第31回F-cup オークビレッジで開催2010年10月06日 03時06分57秒

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

第31回F-cupが千葉オークビレッジで開催されました

世の中は女子オープンで盛上っている中天候にも恵まれ雨に降られることも
なく記録づくめの大会でした

まずは受付風景



恒例の集合写真
8組が縦一列のスタートということで最終組は約1時間後で終了も5時頃に


史上初2連覇&4度目の優勝!!!!2010年10月07日 02時54分37秒

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

やりました・・・

ミュアヘッドの難解なコース設定と難しいグリーンにみんなてこずっているなか
39/41の80で完全優勝です

・・・といっても監督ではありません

横に立っているスリーハンドレッドブラザーズの長男 カズンスキーです

F-cup史上初の”2連覇&前人未到の4度目の優勝”です





F-cup第3戦 オークビレッジGC2010年10月08日 06時23分51秒


■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

いつものおさがわせ5人組ですが首尾はどうだったんでしょうか?



第164弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 伊夫岐神社2010年10月11日 07時24分09秒






第164弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  伊夫岐神社

 

冬に近江に来た時のことを思い出した。新横浜を出る時、「積雪のため、関ヶ原徐行運転中」と新幹線の案内が出ていた。案の定、大垣を過ぎた頃から、ちらちらと雪が舞い始め、関ヶ原の辺りでは薄暗く30cmはあろうかという積雪に包まれていた。

 

 冬場には、季節風が若狭湾から伊吹山をすり抜け、伊吹おろしとなって濃尾平野に吹き付ける。風の回廊になっている伊吹山の西麓は、日本有数の豪雪地帯として名高い。この風が吹き抜ける様から伊吹と称し、製鉄のタタラ炉に風を送り込む、息吹くことによる地名だという説もある。古代の伊吹山は鉄の産地でもあった。

 

 そして今、暑い夏の盛りに再び近江を訪れている。国道365号線を右に折れ、姉川沿いに深い緑に覆われた伊吹山へと向かう。麓の伊吹集落に、写真の伊夫岐神社がある。石碑には「式内郷社 伊夫岐神社」と大書され、裏には「明治453月建立」とある。

 

 祭神は伊吹大神となっているが、多々美比古命(たたみひこのみこと)、八岐大蛇、須佐之男命など諸説あるようだ。古代の製鉄に関わる集団の祖神であったという説もある。奈良時代の「帝王編年記」によれば、多々美比古は霜速比古命(しもはやひこのみこと)の子で、夷服(いぶき)の岳の神だとされている。近くの浅井の岳の神様と山の高さを競った時に、浅井の岳が一夜にして高さを増した。怒った多々美比古命が浅井の岳の神様の首を切ると、首は琵琶湖に落ちて竹生島になったという言い伝えがある。

 

 他にも、伊吹山には記紀に記された倭健命(やまとたけるのみこと)の伝承がある。ここでは一大ロマンとして語られる古事記の記述でとりあげてみる。

 

 倭健命は景行天皇(12)の子で、幼名を小碓命(おうすのみこと)という。物語は前段の西国遠征と、後段の東国遠征に分かれる。西国遠征での倭健命は、勇ましく知略に富む英雄として描かれている。熊曽征伐では女装して宴席に出て、熊曽建(くまそたける)を討ち取った。いまわの際に、熊曽建から倭の建の名を譲られたという。出雲征伐では相手の太刀を木刀にすり替えて、出雲建を討った。西国を平定して戻ると、あまりの強さに恐れをなした景行天皇から、休む間もなく東国遠征を命じられる。

 

 後段の東国遠征からは、父王に疎まれた悲劇の英雄として描かれる。伊勢の斎宮となっていた叔母の倭比売命のもとに立ち寄り、「父は自分に死ねと思っている」と父の仕打ちを嘆く。哀れに思った倭比売命は倭健命に、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石の入った御嚢(みふくろ)を授けた。

 

相模国では国造に欺かれ、野原で焼き討ちにあう。火に囲まれた倭健命と妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)は、草那芸剣で周りの草を刈り、御嚢から取り出した火打ち石で迎え火をして窮地を脱した。国造たちは滅ぼされ、死体が焼かれた場所を焼津という。

 

三浦半島の走水の沖では、一行が荒れ狂う海に立ち往生した。妃の弟橘比売は荒れる海を鎮めるために海に身を投げ、最後に残した歌がある。

「さねさし さがむのをの もゆる火の ほなかに立ちて 問いしきみはも」(相模の小野で 燃え盛る火の中で 私のことを気遣ってくださったあなたでした)

 

遠征からの帰途、足柄にさしかかった倭健命は相模湾を眺めながら、「あずまやは」と弟橘比売を偲んだ。それから、足柄より東国を吾妻というようになったという。

 

数々のエピソードを残しながら甲斐、信濃と遠征を続けた倭健命は、尾張へに行き、熱田神宮ゆかりの美夜受比売(みやいずひめ)と結婚した。

 

倭健命は美夜受比売のもとに草那芸剣をおいて、伊吹山の神を征服に向かった。伊吹山の麓で牛ほどもある白猪に出会った。倭健命はその白猪を山の神のお使いだと思い、「今殺さなくとも、後で退治しよう」と、さらに山奥へ向かった。ところが、この白猪は山の神のお使いではなく、神様自身であった。プライドを傷つけられた山の神は荒れ狂い、空は一天かき曇り、大粒の雹(ひょう)が降り、つぶてとなって倭健命を打ちつけた。半死半生で山を下りた倭健命は、麓の玉倉部の清水にたどり着いてのどを潤すと、やっと正気に戻った。この清水を居寤(いさめ)の清水という。

 

衰弱した倭健命は悪路に足を痛め、腫れ上がった足を引きずりながら、倭へと向かう。途中、杖をついて歩いた坂を、杖衝坂(つえつきさか)という。ようやく能煩野(のぼの)にたどり着いた倭健命は、懐かしいふるさとの倭を思い浮かべながら、歌を残して息絶えた。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しはうるわし」

(倭の国はすばらしい たたみ連なる青々とした垣のように 山々に囲まれた 倭は美しい)

死後、倭健命の魂は八尋もの白鳥となって倭を目指して飛んでいった。

 

 伊吹山には倭健命の有名な伝承があるのに、伊夫岐神社に祀られていたのは伊吹山の神であり、倭建命ではなかった。それは、この地方にもともとあった信仰が、伊吹山を聖なる神のいる山とみる伊吹信仰なのであって、倭建命とは関係がなかったからだ。

 

倭建命の物語は、中央や地方の豪族に伝わる伝承をつなぎ合わせたといわれている。伊吹山の伝承のうち、倭建命の死に結びつく最後の戦いを創作したのは、草那芸剣を伝世していた熱田神宮の尾張国造家であり、その地を伊吹山に求めたのは、自らの祖を倭建命に結びつけたかった息長氏だったという。

 

そして、伊吹山の神の化身を白猪にしたのは、冬に豪雪をもたらす風の回廊の住人たちだったからという話もある。

 

参考文献

1)谷川健一編:日本の神々 山城近江、白水社、2009

2)横田健一:ヤマトタケル、徹底比較 古事記・日本書紀と古代史料、歴史読本、444)、116-、新人物往来社、1999

3)三浦佑之:口語訳 古事記、文藝春秋、2002

4)伊吹町史編さん委員会編集:伊吹町史 通史編上、1997



監督と並んで優勝を狙うペ・ヤング氏2010年10月11日 21時19分00秒

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

めでたく田舎である水戸への栄転も決まり・・・
馬体重も10kg落として万全の体調で臨んだ”過去2回優勝”のペ・ヤング氏

85と絶好調だったのですが・・・隠しホールに恵まれずに・・・
残念ながら4位に

3回目の優勝は次回におあずけ。。。



F-cup at オークビレッジ2010年10月13日 03時19分20秒

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

ミュアヘッドの設計で有名なオークビレッジ

外観も立派です


クラブハウスのロビー

奥がレストラン・・・1階にあるのは結構珍しい


しかもなんとバイキング形式の朝食が無料
僕は朝食を済ませてきたのでこの程度しか食べなかったが
内容は味も含めてバッチリ!


ゆっくりとコーヒーでも


レストランからのコース風景


そしてみんなを苦しめたコースコンディション
早いだけでなくグリーンがアンジュレーションだらけでしかも2段、3段グリーン
オンしても安心できません


初優勝にかける監督

今回の秘密兵器は---”高い弾道のドライバーショット”

一緒に回った某韓国の有名企業の方(日本語ペラペラ)が思わず言った一言

・・・・”○プラですね”
(注;日本では思ってもあまり素直には表現しないのですが。。。。)

・・ということで途中から距離を押さえ気味にティーショットを放っておりました

そして秘密兵器第二弾は・・・
何とあの石川遼君もできなかった”ドライバーの水切りショット”



それでは華麗なティーショットを御覧ください

秘密の編集会議2010年10月16日 02時37分01秒

■全ての写真はクリックすれば拡大(XGA)します--- Let's try!

久しぶりにフライペンで・・・秘密の編集会議です

おやおや看板が変わってます

和紙が素敵な雰囲気を醸しだしてます


入り口はこんな感じに。。


本当は料理を紹介するはずだったのですが・・・
とにかくお腹がすいていて・・・写真なしです、ごめんなさい

トッポギの入ったスープも美味しかった

監督の話では最近特に色んな種類のスープがでるようになって
それがどれも美味しいそうです

・・・やるなヒャンフィ(^_^)

そのうちのよっちゃんから料理の写真がくるでしょうから期待しましょう

第165弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 伊香具神社2010年10月17日 04時36分06秒






第165弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  伊香具神社

 

織田信長が本能寺の変で亡き後、織田家の跡目相続に絡み、織田家重臣、羽柴秀吉と柴田勝家の間に争いが起きた。天正11年(1583)、世にいう賤ヶ岳の戦いである。

 

賤ヶ岳は余呉湖と琵琶湖の中間にあり、その東麓で地図の赤四角印に、伊香具(いかご)神社がある。

 

写真のように、伊香具神社の鳥居は複雑な形をしている。

普通二本の立て柱と横木から成り立っているが、この鳥居は立て柱の前後を支える形で稚児柱が設けられ、厳島神社にある両部式鳥居に似ている。その上、真ん中の鳥居の両脇に、小振りな「わき鳥居」がついていて、入り口が三カ所あるように見え、奈良の大神(おおみわ)神社にある三輪式鳥居にも似ている。両方の形式が合体したような伊香式鳥居は、かなり安定はよさそうだ。

 

その昔、この神社のすぐ前に伊香小江(いかごのおえ)という入り江があり、後には伊香山という神奈備(かんなび)があった。湖の神様と山の神様を併せて祀るために、このような形の鳥居が作られたという。神奈備とは神霊が鎮座すると信じられていた山のことだ。

 

「當社由緒概略」によると、祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の五世の孫伊香津男臣命(いかつおみのみこと)とあり、創立は天武天皇の白鳳10年以前のことだという。伊香津臣命がこの地を開墾した時は、「天児屋根命の命を伝えて、皇孫に侍従し久しく宝器を守る」と勇ましい。新撰姓氏録にある左京神別伊香連は連姓を名乗っており、大王に一定の職掌を持って奉仕する氏族であったことを示している。「皇孫に侍従し」とあるのは、中央で中臣連の配下として大王に仕えていたことをさしているようだ。先祖が天児屋根命といえば中臣氏と同族ということになるが、怪しいという説もある。古代では同族関係の変更はしばしばみられ、古くは物部氏との系譜上のつながりも指摘されている。

 

伊香津臣命の出自に関しては、この地の羽衣伝説につながる伝承がある。その羽衣伝説は近江風土記や帝王編年記に書かれているのだが、日本各地にある羽衣伝説の中では最も古いものだといわれている。

 

昔、この辺りは四方を山に囲まれ、伊香小江(ここでは余呉湖のことだという)という小さな湖があった。ある日、湖の南の水辺に、八人の天女が白鳥となって降りてきた。西の山で猟をしていた伊香刀美(いかとみ)がそれを見て、羽衣の一枚を隠してしまった。羽衣をなくした一番年下の天女は戻れなくなり、伊香刀美の妻となってこの地に住んだ。二人は男女二人ずつ子供をもうけ、兄の名は恵美志留(えみしる)、弟は那志等美(なしとみ)、姉は伊是理比啼(いぜりひめ)、妹は奈是理比啼(なぜりひめ)といい、彼らは「伊香連」の祖先となった。後に、羽衣を見つけた母は天に戻った。

 

天人の伝説は世界各地に存在するのだが、父系の出自を重要視する満州や朝鮮半島においては、天人といえば多くは男であり、天女の伝説は少ないという。そんな中で、朝鮮半島の江原道の金剛山には、有名な羽衣伝説がある。

 

ある日、金剛山に住む木こりが鹿を助けた。鹿はお礼に、金剛山の頂上にある湖に天女たちが舞い降りて水浴びをするから、羽衣を隠し、戻れなくなった天女を妻にしなさいと教えてくれた。そして、子供が三人生まれるまでは決して羽衣を見せないようにとも言い残した。

木こりは湖へ行くと、鹿のいう通り八人の天女が降りてきた。一枚の羽衣を隠すと、一人の天女が天に帰れなくなった。木こりはその天女と夫婦になり、二人の男の子をもうけた。木こりは鹿の教えてくれたことを忘れて、隠していた羽衣を天女にみせた。すると、天女は二人の子供を連れて天に戻ってしまった。鹿が三人の子供を産むまでといったのは、子供が二人なら両手に抱えて天に昇ることはできるが、三人なら無理だったからだ。

 

日本と朝鮮半島の羽衣伝説を比較すると、いくつかの類似点があるのに気がつく。男は木こりであったり、猟師であったり、山で生活する者であったこと。舞い降りてきた場所は湖で、天女は八人であったこと。天女が生んだ男の子は二人で、最終的に天女が羽衣を手に入れ、天に帰ってしまったことなどである。

 

日本の羽衣伝説は、金剛山の羽衣伝説をネタ元にしていると考えてよさそうだ。ならば、だれがそのような伝説を伝えたのだろうかと考えた。

 

境内に、この地に伝わる絹織物の歴史を記した案内がある。

伊香具神社のある地名は大音(おおと)という。大音糸という生糸の産地で、かつて生糸を用いた冠の紐や刀の下緒を宮中に献上していた。応神天皇37年に呉の国から若狭を経由して渡来した4人の女工が、長い旅の疲れをこの地で癒し、そのお礼に糸とりの技法を教えたという。それを受け継いで、伊香具神社の神職が伊香山の麓に湧き出る軟質の水(独鈷水)で生繭を煮て製糸を試みたところ、白い光沢のある弾力に富んだ生糸がとれた。それが村人に伝えられ、近年まで、大音糸は医療用糸、パラシュートの糸、琴や三味線の糸として使われていたというのだ。

 

呉の国から来た女工の話で分かることは、この地は朝鮮半島から敦賀に来た人が京都や奈良へ行く通り道になっていたということだ。羽衣伝説を伝えた人は、そういう人たちだった可能性がある。

 

伊香具神社は菅原道真や足利尊氏が信仰したこともあり、中世には隆盛を極めた。賤ヶ岳の戦いによって全てが焼失したが、慶長13年には社殿が再建され、それから現代まで伊香郡の総鎮守社として栄えた。

 

参考文献

1)川口謙二:鳥居 百説百話、東京美術選書、1987

2)谷川健一編:日本の神々、白水社、2009

3)長谷川秀記:世界の神話伝説 総解説、自由国民社、1994

4)依田千百子:朝鮮神話伝承の研究、瑠璃書房、1991

5)黄浿江:韓国の神話・伝説、東方書店1991