第177弾 のむけはえぐすり 継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)2011年05月26日 21時15分01秒





第177弾  のむけはえぐすり

継体天皇の妃の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)

 

山辺道を歩くと、萱生(かよう)の集落を過ぎた辺りから、西殿塚古墳が見えてくる。農園をすり抜け後円部に沿って小径を歩き、上の写真の手白香皇女衾田陵(たしらがのひめみこ・ふすまだりょう)の拝所に出る。

 

途中、前方後円部のくびれが下の写真のように深くなっている。航空写真をみると、前方部の先端がバチ状に開き、箸墓古墳に近い形をしている。

 

埴輪の原型は壺をのせる特殊器台にあった。古墳に置くためにスカート状に裾が開いた形であった特殊器台が、葬送儀礼のための用具として大型化し、埋め立てるために底部が筒状に変化し、円筒埴輪となった。中間の形として、口縁部が段になった特殊円筒埴輪がある。写真の右側の畑から特殊器台と特殊円筒埴輪が出土したことによって、この古墳が3世紀末から4世紀初めに作られた古い古墳であることが分かった。

 

となると、6世紀の継体の正妃、手白香皇女の陵墓というには古すぎることになるが、陵墓指定地の被葬者と古墳の年代が合わないことなど珍しいことではない。それよりも、卑弥呼の時代に近い初期の大和王権の王墓が、ここにあることの方が驚きなのだ。

 

山辺道に戻ると、池に囲まれた西山塚古墳がある。115mあった前方後円墳の段丘に、今は果樹が植えられている。この辺りに存在する6世紀の前方後円墳が唯一この古墳であることから、この古墳が真の手白香皇女の陵墓だといわれている。墳丘の形も、後期古墳にしては後方部よりも後円部が高く、子の欽明の見瀬丸山古墳と同じである。埴輪は高槻の新池窯の埴輪ではなく、胎土分析の結果、菅原東遺跡の埴輪窯で作られた埴輪であることが分かった(清水、228)。

 

継体の今城塚古墳は高槻にあるのに、正妃の手白香皇女の陵墓はこの柳本古墳群にある。手白香皇女の母は雄略の娘で、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)だから、和珥氏の出身のようだ。和珥氏が奈良市の北郊に移って春日氏と名を変える以前は、この辺りにいたので、母方の本拠地に墓を営んだということなのだろう。

 

私が常々不思議に思っていたことがある。継体が樟葉宮で即位したのが、継体元年(507)、57才の時である。多くの文献には仁賢の娘の手白香皇女を皇后にしてから、大和入りを果たしたように書いてあるので、77才で皇后を迎え、その後に欽明が生まれたと思っていた。随分、元気のいいお年寄りだと思った。

 

日本書紀をみると、継体が樟葉宮で即位した元年の35日に、手白香皇女を皇后に立てたとある。やがて後の欽明(29)が生まれた。欽明は嫡妻の子であったが、まだ幼かったので、二人の兄が国政を執った後、天下を治めたと記されている。続く314日には8人の妃を召し入れた。元の妃である尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)の子が後の安閑(27)と宣化(28)であり、さらに他の妃の子の名前が挙げられている。欽明は継体が数えの5758才頃の子だと考えられるので、それなら子を作るのに無理な話ではない。

 

継体の後を継いだ安閑は、即位後2年、70才で亡くなり、子はなかった。次の宣化は、即位後4年、73才で亡くなった。宣化には13女がいて、長女の石姫皇女は欽明の妃となり、男子は地方豪族の祖となった。欽明の成長を待ち、王位はスムーズにつながったように見える。

 

いや、そうではなかったのだという上田正昭らの説がある。疑惑の発端は、日本書紀の注釈にある。日本書紀は、参考にした文献の諸説を、ある文献にはこう、この文献にはこうと列記している。今時の下手なブログよりもよほど学問的なのだ。

 

継体の死については、「ある本では継体の崩御は継体28年だが、百済本記では25年となっているので、25年を採用したが、聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」と注釈されている。まるで、王室内部でとんでもないことが起きたかのような言い方なのだ。

 

さらに上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記事では、欽明の治世を逆算すると、欽明は継体の亡くなった年に即位したことになるという。また日本書紀の紀年では継体は25年に崩御し、安閑はその2年後に即位したことになる。ところが本文には、安閑は継体が亡くなる直前に即位したと記されており、2年のぶれがある。それらのことを総合すると、継体の死後即位したのは欽明であり、2年後に安閑が擁立され、二つの王朝が並立したと考えた方が辻褄があうという話だ。

 

二王朝の並立説は、手白香皇女の血脈である和珥や葛城の臣グループが擁立した欽明に対して、河内系氏族である大伴氏と結んだ尾張の勢力が安閑を擁立して、巻き返しを図ったために起きたと考えられている。その背景には、日本書紀の安閑2年(535)に、筑紫、豊、肥、吉備、毛野の13カ国に26屯倉(みやけ)を設置したという記事があるが、この時代に大和王権が各地の豪族の支配地に屯倉を設置し、富を収奪していたので、地方豪族の不満が高まっていたことがあるという。朝鮮半島への出兵計画を契機とした527年の筑紫国造の磐井の反乱も、534年の毛野国造の同族同士の紛争も、地方豪族の不満が根底にあったとする。そういう地方と王権の軋轢の中で、二王権が並立するという異常な時代があったと考えるわけだ。

 

ところで、82才の継体が亡くなった時の安閑の年令は、空位2年在位2年として、70才から4引いて66才。継体が16才の時の子ということになる。若い時も結構元気だったと安心した。

 

参考文献

1)上田正昭:大和朝廷 古代王権の成立、講談社学術文庫、1995

2)清水眞一:玉穂宮・手白香媛の墓:森浩一、門脇禎二編:継体王朝 古代史の謎に挑む、2152292000

3)松本洋明:巨大前方後円墳は初期大和政権の王墓か、歴史読本、日本古代史「謎」の最前線 発掘リポート1995294-2971995