ケルンの水 Part2;デユッセルといえばハイネマン ― 2011年04月01日 01時55分40秒
今回は自由時間が全くない”仕事モード”
とは言いながらセットアップの日の朝一だけ少し時間がとれたので
デユッセルドルフの銀座ともいうべきケーニヒスアレーに
このような川の両側にブランドのお店が全てあります
最高のデートスポットでもあるのですが月曜の早朝8時ということで
出勤途上の方ばかり
H&Mの入ったビルの一角にハイネマンの店舗があるのを発見
以前はこの側のもう一軒のほうに行ったんですがこちらのほうが本店っぽく
大きい
店内は撮影禁止なのでショーウィンドウ
相変わらずの”リトルワールド”状態です
お店の前にはハイネマンの配送車も
ここは9時~午後8時
他は9時~午後6時までの開店なので観光客は行く機会があるのですが
我々には初日セットアップの朝だけが唯一のチャンス
店内です
9時からみんな朝のコーヒーとケーキを食べにやって来ます
コーヒー
ケーキ類は下のお店で買ってきて2階の女性にレシートを見せると
持ってきてくれます
朝食を食べたばかりなのでちょっとキャンデーっぽいのを
・・・・甘かった
第174弾 のむけはえぐすり 閑話休題 善徳女王 ― 2011年04月03日 16時39分14秒
第174弾 のむけはえぐすり
閑話休題 善徳女王
写真のイヨウォンが演じる韓流テレビドラマの「善徳女王(ソンドクヨワン)」をみた。
善徳女王は新羅第27代の王で、諱(いみな)は徳曼(トンマン)という。新羅の最初の女王で、在位は632年から647年。朝鮮半島では高句麗と百済と新羅が三つ巴の争いをしていた三韓時代の話である。善徳女王の生涯を描いたドラマは、2009年に韓国で40%前後の視聴率を続けた国民的な番組である。
ドラマでは、徳曼が真平王(26)の双子の長女として生まれた。新羅には双子を忌み嫌う言い伝えがあり、侍女に託され敦煌に逃がれた。徳曼が新羅の都、徐羅伐(ソラボル・今の慶州)に戻った時には、王宮は真智王(25)の側室であった美室(ミシル)によって支配されていた。徳曼は妹の天明と出会い、真平王の実子であることが分かり、王女となって美室一派と対決する。それを助けるのが、花郎(ファラン)の金庾信(キムユシン)、閼川(アルチョン)であり、毗曇(ビダム)である。戦いの中で天明は暗殺されるが、徳曼は天明の子の金春秋とともに美室一派を破り、即位して善徳女王となる。50話までのドラマはここで終わる。
ドラマの途中、三国史記を読んでみた。高麗時代の1145年に金富軾によって編集された三国史記は、朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。三韓時代から統一新羅時代の末期までが記されている。全50巻あるなかで、新羅本紀の巻数が高句麗本紀、百済本紀よりも多く、第5巻に善徳女王が記されている。
三国史記には、善徳女王は性格が寛容で仁徳があり、明朗、俊敏、聡明だったとある。編者の金富軾はそう書く反面、最後にわざわざ注釈を設け、「男は尊くて女は卑しい、女は引っ込んでいろ」といった意味のことを長々と書いている。真平王に男子の後嗣がなかったので、国人によって擁立されたという。在位中には、高句麗や百済との戦いが繰り返し記されている。646年に毗曇が最高位の上大等の位に任じられたが、翌年の正月には「女王ではよく国を治めることができない」として反乱を起こした。善徳女王は乱の最中に没し、乱は次の真徳女王(27)によって鎮圧され、毗曇は一味の30人と共に誅殺された。
ドラマでは善徳女王の右腕として活躍した毗曇だが、史実では女王に反乱を起こし、女王の死後、閼川に捕らえられ処刑されたと知って驚いた。
ところが、当初50話で終わるはずだったドラマが、あまりの人気に12話が追加された。追加された12話では、善徳女王の恋人となった毗曇が旧美室一派の陰謀に巻きこまれ、反乱の首謀者となる。毗曇は殺され、善徳女王は病死するという筋書きで、若干史実に近くなる。
毗曇の乱の真相を探ってみる。
ドラマの中で、唐の使者が善徳女王を女であると侮辱する場面がある。この場面のモチーフになった三国史記の記述は、次のようになっている。善徳女王が援軍を要請する使者を唐に派遣した。唐の太宗は使者に、新羅では女が王になっているから隣国に軽んじ侮られて侵略が続いていると言い、太宗の一族を一時的に王にすることを援軍の条件にした。要するに、女王であることを口実に、新羅が唐の属国になれば援軍を派遣するという話である。使者は返答にせずに退散し、太宗は「田舎者は話にならない」と嘆いたというのだ。
その後、百済の侵略は激しさを増し、伽耶地方の七つの城が奪われる事態が起きた。「女王ではよく国を治めることができない」という毗曇の乱の名聞からは、太宗の提案に呼応し唐から王を迎えようとしたと考えられる。だが、反乱が鎮圧され、善徳女王の亡き後に選ばれたのが真徳女王であった。男系の跡継ぎがいなかったわけではない。45歳になる金春秋という王位継承者の資格をもつ聖骨(ソンゴル・両親とも王族の血筋を持つ人物)がいたにもかかわらず、まして唐の介入への口実を与えることになるにもかかわらず、再び女王が選ばれた。
それが嫡子継承を維持するためだったとする酒寄氏の説がある。新羅王系譜を見ると、眞興王(24)の太子は銅輪であったが、早世したため、次男の舎輪が王位を継ぎ真智王(25)となった。真平王(26)となる白浄が幼かったからだが、ここが兄弟継承になっている。真智王は在位4年にして、政治を乱し淫蕩であることを理由に、慶州貴族による国政決定合議機関の和白会議の決定によって廃位に追い込まれる。白浄の成長によって、本来の嫡子継承に戻すためだったと、酒寄氏は考えている。真平王の後も、真智王の系譜に王位継承権を戻さないために、善徳女王、真徳女王と継承する必要があったというのだ。
新しく王となった真徳女王は新羅の衣冠制を唐風に改め、唐の年号を採用し、唐に従属する姿勢を明確にする。その過程で新羅国内における貴族層の身分の再編が行われ、律令的官僚制に向かって動き始めた。真徳女王の後を継ぐ金春秋は、クーデター後の淵蓋蘇文の高句麗と、大化改新後の倭に援軍の要請に出向き、両国が中央集権国家に向かって歩み出しているのをつぶさに見ている。金春秋は王族を中心にした国内支配体制の強化が新羅の進むべき道と自覚したはずだ。武烈王となった金春秋は、一心同体といわれる金庾信を上大等に任じ、自分の子を高位に叙して官僚機構と軍事権の掌握につとめ、中央集権化を推進し、三韓統一の実現への礎を築いた。
その結果を見れば、二人の女王は新羅が慶州貴族による集団指導体制から中央集権国家への移行期に王位に就いていたことになる。毗曇の乱はその過程で起きた王族と貴族の権力闘争であったというのが真相なのだろうと思った。新羅の王族が金富軾や唐の太宗ほどジェンダーでなかったことが幸いした。
参考文献
1)酒寄雅志:毗曇の乱《新羅》、歴史読本、臨時増刊28(19)、154-161,1983
2)金富軾、井上秀雄訳:三国史記Ⅰ、平凡社、2009
上野のお山は桜満開です ― 2011年04月06日 21時25分20秒
東京に行く用事がうまい具合に出来まして (^_^)
用事が終わってから上野のお山に行ってみました
例年は千鳥ヶ淵なのですがまだ2-3分咲きという情報だったのと
たまには違うところも・・・ということで久しぶりの上野の桜です
事前情報では5-6分咲きだったのですが本日の暑さで一挙に8分咲きくらいに。。。
今回はこれまで知らなかった上野のお山の建物紹介;清水観音堂
お茶を飲ませてくれます
人形供養碑
手水
上野のお山は何度も来ているしテレビ、雑誌等でしょっちゅう紹介されているので
見たことがあるような気になっていたが・・・
初西郷どん でゲス
強風で桜が。。。。 & マイレージで募金 ― 2011年04月09日 20時36分30秒
ケルンの水 Part2;ドイツでよく見かける車 NO.1 ― 2011年04月10日 20時06分23秒
今回泊まったデユッセルドルフのセントラルホテルはその名の通り中央駅から
4分もしないいい立地条件が売りなのですが、他にも朝食がよかった
朝も7時からなんですが毎日早まって最後は15分前から食べられたり
(日本人と変なドイツのおじさんが待ってたのでどんどん早まった)
中身のほうも最高に充実でした
ドイツでよく見かけてよそではほとんど見ない代表
スマート2です
日本でもたまにスマート2+2は見かけますがドイツでは圧倒的に2です
おばあちゃんが運転していたり・・・
色も色々
今回一番気に入ったバイクです
これなら通勤に最適ですね
・・・しかも BMW エンブレムが光ってます
中にはさりげなくRRも
エコポイントと桜 ― 2011年04月16日 04時04分26秒
久しぶりのとんQ;4月限定の(ズワイ)かにフライ ― 2011年04月17日 17時39分19秒
第173弾 のむけはえぐすり 継体天皇の今城塚古墳 ― 2011年04月19日 03時37分16秒
第173弾 のむけはえぐすり
継体天皇の今城塚古墳
京都駅からJRに乗り、高槻にある今城塚古墳に向かった。電車が天王山の山裾を抜けると三島平野が開け、20分で大阪と京都のベッドタウンが広がる高槻に到着する。
遠く北摂山地から流れ出た尾川、芥川、女瀬川、安威川は三島平野を潤し淀川へと合流する。大阪平野がまだ河内湖という大きな湖であった頃、三島平野は良田に恵まれていた。
4世紀頃から大和王権は服属させた地方の豪族を県主(あがたぬし)に任じ、地方を掌握していた。三島平野は三島県主であったが、大宝律令の701年に三島郡は三島下郡と三島上郡に分けられた。三島上群の役所、島上郡衙(ぐんが)の跡地が、高槻駅から今城塚古墳へと向かう途中の芥川のそば、郡家川西遺跡にある。島上郡衙は3町にも及ぶ広大な敷地を有し、郡司の執務する建物、正倉、寺院などの巨大な建物が軒を連ねていた。同じ場所には古墳時代の集落遺跡が何層も確認されており、弥生時代の形式を受け継いだ竪穴式住居もあるという。
島上郡衙のすぐそばを、古代の幹線道路、山崎道が走っている。郡衙から山崎道を西へ500mほど下ると、道沿いに今城塚古墳がある。さらに1.5Kmほど下ると、太田茶臼山古墳がある。5世紀中頃に太田茶臼山古墳が造営された時にも、今城塚古墳が520年代から作り始められ、531年に継体が埋葬された時にも、三島県主の拠点は隣り合わせで存在していた。
となると、三島県主が大田茶臼山古墳や今城塚古墳を作ったのだろうか? その手がかりを探しに、今城塚古墳に隣接する今城塚古代歴史館を訪ねてみた。
三島古墳群のなかで芥川の上流の奈佐原丘陵にある古墳が、三島県主の初期の古墳と想定されている。3世紀後半から丘陵の東麓に前方後円墳が営まれ、中期になると平野に移り、4世紀末の郡家車塚古墳(墳丘長86m)や5世紀前半の前塚古墳(90m)へとたどることができる。歴史館には、初期の前方後円墳である弁天山古墳(73m)から出土した銅鏡や石製品や鉄製の農具が展示されている。銅鏡の中には三角縁神獣鏡があり、三島の王が大和王権とのつながりを誇示し、始まりは同盟関係にあったと考えられる。
そこに、5世紀中頃突如として、太田茶臼山古墳(226m)が出現する。太田茶臼山古墳は三島古墳群の初期の古墳とは違い、古市古墳群の墓山古墳などと同じ設計であり、作ったのは古市古墳群の土師氏という説(大阪府史Ⅰ、720p)もある。
太田茶臼山古墳は陵墓に指定されていて調査は不可能だが、近くに同じ頃に作られた土保山古墳がある。歴史館にはその副葬品である革の楯、鉄剣、短甲などが展示され、埋葬者は武人であったことがうかがえる。展示場の解説では、大和政権が軍事力を背景に国内統一を進めてきたことを反映しているという。
太田茶臼山古墳や今城塚古墳が三島の初期の古墳と違っていることは、古墳の大きさや設計だけではなく、埴輪からもうかがえる。
太田茶臼山古墳の埴輪を作った窯の跡が、今城塚古墳からさほど遠くない山裾にある。新池遺跡といい、太田茶臼山古墳が築かれた時に開かれた。良質な粘土があり、薪をとる山に近く、登り窯を築くのに適した斜面があり、船で運ぶための川に近いという絶好の立地である。太田茶臼山古墳の埴輪を供給した後も、土保山古墳などの周辺の古墳のためにそのつど窯が築かれ、100年近くにわたって埴輪を供給し続けた。
新池での埴輪生産は、今城塚古墳を作る時に最盛期を迎えた。この時期の工房が数棟みつかっており、工人が住む住居でも埴輪が作られていた形跡があり、分業化が進んでいたことがうかがえるという。その時に作られた巨大な埴輪が歴史館にも展示されているが、実際に古墳にあった時の様子が今城塚古墳に再現されている。
190mの今城塚古墳は二重の濠によって囲まれ、兆域の全長は350m、6世紀最大の前方後円墳である。13世紀には盗掘にあい、戦国時代には城として使われ、それが今城の名前の由来となったのだが、かなり荒らされたようだ。さらに、1569年秀吉が伏見にいた時に起きた伏見大地震により、墳丘が滑落した。そのため3段あった後円部は低くなってしまい、段丘も乱れている。
昭和33年に国の史跡の指定を受け、古墳全体の整備が進んだ。写真は、前方後円墳のくびれの辺りの内堤にある埴輪祭祀場の復元の様子である。全長65mの区間に整然と巨大な埴輪のレプリカが並べられている。一番右に筒型の埴輪が隙間なく並んでいるが、これが内堤の外縁と内縁に生け垣のように並べられた高さ1mほどの円筒埴輪列である。
左側に家形埴輪がみえる。高さは170cmで日本最大、当時の高床式の家を模している。手前には馬具を装備した飾り馬の埴輪や、鶏の埴輪などの動物埴輪がある。柵形埴輪に囲まれた中に、巫女、力士、武人、楽人たちの人物埴輪が並んでいる。右手前のイカのお化けのような形の埴輪は楯だそうだ。このような埴輪は三島の初期の古墳にみられた埴輪より精巧で、格段に大きなものだった。
今回、歴史館と今城塚古墳をみて、今城塚古墳は三島県主の技術と工人によって作られたのではなく、大和の大王家が太田茶臼山古墳を築造した時と同じように、設計者や工人を丸ごと送り込んで作られたことが分かった。大王家に軍事的に服属した三島県主は、工事のための膨大な労働力と土地と資金を提供していたのだろう。
参考文献
1)高槻市教育委員会:高槻市今城塚古代歴史館常設展示図録、2011
2)高槻市今城塚古代歴史館:三島と古代淀川水運1 初期ヤマト王権から継体大王の登場まで、2011
3)大阪府史編集専門委員会:大阪府史 第1巻 古代編1,大阪府、1978
裏磐梯ペンション ベイクド・ポテト ― 2011年04月23日 17時58分25秒
2月末までスキーを楽しんでいたんですが広州出張の後にアップしようとしてたら
3.11の地震が発生してそれどころじゃないうちにドイツに行ってしまいましたので
今年最後のスキーの話でも。。。
グランデコ・スキーリゾートの一番上のリフト
このぐらい綺麗に晴れると嬉しいですね
泊まったのは裏磐梯のペンション ベイクド・ポテト
外観も決まってます
雪国ならではの一家に一台必需品
ロビーには昔のカービングじゃないロシニョールのスキー
そしてパイオニアのプラズマ
山水のアンプ
思わず嬉しくなってくるじゃないですか (^^♪
食堂
前菜
肉なんですがちょっと写真失敗
美味しいフルコースが楽しめます
朝食
ヨーグルトが可愛い
二階から見る朝日
五色沼の側に奥さんがやってるベリーズ・カフェというのがあるそうなんですが
スキーシーズンはグランデコのリフト売り場のすぐ先でホットドックのお店を
やってます
荒挽きウインナーのホットドックがうまい
デコのリフト下はそこに入るのが結構やっかいでこれまで滑ったことがなかった
(僕だけでなく他のボーダーも)んですが、、、、、、
まあ、いいか・・・・ということで一本 (^^♪
なかなか楽しい滑りでした
このペンションも震災で被災して今週末とGWだけ営業できるところまでいったようです
また来年は毎週泊まりに行きましょう
黄香姫先生の授業風景 ― 2011年04月29日 15時02分31秒
1)黄香姫先生の授業風景
実は、3月11日のあの地震の日、黄香姫はとある学校の料理の先生として授業をしていました。
あの地震さえなければ、全国紙のトップ記事を飾ったに違いありません。
最初は、お肉の料理からです。
チョット緊張していましたが、料理を始めればプロです。
机の上にコチュジャンがあるのは分かりますが、どうしてケチャップがあるのか、分かりません。
2)黄香姫の授業風景
ほらね、ここはお肉と、よーーーくかき混ぜて。
アラッチ!! (分かった?)
といったかどうかは、分かりません。
3)黄香姫の授業風景
黄香姫「・・・そうしたら、ここで肉を焼きます。ここが大事なのです、よく見ててネ」
生徒「ただ、普通に焼いているように見えますが・・・」
黄香姫「そう見えている間は、まだ分かってないのよ、簡単そうに見えて難しいのヨ、これが・・」
・・と、言ったかどうか。
3)黄香姫の授業風景
ハイ! これがチジミ
ア!! チョット形悪いけど、よーーく、押さえつけましょうね
4)黄香姫の授業風景
黄香姫「ここで、コチュジャン入れて、混ぜますよ」
生徒「えーーー!!ソンなことするですか?」
黄香姫「こうしないと、おいしくならないのヨ、これが韓国料理のコツ、アラッチ?」
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