第152弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 金剛輪寺 ― 2010年05月02日 17時53分29秒
第152弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 金剛輪寺
地図の鈴鹿山脈の麓にある赤丸印が、湖東三山の西明寺と百済寺の間にある金剛輪寺である。依智秦氏の上蚊野古墳群から、宇曽川沿いに2Kmほど上流にある。地図では上蚊野古墳群の印は省略した。
地理的にも依智秦氏と関係がありそうだが、地元で呼ばれている松尾寺という名前も葛野の松尾神社に因んでいそうで、新羅からの帰化人、秦氏ゆかりの寺であることがうかがえる。
金剛輪寺は天平13年(741)に聖武天皇の勅願により、行基が開山した。行基が開山した寺は全国にも数多く、近江だけでも49院あったという。行基の父は新撰姓氏録の河内国諸番にある古志(こし)連出身で、王仁につながる百済の帰化人である。母の出自も蜂田薬師(くすし)で、やはり百済系の帰化人である。850年には金剛輪寺は延暦寺中興の祖、慈覚大師によって天台宗に改宗した。
山門に向かう石段の両側には、高さが30cmほどの新しい水子地蔵が並び、それが延々と続いている。判で押したように同じ形の水子地蔵の前には、ひとつひとつ赤や黄色の風車が供えられている。どの風車も回ることもなく、大人しくしている。
仁王門には増長天と持国天が安置され、ここにも大きな草鞋がつり下げられている。そういえば、山門の草履は百済寺にも西明寺にもあった。これまで気がつかなかったが、草鞋は旅の安全祈願なのだろう。一年のほとんどを行商で過ごす近江商人たちの祈りだと思った。
最後の急階段を上りきると、写真のような本堂の大悲閣がみえてくる。室町時代前期に作られ、織田信長の近江侵攻の際にも、戦災を免れたようだ。檜皮(ひわだ)で葺かれた屋根の優雅な曲線と、屋根を支える垂木の密な並びが印象に残った。
本堂に秘仏として厨子の中に安置されている本尊は、木造の聖観音像だ。行基が作る時にナタを入れると、血が流れ出たという言い伝えがあり、「生身の本尊」と呼ばれている。厨子の両側には四天王と十二神将が配され、十二神将は葛野の秦氏ゆかりの広隆寺にあった像と、大きさといい、形といい、とてもよく似ている。
かつて金剛輪寺の本堂には、もう一つ金銅造聖観音があった。明治初期に海外に持ち出され、現在はボストン美術館にある。1269年に造られた金銅造聖観音の銘文の中に、「近江の依智郡、松尾寺の本堂に安置されているこの像は、犬上利吉と依智秦氏の子孫の繁昌と現世の安穏を願って造られた」という意味のことが書かれているという。この寺が依智秦氏ゆかりの寺であり、このような本尊が一つの氏族だけの力ではなく、近隣の氏族と協力して建立されていたことが分かる。
金剛輪寺の総門に隣接して、愛荘町歴史文化博物館がある。館内にはボストンにある金剛造聖観音坐像の複製や、依智秦氏関連の資料や、上蚊野古墳群から出土した須恵器などが展示されている。須恵器でいえば、前回の「のむけはえぐすり」に書いた須恵器の編年分類の表現を借りると、蓋杯(ふたつき)の蓋受けの部分はかなり浅く、全体の形はあんパンというよりはどら焼きに近い。同じ形の物が2個並んでいるので、量産型のようだ。となると、時代は新しく、奈良時代以降のように思えた。くすんだ灰色の高坏は大理石のような光沢があり、質のよい登り窯で作られたことを物語っている。
もうひとつ私が注目したのは、虫に食われた古びた証文のコピーだ。掲示には近江国大国郷墾田売券と書かれ、開墾した田畑を売り渡した証明書である。大国郷は依智秦氏が多く住んでいたところだ。この証文は依智秦公の廣麻呂が近くの調首(つきのおびと)の新麻呂に売ったことを示す証文で、保証人や郷長に依智秦氏の名前がずらりと連なっている。買い主の調首新麻呂は、百済系の帰化人である。
延暦21年正月十日と記されているから、802年、百済の帰化人の高野新笠を母に持つ桓武天皇の治世のことである。調首新麻呂は墾田を購入する財力を持ち、「富豪の輩(ともがら)」と呼ばれていた中の一人だ。そのような目先の利いた人の中には、大国郷主の依智秦公の浄雄(きよお)もいた。彼らは税を払えなくなった依智秦の百姓から墾田を買い取り、墾田の収穫物を徴収する権利を得て、さらに墾田を集め、仲介者を経て東大寺に売っていた。その結果、依智秦氏の里は東大寺の荘園となった。同じように依智秦氏が多かった愛智庄は、元興寺の荘園となった。8世紀から9世紀にかけた始まった荘園化は鎌倉時代になるまで続き、依智郡には比叡山系の山門領や、大和の寺社による南都系の荘園が錯綜していたようだ。
愛智庄における元興寺の荘園はやがて東大寺に吸収され、最終的に一部は春日大社に寄進され、興福寺の管領になったという。
ここで、ふと思い当たることがある。百済の帰化人ゆかりの阿自岐神社の祭神に、天兒屋根命の名があり、境内に鹿の石像が置かれていたことだ。藤原氏の祖である天兒屋根命、藤原氏の氏寺の興福寺、興福寺と神仏習合の関係にある春日大社、春日大社の神使は鹿。連想ゲームのように結びつく。「愛知川町の歴史」で中世の荘園の分布図を見ると、安食の辺りが南都系の荘園となっていた可能性は充分にある。
新撰姓氏録が編纂され始めた頃で、帰化人であるということが意識されていた時代だ。先祖伝来の墾田を売り渡すのも、生き残りをかけた選択だったのだろう。帰化人がそうやって生きてきたという証だと思った。
参考文献
1)朴鐘鳴:志賀のなかの朝鮮、明石書房、2003
2)愛知川町史編集委員会:近江 愛知川町の歴史 第1巻 古代・中世編、2005
次回F-cupは6/6(日)米原です ― 2010年05月03日 17時35分58秒
第153弾 のむけはえぐすり 先憂後楽 上田正昭先生 ― 2010年05月04日 04時12分00秒
第153弾 のむけはえぐすり
先憂後楽 上田正昭先生
平成22年4月20日木曜日の7時から、日韓文化交流を目的としたコリアンカルチャーサロンが横浜の韓国会館で開かれた。今回は、「共に学ぼう、語ろう! 過去と未来」をテーマにした新シリーズの最初を飾るのに相応しく、古代史学の泰斗、京都大学名誉教授の上田正昭先生の講演があった。
演題は「平安京と東アジア -桓武天皇と百済王朝」で、上田先生が自ら用意した資料を参照にしながら、時折白板に字を書いて講演をなさった。
第50代桓武天皇は光仁天皇の長男で、弟は早良(さわら)親王である。生母は高野新笠(にいかさ)といい、続日本紀の桓武天皇の延暦9年正月の条に、その前年に亡くなった高野新笠の出自が記されている。新笠は諱(いみな)で、姓は和(やまと)氏だが、後に氏姓を高野朝臣と改めている。父は和乙継(おとつぐ)で、母は大枝朝臣真妹(まいも)である。先祖は百済の武寧王(ぶねいおう)の子の純陀(じゅんだ)太子だという。さらに、百済の遠祖の都慕王(つもおう)は河伯(かわのかみ)の娘が太陽の精に感応して産まれたとも記されている。都慕王とは高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)のことで、桓武天皇は百済王家の血筋をひく天皇であると明記されているわけだ。
1971年6月、かつて百済の都があった熊津(ウンジン)、今の公州にある宋山里古墳群の6号墳の奥に未盗掘の墓が発見され、中から墓誌石が見つかり、大騒ぎになった。早速、上田先生も発掘調査を担当したソウル大学の教授から呼ばれ、見学なさったという。墓誌石には、「寧東大将軍の百済の斯麻(しま)王は523年に62才で亡くなり、525年にこの大墓に安葬した」という意味のことが記されていた。ドライアイスのない時代に遺体は2年間も仮安置され、殯(もがり)が行われたというから、有力な王であることは間違いない。
この斯麻王とは日本書紀の雄略天皇5年6月の条にみえる嶋君(せまきし)のことで、今の佐賀県唐津市鎮西町の加唐島(かからじま)で生まれたとされる。日本書紀の武烈天皇4年の条には、百済の末多王(東城王のこと)が無道で暴虐であったために国の人々から廃され、嶋王が即位して武寧王となったとある。日本書紀が引用した百済新撰によると、斯麻王は末多王の兄の琨支(こんき)王子が倭の筑紫の各羅(かから)島にいた時に生まれた子だとされているが、琨支王子の兄の蓋鹵王(こうろおう)の子であるという異説があることも併記されている。いずれにしても、宋山里第7号墳の被葬者は、百済王朝第25代武寧王とその妃であることが明らかとなった。
百済人の子孫が生母である山部王(後の桓武天皇)が天皇になるとは、当時の誰もが想像していなかった。それだけに、即位後は精力的にさまざまな改革を断行する。その一つが、平安京への遷都である。平城京は7代の天皇の都ではなく、最後の桓武天皇を入れた8代であることを上田先生が力説なさったのも、桓武天皇が志した改革を強調なさりたかったのだろう。
即位後の桓武天皇は百済王(こきし)氏との関係を深めていく。百済王氏の祖は百済国最後の王、義慈王の子の善光である。百済復興運動で百済故地に戻り白村江で敗れた豊璋王は善光の兄で、日本に残った善光は持統天皇から百済王の姓を賜った。
百済王氏の活躍の始まりは、善光から数えて4代目の百済王敬福(きょうふく)である。天平21年(749)、聖武天皇の勅命による盧舎那大仏が完成に近づいたが、大仏を飾る黄金がなくて困り果てていた。そこに、陸奥守であった従五位上の敬服から、管内の小田郡で黄金が産出したとの報告が寄せられ、黄金900枚が献上されてきた。聖武天皇は大変喜ばれ、敬福は従二位に叙せられた。敬福は現代の枚方市にある百済王神社に祀られているという。
黄金産出の知らせを聞いて喜んだ越中守の大伴家持の詠んだ歌が万葉集にある。上田先生はその中の一節を朗読なさった。「海行かば 水浸(みづ)く屍(かばね) 山行ば 草生(む)す屍 大君のへにこそ死なめ 顧みはせじ」
知る人ぞ知るこの歌に、戦中派が多そうな前の方の席から驚きの声がもれ、しばし会場にざわめきが走った。
天平勝宝4年(752)4月に盧舎那大仏は完成し、近隣の国はもとより、遠くベトナム、インドからの僧も含めた9799人の僧によって、大仏開眼の大法要が営まれた。大仏殿碑文にこの時の大仏師は従四位下の国公磨(くにのきみまろ)とあるが、白村江後に渡来した旧百済官僚の国骨富の三世である。
百済王氏譜をみると、敬福の子に従四位下の理伯がいて、理伯の長女に父よりも位が高い従二位の明信(みょうしん)がいる。この明信が女性ながら桓武天皇の大変な信頼を得た人である。
続日本紀の延暦9年(790)の条に、藤原朝臣継縄(つぐただ)を右大臣に任じたとある。この継縄が明信の夫で、桓武天皇は左大臣を置かなかったから、朝廷の第一人者である。桓武天皇は自ら「百済王らは朕の外戚であるから、その中から一、二人を選んで位階を授ける」と詔され、親族のうち3人が従四位から従五位の位を賜っている。女性たちも桓武天皇の後宮に入り、30人いた妃のうち9人は百済王氏であり、親王や内親王をもうけた者もいる。
人ばかりではない。遷都後に新笠の田村後宮から今の京都北区の平野神社に移された今木大神という新しい百済の神や、新笠の父の出身地である大和の平群(へぐり)群にある久度(くど)神という百済の神にも神階が与えられた。
桓武天皇は今の枚方市交野(かたの)にあった百済王の邸宅を13回も訪れている。延暦6年には、交野に中国の天の神、すなわち天帝を祀る郊祀(こうし)が置かれ、その祭文には大唐郊祀録がそのまま引用されている。また桓武という諱の由来も、詩経にある「桓々たる武王に・・・」に因んでいる。桓武天皇は国際的な教養に満ちた力強い天皇だったというのだ。
最後に、上田先生は「桓武天皇は百済王朝の血筋をひき、百済人の子孫との関係が深かったというのは史実です。歴史は史実に基づいて解釈するのであって、イデオロギーで解釈してはならない」と結ばれ、講演を終えられた。
講演の後で、私は愛読書である上田先生の著書「東アジアのなかの日本」にサインをしていただいた。その際、「近江の諸番、百済人の余自信の子孫が高野姓を名乗っていますが、関係はありますか」とお尋ねすると、「新笠の高野は地名で、全く関係はありません」というお答えだった。
先生のサインに添えられていた言葉は、先憂後楽。
先に不幸な時代があったからこそ、これからは仲良くとおっしゃりたかったのかも知れない。
のむけはえぐすり;上田正昭先生のびっくり ― 2010年05月05日 20時59分51秒
上海!上海!成田でJALラウンジの無線LANが使える ― 2010年05月16日 08時31分25秒
のむけはえぐすり 金剛輪寺のびっくり ― 2010年05月20日 08時51分55秒
第154弾 のむけはえぐすり 沙沙貴神社の少彦名神 ― 2010年05月21日 22時52分53秒
第154弾 のむけはえぐすり
沙沙貴神社の少彦名神
近江の安土駅から徒歩10分ほどの所に、地図の赤丸印、沙沙貴神社(ささき)がある。参道の途中には中山道武佐宿から移された「沙沙貴大社道是より十九丁」と書かれた石の道標があり、この県社の往時の繁栄が忍ばれる。
本殿の隣に、写真のような少彦名神(すくなひこなのかみ)の聖跡があり、右の門にその名が掲げられている。
古事記によれば、大国主命が島根県の美保の岬に着いた時に、ガガイモの船に乗り、蛾の皮をはいだ服を着て、迎えにきた小さな神がいる。その神が少彦名神だ。小さすぎて手からこぼれ落ちたが、確かに高天原の神産巣日神(かむむすびのかみ)の子だという。大国主命と二人で国造をし、国が豊かになると帰って行った。古事記にある神功皇后の歌の中で、「石立たす」が少彦名神の枕詞のように使われ、石の神ともいわれるが、病気を治す発想から温泉の神、薬の神、酒の神でもある。
ガガイモは10cmほどの実をつけるリンドウ目の植物で、昔は実の中の繊維が綿の代わりに用いられた。だが、沙沙貴神社の由緒書きには、少彦名神が乗ってきた船は小豆に似たササゲ豆の鞘だったので、そこからササキ神社となったと記されている。少彦名神を乗せた小指ほどの小さな船の名前が天之羅摩船(あめのかがみのふね)といい、向かって左側の門に書かれている。
少彦名神が石の神というだけあって、境内には名のついた石が多い。
まず、賽銭箱の前にあるのが、願かけ石だ。ロープが通され、まるで分銅のような形をしており、「静かに持ってみてください、さすってみてください」と書かれている。持ってみると、4~5キロほどの重さだ。
中を見ると、高さが3mほどの大きな石が立っている。磐境(いわさか)と呼ばれる石で、神が降臨する磐座(いわくら)という意味のようだ。その前には石でできた大きな管玉と丸玉と勾玉(まがたま)が、一本のロープでつながれて置いてある。
本殿の中庭を格子の隙間からのぞくと、1mほどの細長い石が10cmほど地面から露出している。またげ石といい、案内には男女が祈祷後に3回またぐと、子宝が授かると記されている。横に、「ご祈祷料 金壱萬円以上」とわかりやすい。
子宝を授かる前に、まず相手を探さなければという向きには、楼門の外に陰陽石がある。似ているかといえば、ちっとも似ていない男石と女石がある。片方からもう片方へ、目をつむってたどり着くことができれば、縁結びの願いがかなうと書かれている。こちらは無料。
本殿にある祭神をみると、第一座は少彦名神だが、第二座の大毘古神(おおひこかみ)は沙沙貴山君(ささきやまのきみ)の祖神となっている。第三座が仁徳天皇で、「おおささきのすめらみこと」と読み仮名がふられている。第四座が宇多天皇とその子、敦実親王で、宇多源氏の祖神と書かれている。
狭々城山君とは奈良や平安時代の蒲生郡と神崎郡の大領であり、もともと祀っていたのは大毘古神の方であった。大毘古神は崇神天皇(10)の叔父にあたり、四道将軍の一人で、北陸方面が担当である。
記紀に沙沙貴山君の名が登場するのは、雄略天皇(21)の即位前である。雄略天皇は皇位を継承するために、可能性のある叔父や甥を次々と殺していく。最後に残ったのが、履中天皇(17)の息子、市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)である。古事記では、この地にいた狭々城山君韓帒(ささきのやまきみからふくろ)が市辺押磐皇子を来田綿(くたわた)の蚊屋野へ猪鹿狩りに誘い出したという。雄略天皇は「猪がいた」と叫んで、市辺押磐皇子を射殺し、遺体は飼い葉桶に入れ、埋めてしまった。
市辺押磐皇子の子、億計王(おけおう)と弘計王(おけおう)は播磨に逃げた。その後、雄略天皇は124才で亡くなり、後を継いだ清寧天皇(22)には子供がなかった。清寧天皇の後、播磨に潜伏していた兄弟が迎えられ、顕宗天皇(23)と仁賢天皇(24)となった。兄弟は父の遺骸を探し出し、埋葬した。謀殺に荷担した狭々城山君韓帒の一族は罰せられ、遺骸発見に功績のあった兄の狭々城山君倭帒(やまとふくろ)と妹の一族は残った。
雄略天皇の頃にこの地の豪族であった狭々城山君も、大昔からこの地にいたわけではない。仁徳天皇(16)の頃、天皇や皇后の名前をつけた皇室所有の農民や特殊な技術を身につけた人々がいた。御名代(みなしろ)と呼ばれる部民である。中でも仁徳天皇の「おおさざき」に因んだ雀部(ささきべ)は、市辺押磐皇子にとって特別な存在であった可能性がある。皇子を誘い出すのに、狭々城山君韓帒が使われた理由が、そこにあると考えられるからだ。雀部の一部がこの地に移住し、狭々城山君となり、沙沙貴神社を創建したといわれている。それが祭神の第三座に、仁徳天皇の名前がある由縁だ。
祭神の第一座から第三座までを想像すると、沙沙貴神社を氏神とした氏族は、第一に大王家を支えた氏族であり、第二に大王家につながる血筋の氏族であり、第三に仁徳天皇の部民であった氏族ということになる。
市辺押磐皇子を埋葬したとされる陵墓は八日市の近くの市辺にあり、今は宮内庁の管轄になっている。だが、その陵墓は横穴式石室を持つ6世紀の古墳で、市辺押磐皇子の時代のものではらしい。皇子が亡くなった蚊屋野は愛荘町の蚊屋野ではないかという説もある。いや、雪野山の先だ、日野の辺りだと諸説あるが、いずれにしても、後世、帰化人が住んだ所に近い。そこは古くからの豪族の住む土地からは遠く、雄略天皇の頃にはまだ猪や鹿の住む場所だった。
参考文献
1)畑中誠治他:滋賀県の歴史、山川出版社、1997
2)滋賀県歴史散歩編集委員会:滋賀県の歴史散歩(下)、山川出版社、2008
のむけはえぐすり 沙沙貴神社のびっくり ― 2010年05月22日 03時46分22秒
第155弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 七つ割り平四つ目 ― 2010年05月27日 03時14分44秒
第155弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 七つ割り平四つ目
今回も、沙沙貴神社の話が続く。
表参道に回ると、大きな鳥居がある。鳥居には源頼朝が書いた「佐佐木大明神」の扁額が掲げられている。鳥居をくぐると、写真のような楼門が見えてくる。
平安時代の様式を模した江戸中期(1747)の作で、一階の華奢な造りとは不釣り合いなほど大きな葭葺(あしぶき)の屋根が、印象に残る。扁額は「沙沙貴神社」と書かれた有栖川熾仁(たるひと)親王の御真筆である。この写真でもう一つ印象的なのが、左右の真っ白な提灯に鮮やかに描かれた紋だ。
正式には「七つ割り平四つ目」紋という。四角形の各辺を七等分した升目を塗りつぶして描くので七つ割り。布をくくって染め残しの部分を作るくくり染めを形象化した紋だが、縦にくくり目が四つ並んでいるので、平四つ目と名がつく。正倉院の御物の中にもあるというこの紋は、鎌倉時代には衣服の文様として流行し、家紋にも使われるようになった。源平盛衰記には、宇治川の戦いで先陣の功を上げた佐佐木四郎高綱の目結い紋の直垂(ひたたれ)を着た姿が、凛々しく描かれている。門の右手の写真の外に、この紋と「近江源氏佐佐木発祥之地」と書かれた石碑があり、目結い紋は宇多源氏およびその支流である近江源氏佐々木氏の代表家紋である。
源の名は在原や平と同じように、皇族が臣籍に降下する際に名乗る姓の一つである。嵯峨天皇(52)の嵯峨源氏に始まり、源頼朝や足利尊氏につながる武家源氏の名門清和源氏の他、宇多源氏、村上源氏など21代の天皇にある。宇多源氏の中では敦実(あつみ)親王の系列が最も栄え、親王の子の雅信の代で源姓を賜り、宇多源氏の祖となった。その後、孫に近江の守護代となった者がいて、そのまた孫に佐々木庄の下司職となった者がいて、この地に住んで佐々木の姓を名乗ったという。
ところで、この地には先に古代の大領をつとめていた狭々城氏がいたはずだ。
一ノ谷の戦いで平通盛の首級を挙げた佐々木成綱・俊綱親子が、鎌倉幕府を開いた源頼朝に恩賞を願い出た。この佐々木は、狭々城山君の方の佐々木であった。頼朝の返事は冷たかった。恩賞はなく、守護職佐々木定綱の指揮下における知行地安堵の沙汰であった。それは、狭々城の佐々木氏は平治の乱以来、平家方であり、源氏についたのも平家が都落ちしてからという理由だった。
先ほどの鳥居でみた源頼朝直筆の「佐佐木大明神」の扁額の裏には正六位上源朝臣定綱とあり、頼朝が定綱のために書いた扁額であることが分かる。これほどまでに頼朝が定綱に肩入れするのには訳があった。
定綱の父の秀義は平治の乱で頼朝の父の義朝方につき、戦いに敗れた。秀義は領地の佐々木郷を追われ、20年間、相模に住んでいた。秀義は頼朝が伊豆に流されたことを知ると、長男の定綱を頼朝に仕えさせた。1180年、頼朝挙兵の折、頼朝の同勢90騎のうちの5騎は定綱とその兄弟であった。宇治川の戦いの四郎高綱はとりわけ有名だが、佐々木兄弟は常に平家追討の第一線を駆け巡り、秀義は伊賀と伊勢の平氏との合戦で戦死している。
鎌倉幕府を開いた頼朝から佐々木定綱は近江守護職に任じられ、再び先祖の地に戻ることができた。定綱が近江源氏佐々木氏の祖であり、「七つ割り平四つ目」紋を定紋に定めた。兄弟は、四国、越後、中国、九州など、15カ国の守護に任じられた。
ここに至って、古代の大領家、狭々城氏は吸収合併される形で同化し、ある者は新しい佐々木氏に仕え、ある者は沙沙貴神社の神官になった。狭々城氏が氏神としていた沙沙貴神社も共同の氏神となり、狭々城氏が一緒に祀っていた狭々城山君韓国は祭神から除かれ、代わりに宇多源氏の祖である宇多天皇と敦実親王が新たに加えられた。その場合でも、宇多天皇は第四座で、ご先祖の天皇と神様を越えるわけにはいかなかった。
定綱は延暦寺との領地争いに巻きこまれ、子の定重を失い、自身も一時流罪となるが、恩赦で戻ると再び近江守護職になった。この定重は第150弾で鏡神社の鏡氏の祖となった尚継の父である。定綱の後を継いだのが嫡子広綱だが、間もなく承久の乱が起きた。広綱は後鳥羽上皇側につき、弟の信綱は北条側についた。広綱は敗れて捕らえられたが、父の功に免じて無罪になろうとしたところを、信綱は殺すように北条執権に迫り、広綱は斬首された。まんまと家督を相続した信綱は、京の六角にあった広綱の屋敷には子の泰綱を住まわせ、京極の屋敷には氏信を住まわせた。これが六角氏と京極氏の始まりである。近江はその他、大原家と高島家に分けられたが、佐々木家の嫡流は六角氏が継いだ。
ところが、京極氏信のひ孫の京極道誉が、とんでもない大名だった。髪を振り乱して「ばさら大名」と呼ばれ、「かぶく」を通り越して、あくどかった。そうかと思えば、風流も心得えていた。何故か足利尊氏とは馬があい、共に南北朝時代を生き抜いた。足利尊氏が足利幕府を開くと、京極道譽は六角氏に代わって近江守護職に任じられ、佐々木家の大総領となった。また、京極氏は近江北部に加え、出雲、隠岐、飛騨の守護となり、室町幕府の四職(ししき)家の一角をになう幕府の重鎮となった。近江南部のみの分郡守護となった六角氏とは、完全に立場が逆転した。
応仁の乱から戦国時代にかけて、京極氏と六角氏は敵味方に分かれたばかりではなく、それぞれの内紛が交錯し、明日の敵味方も分からない入り乱れた戦いが続いた。
京極高次は浅井長政とお市の方との間に生まれた三姉妹の次女、於はつを妻とし、「武功よりも血が興した」と陰口を叩かれ、凡庸と言われながらも、後世に「七つ割り平四つ目」紋を残すことができた。
一方、六角氏は沙沙貴神社の真向かいにある観音寺山を居城にし、菩提寺を百済寺に近い永源寺に置いていたが、織田信長の近江侵攻によって滅亡した。その際、石塔寺、百済寺、金剛輪寺など、帰化人ゆかりの寺も灰燼に帰した。
参考文献
1)徳永真一郎:近江源氏の系譜 佐々木・六角・京極の流れ、創元社、1979
2)高橋賢一:大名家の家紋、秋田書房、1974
3)伊吹町教育委員会編:京極氏の城・町・寺 北近江戦国史、サンライズ出版、2003
北京といえば北海公園 ― 2010年05月29日 21時18分54秒
10数年ぶりの北京
北京大学病院の方がすぐ近くのホテルをとってくれました
が、近場には何もなくネットで検索したら北海公園があるではないですか
早速タクシーで・・・
とにかく中国の公園といったら踊りです
早朝まだ暗いうちから太極拳の一団がどこでも見られますが、昼間はこのようなダンス?
なんか幸せになれそう(^_^)
こんな綺麗な花も
考えることはみな同じようで記念撮影・・・ちょっとヒャンフィ殿の若い頃を彷彿とさせる
肉感的なお嬢さんでした(^_^)
足元の石畳にはこんな文字が・・・
これなんと大きな筆で水で書いたものなんです
さすが漢字の国・・・超達筆!!!
暑いときはやはり湖上遊覧船です・・・結構楽しそうですね
中にある小島には白塔が
確かモンゴルの宗教だったみたいな(チベットでした)失礼しました
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