第175弾 のむけはえぐすり 継体天皇陵墓の制作者 野身神社2011年04月29日 21時47分46秒






第175弾  のむけはえぐすり

継体天皇陵墓の制作者 野身神社

 

 高槻駅の近くにある日神山(ひるがみやま)の山頂に、地元では「じょうぐうさん」と呼ばれる上宮天満宮がある。祭神は、武日照命(たけひなてるのみこと)、野身宿称命、菅原道真命の3神である。

 

日神山の麓に昼神車塚古墳がある。バイパスを作る時に古墳の一部が切り崩され、再構築されたので、今はトンネルの上にある。6世紀中頃に作られた昼神車塚古墳(全長60m)は、三島平野最後の前方後円墳となった。墳丘は弥生時代の墓地の上に築かれ、2層に突き固められた後、3段階のテラスが設けられた。中段のテラスには、追い詰められてたてがみを逆立てた猪、牙をむきだして追う犬、角笛を吹く猟師たちと続く埴輪の列があり、古代の狩りの様子が表現されていた。今は古墳の中段に現代の埴輪が幼稚園の遊具のように並んでいて、土俵入り姿の力士の埴輪もある。

 

日神山一帯には、銅鐸を出土した弥生時代の住居跡の他に、四つの古墳がある。そのひとつ、山頂にある野見宿野称古墳(神社の案内のまま記載)は、写真のような野身神社(神社関係は野見ではなく、野身)となっている。

 

 最初に野見宿称が日本書紀に登場するのは、垂仁7年秋の条である。大和の当麻(とうま)に力自慢の当麻蹶速(たぎまのくえはら)がいて、力比べを望んでいた。垂仁の命により、天穂日命の14世の孫、野見宿称が出雲から呼び出され、角力をした。互いに足を上げて蹴り合った末、野見宿称は当麻蹶速のあばらを折り、腰を踏み砕いて殺したと記されている。角力の元祖となった野見宿称には、当麻の地が与えられた。昼神車塚古墳の力士の埴輪は、この伝承を表現しているのだろうか? 

 

 次に野見宿称が日本書紀に登場するのは、垂仁32年の条で、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった時のことだ。殉死を止めさせるため、野見宿称は出雲から土部(はにべ)100人を呼び寄せ、埴土(はにづち)で人や馬やいろいろなものの形を作って陵墓に供えたという。垂仁は喜び、土物(はに)を埴輪と名付け、野見宿称に陶器を作る土地を賜り、土師臣(はじのおみ)の姓を与え、土師の職に任じた。その後、土師臣は土師連になり、天武の八色の賜姓によって土師宿称となった。土師氏の祖を野見“宿称”というのは、このためのようだ。

 

 ところで、大阪の阿倍野橋から二上山を越え、当麻寺を過ぎ、橿原神宮前へと向かう近鉄南大阪線がある。途中、線路が南河内で迂回する辺りに、土師ノ里駅、道明寺駅がある。その一帯には誉田山古墳(伝応神天皇陵)、市ノ山古墳(伝允恭天皇陵)、墓山古墳などの巨大古墳が集中し、古市古墳群となっている。両駅の中間にある道明寺天満宮の社伝に、この地が野見宿称の所領として賜った土地で、子孫が代々居住したと記されている。

 

古市の土師氏は大化改新の際に蘇我宗家に従ったために、一時政界から追放された。壬申の乱では大海人皇子側の武将として活躍し、その功により宿称の姓を賜った。8世紀末の桓武天皇の時に、本拠地を大和の菅原に移し、それぞれの居住地に従って菅原、秋篠、大枝などの姓が派生した。大和の菅原、秋篠の地を地図で見ると、埴輪ゆかりの日葉酢媛陵が秋篠川を挟んだ対岸にある。秋篠川を下流にたどると、佐保川、大和川と名を変え、古市のそばを流れている。

 

平安時代の菅原道真は菅原氏の出身である。5歳にして和歌を詠み、12歳にして漢詩を吟じたという。その才を見込まれ右大臣にまで出世したが、時の権力者藤原時平の讒言にあい、901年太宰府権帥(ごんのそち・長官)に左遷された。太宰府に赴く途中、道真の叔母の覚寿尼がいた道明寺を訪ね、別れを惜しんだという。道真は太宰府で失意の中、2年後に死去した。

 

死後40年ほど経った頃、世の中に天災や疫病が続き、それが道真公の怨霊の祟りと怖れられるようになった。朝廷は勅旨をもって道真公の鎮魂のために、かねて京都北野にあった天神祠のそばに天満大自在天の霊廟を建てた。そのことから、古くからあった天神信仰と菅原道真が結びついて道真公を天神様といい、天神様は天満宮と同一視されるようになった。

 

上宮天満宮は、正暦4年(993)に菅原為理(ためまさ)によって創建された。社伝によると、為理が勅使として太宰府の菅原廟を参拝した帰りにこの地を通ると、輿が突如として動かなくなった。神に占うと、「日神山の山上に菅原家の祖である野見宿称の祖廟がある云々」とご託宣があった。早速、為理は道真公の社殿を建立し、天穂日命の子で、この地に降臨したと言い伝えられている武日照命を共に祀ったという。

 

上宮天満宮前のバイパス工事による昼神車塚古墳の調査の結果、5世紀中葉の太田茶臼山古墳と、6世紀前葉の今城塚古墳と、6世紀中葉の昼神車塚古墳にある埴輪が、前回の「のむけはえぐすり」で紹介した新池埴輪窯で作られたことが分かった。野身里の土師氏一族は、二つの巨大古墳を造営した後、自らの墓域に昼神車塚古墳を造り、自らの埴輪を供えたのだろう。野身里の土師氏一族が古市の古墳を造営した土師氏であることは、古市古墳群にある市ノ山古墳や墓山古墳と三島にある太田茶臼山古墳が同じ企画で造られていることからも言えそうだ。

 

 ところがもう一つ、日本書紀に注目すべき記事がある。欽明23年の冬11月、新羅の使者が献上品と調を持ってきた。使者は、新羅が任那を滅ぼしたことで天皇が憤っていることを知り、帰国もできず、処罰を恐れて本国にも帰らないでいるので、日本人として遇したとある。それが、摂津国三島郡の埴廬(はにいお)にいた新羅人の祖先だというのだ。三島郡の埴廬を新池埴輪窯とする説が有力だが、そうだとすると、新池遺跡で埴輪を造っていた土師氏の一族は新羅の帰化人だったということになるが、どうだろうか? 天穂日命は素戔嗚尊の子ということになっている。

 

 参考文献

1)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地 3,白水社、2009

2)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀、上、下、講談社文庫、2009

3)森田克行、西川寿勝、鹿野塁:継体天皇 二つの陵墓四つの宮、新泉社、2008