第178弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 小野神社2011年06月20日 23時28分45秒








第178弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 小野神社

 

琵琶湖の西岸、大津市北部の小野町に、写真の小野神社と小野篁(たかむら)神社が同じ敷地内にある。その南に小野道風(とうふう)神社と小野妹子の墓とされる唐臼山古墳があり、小野町は奈良平安時代の名族、小野氏の出身地である。

 

小野氏が政界で重用されるようになったのは、小野妹子が6077月に聖徳太子によって派遣された遣隋使の団長に抜擢されてからだ。例の「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」としたためた国書を差し出し、隋の煬帝の不興を買った、その時の遣隋使である。

 

無礼な手紙のせいで、妹子はしばらく謁見がかなわなかった。帰国の直前にようやく煬帝に会うことができ、倭王への返書を預かった。妹子は隋の使節、裵世清ら一行13人と共に、6086月に帰国した。日本書紀によると、帰途、百済に立ち寄った時に煬帝の返書を盗まれたという。重罪に値する失態だが、妹子を処分すれば、裵世清に返書紛失の一件がばれてしまう。不問に付された妹子は、9月の裵世清の帰国に伴い再び渡海し、百済まで行って戻ってきた。

 

大礼という下級の官職に過ぎなかった妹子は、その後、推古朝では最高位の大徳に出世した。子孫は小野朝臣の姓を賜り、奈良平安時代には位階では三位(さんみ)以上、官職では参議以上をつとめることができる貴族となった。

 

小野神社の由緒書きに小野氏系図があったので、写真に示した。それを見ると、妹子王と書かれた妹子の子に毛人(えみし)がいる。地図の三角印、京都左京区の修学院の近くにある高野の崇道神社から毛人の墓誌が発見され、墓誌には天武朝で太政官を務め、大徳冠であったことが記されていた。琵琶湖西岸の小野氏はこの高野から移住したと考えられている。地図でその道筋をたどると、高野から八瀬(やせ)、大原、途中峠を越え、和邇(わに)川に沿って下ると、小野の町に出る。高野と近江の小野は古代の「途中越」の道でつながっていた。

 

毛人の子が毛野で、この時に小野氏の権勢は最高潮に達した。毛野の孫に岑守(みねもり)がいて、ひ孫に篁がいる。ともに陸奥守となり、蝦夷地の経営にあたった。篁は最後の遣唐使の副官に任命されたが、正使の藤原常嗣と対立し乗船を拒否する事件があった。政務能力に優れ、当代屈指の詩人であったが、政府を批判したとして一時流罪になり、その後、復活している。

 

岑守の孫に道風がいる。平安時代の三蹟の一人で、書道の神様として知られている。もっと身近なところでは、花札11月の「柳に小野道風」の20点札で有名だ。道風がスランプに陥った時、蛙が不可能と思える柳の枝に飛び乗ろうとして何度も失敗し、ついには成功したのをみて、再び発憤したという故事を図柄化している。

 

篁の孫に小野小町がいる。現代ではクレオパトラ、楊貴妃に並ぶ美人として評判だが、当時は六歌仙の一人、歌人として知られていた。要するに、小野氏には学問芸術に抜きんでたものが多かった。

 

小野氏の学問芸術に優れた才能も、小野妹子からだ。妹子が遣隋使の団長として抜擢されたのは、国際的な教養と学識があったからだといわれている。それを育んだのは、小野から歩いて12時間の距離にある三井寺から阪本にかけて住んでいた穴太、大友、錦織(にしごおり)、槻本といった帰化人だった可能性がある。この帰化人は倭の軍事的な支援の交換条件として百済から渡来した人々で、蘇我氏の指揮下に組み入れられ、国家的な港湾施設である志賀の津に集められ、志賀漢人(あやひと)と呼ばれていた。数学を駆使した天文学や、吉凶の判断をする遁甲などに優れた知識を持っていた。

 

阪本の北、和邇川から真野川の流域に、北から和邇、小野、真野という地名が並ぶ。古代に和邇氏、小野氏、真野氏がいた名残だ。

 

小野神社の系図をみると、小野妹子は敏達(30)の孫になっているが、どうも怪しい。新撰姓氏録には小野氏は大春日朝臣と同じ先祖とあるから、孝昭(5)の皇子、天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)の子孫で、古代の名族和邇氏と同族だということだが、これには若干の説明が必要だ。

 

天理にいた和邇氏が近江に侵出してきたのは、5世紀のことだ。その時に近傍の地方豪族は有力な和邇氏の勢力下に入り、血縁はなくとも和邇氏の長(氏上・うじがみ)を本家と仰ぎ、擬似的な同族関係を結んだ。このような氏族を和邇同族といい、奈良盆地の東北にいた春日、柿本、大宅がそうであり、京都の辺りでは粟田、小野がそうだ。

 

真野臣の先祖は、新撰姓氏録の右京皇別に、新羅に出かけた時に新羅の王女と結婚し生まれた子だと記されているから、5世紀半ばに朝鮮半島から帰化した氏族ではないかという人もいる(大津市史1,28p)。真野氏は和邇氏の私有民である和邇部となり、北陸にある和邇氏の領地や和邇部からの貢献物を運搬する湖上輸送の中継をしていた。真野鄕の付近に住むようになった小野氏とは、7世紀以前には共に宮廷に女官(巫女・ふじょ)を出すなど、つながりは深かった。

 

和邇氏が衰退した時、小野氏は和邇同族の氏上となり、真野氏を支配下におくようになった。9世紀中頃には、小野神社の春秋の例祭に、大春日や布瑠や粟田といった和邇同族が氏子として参加していたという。

 

古代にはそれほど栄えた小野神社ではあったが、南北朝の争いの中で、南朝方に味方し、家職を奪われ衰えた。摂社の小野篁神社と小野道風神社が村人の鎮守社として残っていたが、明治になって小野篁神社の境内に小野神社が再建され、二つの神社が同じ敷地にある今の形になった。

 

参考文献

1)新修 大津市史 古代 第1巻、大津市役所、1978

2)志賀町史編集委員会:遣隋使 小野妹子、1994

3)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地 5 山城近江、白水社、2009