第167弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 えな塚2010年11月07日 07時23分59秒







第167弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  えな塚

 

写真は高島郡安曇川町の三尾里にあるえな塚である。「えな」とは胞衣と書き、後産、いわゆる胎盤のことだ。案内には継体天皇(26)のへその緒が埋められたと記されている。

 

現代では胎盤はプラセンタと呼ばれ、医薬品や化粧品にも用いられている。古くは藁や紙などに包まれて壺や土瓶などに入れられ、洗米や小魚などと共に埋められていた。男児の場合は筆墨、女児の場合は針や鋏と共に埋められることもあった。

 

埋められた場所もさまざまだが、最も多かったのは門口の敷居の下や敷居のすぐ外で、人が踏みしめるところだ。鎮魂や家の守りを祈願しており、縄文時代からみられる風習だという。

 

えな塚は径11mほどの小さな円墳で、畑の中にさりげなくロープで区切られている。周りの景色を見渡すと、今は田畑の先に民家が迫っているが、安曇(あど)川と鴨川が琵琶湖に注ぐ三角州の平野が広がっている。

 

三角州が作り出す肥沃な平野は、古代には安曇川を挟んだ北側の角山(つのやま)君氏と南側の三尾君氏によって支配されていた。角山君氏の墳墓とみられているのが、安曇川の北の饗場野台地にある古墳群で、3世紀前半から5世紀後半にかけて造られた前方後円墳をはじめとした大小35基の古墳がある。6世紀前半とみられる双円墳からは,首長級の三葉環刀太刀が出土している。

 

一方、安曇川の南にあるえな塚から500mほど離れた鴨稲荷山古墳は、6世紀中葉に造られた古代豪族の三尾君氏関係の墓とみられている。鴨稲荷山古墳の家形石棺の内外からは、金製の垂飾(すいしょく)付耳飾りや金銅製の冠などが出土している。えな塚から2Kmのところにある秦山寺台地には、5世紀前半から6世紀後半に造られた44基からなる田中古墳群がある。この古墳群の中心に直径58mの帆立貝式古墳があり、彦主人(ひこうし)王の陵墓参考地となっている。この彦主人王が継体天皇の父である。

 

彦主人王は高島郡の三尾の別業(なりどころ・別邸のこと)にいた。初期の継体の二人の后妃は三尾氏の出身であり、両者の関係は深く、大橋氏によると三尾氏は別業の経営を支えていたというのだ。三尾君氏の祖は垂仁天皇34年の条にある山城大国の娘が産んだ磐衝別命(いわつくわけのみこと)だとされている。

 

ここで、継体天皇の出生から崩御までの経過をざっと紹介する。

 

日本書紀には、継体は応神天皇の5世孫で、彦主人王の子だと記されている。中の3代の記載はないが、「上宮記一云」という本には、若野毛二俣王、意富富杼(おほほど)王へと続く名前が明らかにされている。意富富杼王は息長氏の系譜とも重なる。

 

彦主人王は、容貌が端正で美人と評判の振姫を、三国の坂中井(さかない)から妻に迎えた。振姫は垂仁天皇の7世孫で、系譜としては三尾君氏に近い。継体の幼い時に彦主人王が亡くなると、振姫は生まれ故郷の越前国坂井郡高向郷に戻り、継体を育てた。

 

継体天皇の先代、武烈天皇(25)は、妊婦の腹を割いて中の胎児をのぞいたとか、人の生爪を剥いで山芋を掘らせたとか、悪行の数々が記され、日本書紀では極悪非道の天皇として描かれている。武烈天皇には子がなく、武烈天皇が崩御すると直系の男子の跡継ぎが絶えた。傍系の皇子を捜そうにも、4代前の雄略天皇(21)とその子の清寧天皇(22)は王位継承の可能性のあるライバル皇子たちを根絶やしに殺害している。そのくせ清寧天皇には子がいない。清寧天皇が亡くなった時には、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の忘れ形見の兄弟を、逃げた播磨国から捜し出し、大王にした。ところが、兄の顕宗天皇(23)には子がなく、弟の仁賢天皇(24)にも皇子が一人いるだけで、その皇子が武烈天皇だ。3~4代さかのぼった位では、傍系にも男子がいないという事態になった。

 

そこで、大連(おおむらじ)の大伴金村は群臣と協議し、仲哀天皇(14)の5世孫で丹波にいた倭彦(やまとひこ)王を迎えようとしたが、倭彦王は迎えに来た軍勢に驚き逃げてしまった。次に、越前の三国にいた応神天皇の5世孫、袁本杼命(おほどのみこと・継体)を迎えようとした。継体は大伴金村の再三の要請を断ったが、最後には旧知の河内馬飼荒籠(うまかいのあらこ)の説得によって樟葉宮(くすは・大阪府枚方市)で即位した。継体元年(507)、57才の時である。

 

即位して5年目に山背筒城(つつき・京都府京田辺市付近))に遷都し、12年目には弟国(京都府長岡京市付近)に移り、20年目にして大和の磐余玉穂宮(桜井市)に入った。即位してから20年間、大和盆地に入ることができなかったわけだ。その5年後の継体25年(531)、82才で崩御した。

 

継体の陵墓は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳に指定されているが、実際は45Km離れたところにある今城塚古墳だといわれている。今城塚古墳は全長190m6世紀前半としては最大級の前方後円墳である。

 

以上のような継体天皇の出自と即位後の経緯から、武烈天皇と継体天皇の間に血統の断裂があったとする説が、昭和27年(1952)、水野祐氏によって提唱された。王統の断裂は仲哀天皇と応神天皇(15)の間にもあったとする三王朝交替説である。垂仁天皇から仲哀天皇までの五代までの三輪王朝、応神天皇から武烈天皇までの河内王朝、継体以降の継体王朝である。その後、継体新王朝説は直木孝次郎氏などによって補強されたが、最近では継体天皇がやはり大王家の血統であるという人もいて、今でも私のような考古学ファンに胸を躍らせる話題を提供している。

 

それが全て、このえな塚から始まったわけだ。

 

参考文献

1)小野正敏ほか編:歴史考古学大辞典、吉川弘文館、2007

2)水谷千秋:謎の大王 継体天皇、文藝春秋、2006

3)大橋信弥:継体天皇と即位の謎、吉川弘文館、2007