のむけはえぐすり 大隴神社のびっくり2010年03月06日 06時11分40秒



大隴神社のびっくり 1)
参道の横に社歴の書かれた由緒書きがある
かなり錆びていて見にくくなっている


大隴神社のびっくり  2)
社歴には祭神が大物主命、健速須佐之男命、大山咋神、伊邪那岐神の名前がある。
最初の行に、天智天皇の王子大伴邪須羅麿の名前が見える。
これがどうにも不思議でならなかった。
御落胤と言うことか?


大隴神社のびっくり   3)
神殿から本殿をのぞく。
屋根には三つ巴の紋。
平安時代から火災除けに一般にも使われ、八幡神の神紋でもある。

今年最後の裏磐梯猫魔のパウダー2010年03月08日 22時39分03秒

しかしまぁ 何の恨みか 毎週末に雨の降ること(^-^;

これで2週間連続テニスが出来ないではないですか

仕方が無いので今年の滑り納めの映像でも・・・

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

猫魔のリフト乗り場手前にできた”ネコ”



後ろから見ると・・・かまくらです
アベック(とは最近は言わないんですね)とか親子が写真を撮っていました


猫魔を代表する猫魔バーン
最大29度、平均19度(だったかな)のきっちり圧雪された超高速バーンです
スキーでも中級以上じゃないとちょいと苦しい
ボードはこういう高速で急斜面は結構苦手ですね


900mのリフトなのであがってからノンストップで降りてくると5~6分サイクルで滑れますので楽しいけど結構キツイ

最終日はリフト脇とか林の中に新雪がたまっていて今年初めてで最後の新雪を楽しめました

話は変わって僕の秘密兵器の鍵
アメリカでスキー仲間からクリスマスプレゼントでもらったダイアル式

猫魔で滑った帰りには裏磐梯猫魔ホテルの温泉で
1200円なのですがモバイル宝という携帯の登録で600円
これは非常にいい温泉です
桧原湖が目の前に見える露天風呂と鉄分の入った茶色っぽいお湯
ホテルの前から綺麗に猫魔が見えました

おまけ・・・ライバルなんですが・・・
会津若松で抜群の知名度を誇る柏屋
インター前のお店です

ここのうりは薄皮饅頭と檸檬(れも)というチーズケーキみたいなの

とにかくみんな帰りに寄って買いたがるくらいこの辺では有名です
ブランド戦略成功例

第147弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 阿自岐神社2010年03月09日 06時47分25秒






第147弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 阿自岐神社

 

正直な話。阿自岐(あじき)神社を、阿知使主(あちのおみ)の神社と思い込んで訪ねてしまった。

 

阿知使主は、息子の都加使主(つかのおみ)と共に、応神天皇の時に党類17県を率いて渡来したとされる代表的な帰化人である。後漢の霊帝の子孫を自称するが、百済から渡来し、大和の飛鳥の武市郡檜前(ひのくま)村に定住した東漢(やまとのあや)の祖である。

 

阿自岐は、やはり応神天皇の時に百済の第13代近肖古王から、二頭の馬と刀と鏡と共に遣わされた帰化人である。日本書紀では、教典が読めるので、太子菟道稚郎子(うじわきのいらつこ)の師になったと記されている。

 

菟道稚郎子とは応神天皇の子で、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)の弟である。和珥氏を母に持つ菟道稚郎子は、尾張の豪族を母に持つ兄を差し置いて太子となった。応神天皇が亡くなると、菟道稚郎子と兄は互いに皇位を譲り合い、3年の間空位が続いた。そのために菟道稚郎子は自らの命を絶って、兄に王位を継がせたという美談仕立ての話の主人公である。仁徳天皇の皇后の磐之姫は葛城氏の出だから、和珥氏から葛城氏への政権交代の中で、阿自岐の子孫は歴史の舞台から消えたと想像したが、新撰姓氏録には右京諸蕃、安勅(あじき)連、百済王の魯王の出身と記され、しっかり生き残っていた。

 

阿自岐のもう一つのエピソードは、阿自岐が応神天皇から「あなたよりも優れた博士がいるか」と訪ねられると、「王仁という者がいます」と答えた。そこで応神天皇は百済に使いを出し、王仁を召したという。王仁は論語十巻、千字文一巻をもって渡来し、日本に儒教を伝えた人物とされる。王仁は帰化して、河内の古市や丹比(たちひ)に定住し、西文(かわちのふみ)の祖となった。

 

だから、阿自岐はどちらかと言えば西文につながる百済の帰化人で、同じ百済でも阿知使主の東漢とは違った出自だが、名前が似ていたので混乱した。

 

現代では安食西と表記される地番に、阿自岐神社がある。近江鉄道の豊郷駅から徒歩15分。かつては式内社だったが、写真のように小さな神社である。しっかりとした造りは、江戸時代後期のものだという。縣社と書かれた石碑があり、参道を挟んで両脇に池がある。神社の敷地はもともと池に囲まれた島で、そこに阿自岐氏の邸宅があったといわれている。東西の大きな池の中に大小の島があり、池泉多島式の庭園として有名である。池にはショウズと呼ばれる湧き水が豊富で、灌漑用水として使われていた。うっそうとした森の中の小径には所々に曼珠沙華が咲き、池の中の島を巡る石橋を渡ると、「千町田を養ふ神の清水哉」と記された句碑がある。

 

阿自岐神社の境内に青銅でできた馬が奉納されている。由緒書きには大正13年に作られたが、戦時中の徴用にあい、昭和45年に再建されたとある。神社に献納されるのは昔から馬というのが相場で、その名残が絵馬だ。だが、阿自岐神社の馬は、阿自岐が百済王に馬二頭と共に遣わされたことに由来するものと思いたいが、どこにもそんなことは書かれていない。

 

青銅の馬の横に社の由緒書きがあり、主祭神が味耜高彦根(あじすきたかひこね)神と道主貴(みちぬしむち)神となっている。相殿には天兒屋根(あめのこやね)命、保食(うけもち)神、須佐之男(すさのお)命の名があり、他に合祀の神様が盛りだくさんだ。

 

 古事記では味耜高彦根神のことを阿遅鉏高日子と表記し、またの名を迦毛(かも)大神といい、賀茂氏系が入っているという。古事記伝によると、阿遅(あじ)は可美(うまし)と同義で、鉏(しき)は磯城で、石畳の意味だという。味耜高彦根神は大国主神と多紀理毘姫(たぎりびひめ)命のむすこである。道主貴神とは帰化人のシンボル・須佐之男命の三人の娘、多紀理毘姫命、多岐津姫(たぎつひめ)命、市杵島姫(いちきしまひめ)命の三女神のことだから、母と一緒に祀られていることになる。

 

問題は天兒屋根命である。この神様は天岩屋戸伝説に岩屋戸の前で祝詞(のりと)を奏する役で出てくる。中臣氏の先祖神であるから、藤原氏の祖である。春日神社の系統だが、神話の系図にも接点がないので、なぜ祀られているのか分からなかった。だが、本殿の庭に鹿の像が置かれていることから、関係は深そうだ。

 

近くに安食西古墳がある。もとは前方後円墳だったが、江戸時代に水田にするため前方部が削られ、今は後円部だけが残されている。

 

一般的な話として、近江の古墳には他の地域と同じように前方後円墳が多い。中では帆立貝式のものや、円墳や方墳に造り出しという小さな出っ張りのある形が特異的だとされる。100基近くある中で、100mを越える古墳が少ないのは、大和朝廷に遠慮したからだという人もいる。

 

ここから直線距離で4Kmほど離れた、宇曽川が琵琶湖に注ぐ付近にある荒神山古墳は、安土の瓢箪山古墳、大津の膳所茶臼山古墳に次ぐ近江地方第3位の100mを越える規模を誇る。周囲にも小型の古墳が多く、近江の首長たちの中でも強力な勢力がいたことがうかがえる。

 

副葬品である鏡の研究からは、湖北の古保利古墳群の小松古墳からは1世紀に作られた中国鏡が出土するので、弥生時代からの有力者の流れをくむ首長墳と考えられている。その一方で、八日市の八幡社古墳群の雪野山古墳からはそのような伝世鏡の副葬がなく、大和朝廷と関係の深い三角縁神獣鏡や日本製の大型鏡が出土するので、3世紀末に大和朝廷と結んで台頭してきた新興の首長墳と考えられている。

 

その点、安食西古墳の周囲には古墳群もない。阿自岐一族の誰かの墓と考えられる比較的小さな前方後円墳である。それが阿自岐一族の近江における実力だったのだろう。

 

参考文献

1)川口謙二:日本の神様読み解き事典、柏書房、2007

2)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮、明石書房、2003

3)大橋信弥、小笠原好彦編:新・史跡でつづる古代近江、ミネルヴァ書房、2005

 


のむけはえぐすり 阿自岐神社のびっくり2010年03月14日 05時23分27秒



 阿自岐神社のびっくり
1)青銅の馬の像
 阿自岐は百済王から派遣される時に、雄雌二頭の馬と一緒だった。
 神社に奉納するのは、昔から神が乗る神馬が通り相場。
 そんなわけで、馬の像があるのだろう。
 馬の鞍についているのは、八幡様の巴紋。

阿自岐神社のびっくり
2)阿自岐神社の本殿
小さいが、しっかりした造りの本殿は、三間社流造りの檜皮葺き。
文政2年(1819)の建立という。

ジャッカル?の日2010年03月19日 22時55分45秒

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

エアバスA380です。機体の背の高さでわかりますね
今回シンガポールまで行くのにSQ(シンガポールエア)を選んだら偶然乗れました
SQは最初から積極的に導入していたようです
6時間強のフライトは結構快適です


とにかく大きい。乗ったのは二階席ですが各席にこのような10.4インチのモニターがついてるので映画もゆっくり楽しめる
しかも字幕が全て中国語(^_^)
ジョージ・クルーニーのUP IN THE AIRという最新作も見ました
しかも全席パソコン用のAC付き・・・これはすごい


時間がたっぷりあるのでゆっくりビールでも飲んで。。。

乗り換えのシンガポール チャンギ空港からみた景色
いかにもシンガポールという綺麗さと南国の雰囲気



・・・・で、乗り継いで着いた先
ジャッカル?の日と聞いて反応するのはおじさんですが
ジャッカルタの日です(^_^)

ホテルから見た街並み
オレンジ色の瓦が雰囲気を出してます
ホテルのレストランの横のプール
やっぱり熱帯ですね


お昼を食べに行った”パスタ de 和楽”というお店

トンカツののったパスタ
イカ刺しとウニ
うな玉・・・ウインドウディスプレイを見てびっくりしていたら一緒に行った地元のかた(インドネシア人)が注文していた
サーモンといくらの親子丼ならぬパスタ

このお店はシンガポールで初めてジャカルタにも出ているそうでとにかく地元の人にも和風パスタということで大人気とか
考えなれないようなトッピングが・・・メニューの種類がムチャクチャ多い
何でもお昼とかは行列ができるそうです


ここはジャカルタのど真ん中にあるRAMA MALLというとんでもなく大きく高級なモール
世界のブランドショップが全部入ってます

感心したのがこの床屋さん
キッヅ専門で車に乗ってPSPでゲームが出来るというもの
今回のお客さんの子供もここに来てると言ってました



今回ブルーレイを見たかったのできたベスト電器
日本では店を閉じてますが海外ではこの通り
ソニー、シャープ、パナソニック等メーカー別に広いスペースで展示
米国にいた頃も日本製電気製品を買うのにお世話になりました

バリやジョグ・ジャカルタはまだいいんでしょうがジャカルタはちょっと勘弁という位治安が悪い
都心のインターコンチネンタルホテルにお客さがいいったんですが車が入ると軍隊みたいなのが6人くらいいてドア、トランクはあけられて中を確認
爆発物探知機で車の下をチェックしてやっと入れます
そのあと空港にあるのと同じセキュリティゲートを通って荷物も開けられて確認・・・
この近所で爆破テロがあった影響らしいのですがすぐそこのレストランに行くのでも車でいかなければいけないとのこと

それにしても遠い・・・シンガポールまで6時間+ジャカルタが1時間20分
治安と長旅で疲れました(^_^)

のむけはえぐすり 阿自岐神社のびっくり 3)2010年03月23日 21時44分21秒



阿自岐神社のびっくり  3)
阿自岐神社のそばにある、茶臼山古墳。
江戸時代に前方部が削り取られて農地になった。
残された後円部は10mほど。
前方後円墳の首長墓としては、大きい方ではない。


第148弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 上蚊野古墳群2010年03月24日 01時24分58秒





第148弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 上蚊野古墳群

 

 近江の愛知(えち)郡に居住していた新羅からの帰化人、愛知秦氏の愛知は、依知、依智、朴市、依市とも表記される。

 

 地図の黄緑の丸印に、上蚊野(かみかの)古墳群があり、その案内板の表記は依智秦氏になっている。

 

 場所は金剛輪寺から直線で1Kmほど、宇曽川沿いにある。国道307号線のコクヨ工場の辺りだが、工場の反対側の農地の中に、かつて上蚊野古墳群と呼ばれる102基の古墳があった。工場のある場所には、蚊野外(かのとの)古墳群の196基の古墳があった。総称して金剛寺野古墳群と呼ばれ、工場の敷地の片隅にある金剛寺野と記された石碑にその名残をとどめている。

 

 戦後の開墾でほとんどの古墳が消滅し、10基の古墳が残る上蚊野古墳群の跡が、「依智秦氏の里古墳公園」となっている。国道から盛土が並んでいる場所を目当てに、農道を右往左往しながらたどり着く。墳丘の上では、枯れ草と緑の雑草の間で、桜の落ち葉が北風の中をしがみついている。空はどんよりした雲におおわれ、遠くの鈴鹿の山並みは青く、伊吹に近いほど雪が残っている。

 

 10基の古墳はいずれも直径が10m前後で、高さは大人の背丈ほどである。周溝を持つものもあったというが、よく分からない。円墳の頂上は心持ち平坦に見える。古墳に植えられた桜の根本には、メロン大ほどの川原石と、こぶし大ほどの石がゴロゴロしている。古墳を覆っていた葺き石のようだ。

 

 こうもり塚(3号墳)、百塚(1号墳)、たぬき塚(7号墳)など、名前がついた古墳がある。多分、盗掘されて入り口が露出していたのだろう。百塚の中腹に、ネットで覆われた入り口が見える。のぞいてみると真っ暗で、中の様子は分からない。隣のこうもり塚と同じように、入り口から2mほどの羨道があり、その奥に玄室が水平に続く構造で、横穴式石室だという。

 

 公園内の小径を50mほど進んだ右手に、写真のように大人の背丈よりも低い5基の古墳がある。中央にあるたぬき塚の上には登ることができ、そこは明かり取りの厚いガラス屋根になっている。入り口へ回ると、羨道が露出し、石が積まれたその先に、35cmほど一段下がった所に玄室がある。竪穴系横口式石室と呼ばれる構造だ。玄室の中には、石が何かを支えるように並んでいる。木棺を置いた棺台の跡だという。奥壁にも側壁にも、大きな石が積まれている。

 

 過去にこの公園の10基の古墳のうち8基が調査され、横穴式石室が4基、竪穴系横口式石室が4基あり、未調査の2基の構造は不明ということだ。その時に発見された耳環や鉄製刀子や須恵器は、近くの歴史文化博物館に展示されているという。

 

 横穴式古墳は、家族墓として横穴から何度も追葬を可能にしている。古墳時代後期に北九州から始まり、全国に広がった古墳で、群集墳の発生と共に、渡来人の影響が考えられている。一方、竪穴系横口式石室の方は珍しいというのだ。近江では五個荘町の竜石山古墳群や、蒲生町の天狗前古墳群や竜王町の三ッ山古墳群などで見つかっているが、依智秦氏の一部がその辺りにも住んでいた名残だという人もいる。

 

朝鮮半島では、達城郡の達西面古墳群などでみられるという。大邱市に近い達城郡は大伽耶があった高霊郡の東にあって、新羅の都、慶州に近い。と書くと、依知秦氏は伽耶の出身かと思いたくなるが、秦氏の源流である京都太秦付近に竪穴系横口式古墳はないので、即断はできない。

 

 誰が埋葬されていたのか、記録はないが、依智秦氏には日本書紀に登場する人物がいる。上蚊野古墳群が造られた6世紀中葉よりは新しく、7世紀中葉に活躍した人である。日本書紀の表記では朴市が使われ、朴市秦造田来津(たぐつ)という。

 

 645年の大化の改新のあと、皇極天皇は息子の中大兄皇子に位を譲ろうとする。中大兄皇子は辞退し、皇極天皇の弟の軽皇子を指名する。軽皇子も辞退し、舒明天皇の長男の古人大兄皇子を推薦する。古人大兄皇子は辞退しただけではなく、髪まで下ろして吉野に退く。最終的には、軽皇子が即位して孝徳天皇となった。

 

 その3ヶ月後、吉野に隠棲したはずの古人大兄皇子が謀反を企てたと、首謀者のひとり、吉備笠臣垂(したる)が自首してきた。謀反に加わったとされる5人の豪族の中に、朴市秦田来津の名前がある。結局、中大兄皇子の命令で古人大兄皇子の一族は殺されてしまうのだが、連座したとされる5人が処罰されたという話は聞かない。謀反そのものがでっち上げとされる理由だ。

 

 その後、660年に百済が滅び、百済復興軍の鬼室福信は、長く日本にいた百済の王子の豊璋を百済王として迎えたいと言ってきた。天智天皇は大山下の狭井連檳榔(さいのむらじあじまさ)と小山下の秦造田来津に5000の兵をつけて、豊璋を百済へ送り届けさせた。小山下という位は孝徳天皇の時の冠制で、第13位の中央官僚である。

 

 ところが、豊璋は謀反の疑いをかけて鬼室福信を殺してしまう。その上、今いる州柔(つぬ)の城は食べ物が少ないから、平地にある避城(へさし)に移ろうと言い出す。ひとり秦田来津だけが「州柔は敵が一夜で攻めて来られる道のりだから危険だ」と諫めたにもかかわらず、豊璋は城を移してしまう。案の定、避城は危うくなって、もとの州柔の城に戻った。

 

 白村江での敗戦の最中、秦田来津は「天を仰いで決死を誓い、歯を食いしばって怒り、敵数十人を殺したが戦死した」と記されている。

 

 秦田来津が戦死したのは、663年。遺体もなかっただろうし、年代も降るから、上蚊野古墳群に秦田来津の墓はなかったと思われる。

 

参考文献

1)大橋信弥、小笠原好彦編集:新・史跡でつづる古代の近江、前出

2)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀、講談社学術文庫、2009

 


台北も寒い2010年03月26日 15時02分36秒


台北に来ています
こちらも寒くて今日は15℃位
先週は30度だったのが嘘のよう

という訳で永康街にある高記に行ってきました
ここは上海点心のお店ですがかの県泰豊のすぐ裏にある
やはり小龍包でも有名なお店です




お決まりの実演コーナーもあります


看板のひとつでもある蝦小龍包です
ご覧の通り湯気がたった熱々で県泰豊とはまた違っておいっし

スープと麺と書いてあったので温麺かと思って頼んだら麺とスープが別々に

この牛肉のスープがまた凄く美味しかった

いいですね、中華圏は

のむけはえぐすり 上蚊野古墳公園のびっくり2010年03月30日 21時17分44秒



 上蚊野古墳公園のびっくり 3の1
1)朴市秦古墳公園の案内板
横穴式古墳と、竪穴系横穴式古墳の違いが書いてある。


上蚊野古墳公園のびっくり  三つのうちの2〕
たぬき塚古墳の中。
羨道から玄室へは、35cm下がっている。
これが竪穴系横穴式古墳といわれるもので、
渡来系と考えられている。


上蚊野古墳群のびっくり 三つのうちの3〕
古墳の墳丘に植えられた桜の根元。
メロン大の石と、こぶし大の石がゴロゴロしている。
墳丘を覆っていた葺き石の名残か?