お二人は結婚して男子二人をもうけられたが、長男の晋は生後8ヶ月で朝鮮に里帰りした際、帰国寸前の奇妙なタイミングで突然死した。この死についても、毒殺説がささやかれている。

敗戦によって王公族制度も廃止され、お二人の身分も失われた。ほかの皇族と違って一時金も支給されず、そのうえ高額な財産税が課せられ、タケノコ生活を余儀なくされたようだ。赤坂にあった李王邸も買い取られ、今は赤坂プリンスホテル旧館となって残されている。

お二人は帰国を希望したが、李承晩大統領時代には様々な妨害があって果たせなかった。昭和34年(1959)に、ニューヨークで李垠さんは脳血栓で倒れ、回復したが左足に麻痺が残った。日本に戻って闘病生活の2年後に、再び李垠さんは病気に倒れ、寝たきりとなった。お二人の生活の窮状は、1960年のクーデターによって大統領に就任した朴正煕大統領に伝わり、1963年にようやく帰国の願いが叶った。お二人は、見送る皇族も政府関係者もなく、羽田を発った。ほとんど意識のない66才の李垠さんはそのまま聖母病院に入院され、7年後の1970年に亡くなった。

 その後、方子さんは大韓赤十字社に参加し、韓国慈行会を設立した。知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校の「慈恵学校」の運営に携わり、資金集めに大変苦労なさったという。その功績により、昭和56年(1981)に韓国政府から、「牡丹勲章」が授与された。さらに韓国における日本人妻たちの集まりである在韓日本人婦人会(芙蓉会)の初代会長にもなった。

方子さんは平成元年(1989)に、87才で亡くなった。韓国では準国葬並の葬儀が行われ、韓国国民勲章槿(ムクゲ)賞が贈られた。日本からは両陛下の弔花が届けられ、三笠宮両殿下が参列された。方子さんは、ソウル郊外の金谷陵で全州李氏に守られながら、李垠さんとともに眠っている。

自叙伝の中で、私が一番印象に残った言葉がある。
成長した次男の李玖(イキュウ)がマサチューセッツ工科大学を卒業し、一建築家としてニューヨークで生活しているところに、お二人がたずねた時のことだ。滞在中に脳血栓を患い、息子とともに住みたいと希望する李垠さんを、「ニューヨークという都市は、しょせん働く者が生活していくところなのです。大富豪ならいざしらず、半病人や仕事をもたないものが、途中から来て住めるところではない」と説得する。

身分とか家柄とは関係なく、働きながら、誰にも頼らず、つつましく生きる息子夫婦を残し、お二人はお二人の住む場所へと戻っていく。その時の言葉だ。

参考文献
1)渡辺みどり:日韓皇室秘話 李方子妃、中央文庫、2004
2)金達寿:古代朝鮮と日本文化 神々のふるさと、講談社学術文庫、2000
3)李方子:すぎた歳月、非売品、1969

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