第180弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 比良明神と白髭明神の白髭神社2012年02月06日 03時11分10秒











第180弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 比良明神と白髭明神の白髭神社

 

白髭神社は垂仁天皇25年に倭姫命によって創建された。祭神は猿田彦命で、別社には比良明神と白髭明神の名があげられているが、比良明神と白髭明神は同一のようなのだ。今回はいつ頃からどうしてそうなったのか、調べてみた。

 

上の写真は慶長年間(1603)に豊臣秀頼によって寄進され、片桐且元が奉行となって播州の大工により建立された白髭神社の本殿である。

 

 写真では本殿の後ろになって見えないが、本殿の湖側に棟続きに拝殿がある。その拝殿の軒下に、下の写真のような過去に謡曲白髭の能が奉納された記念の額が掲げられている。

 

謡曲白髭は白髭神社ゆかりの能の演目である。謡曲白髭の主な登場人物は、ワキが勅使、ワキツレが従者、シテが漁翁、ワキツレは漁夫である。シテは後に姿を変えて、後シテの白髭明神となって再登場する。

 

あらすじはこうだ。ある春の日、勅使が白髭明神への参拝の途中、漁をする翁と漁夫に出会った。その翁は勅使に白髭明神の縁起を語り始めた。

 

お釈迦様はかねてより大宮権現(今の日吉神社)の橋殿(今の板橋)を仏法流布の拠点にしたいと考えていた。お釈迦様が亡くなってから、その辺りを見渡すと、比叡山の麓の滋賀浦の辺りで釣りをしている翁がいた。お釈迦様が「もし翁がこの山の持ち主であるなら、仏法のために譲って欲しい」と頼んだ。すると翁は、「自分は6千年も前からこの山に住んでいて、琵琶湖が7度まで葦原になったのを見てきた。だから、この地が結界となると、釣りができなくなるので困る」と答えた。お釈迦様が諦めて帰ろうとすると、薬師如来が現れ、「私は2万年の昔からこの地の主だったのだが、そのことをこの翁は知らないのだ。私もこの地にとどまるから、一緒に仏法を広げましょう」といい、去っていった。

 

その時の翁が白髭明神だったと、勅使に語った翁もまた白髭明神だった。その晩、白髭明神は勅使を慰めるために舞楽を奏し、夜通し楽しんで、朝になったら「飛び去り行けば、明け行く空も白髭の、明け行く空も白髭の、神風、治まる御代とぞ、なりにける」でめでたく、鼓の音のポンで終わる話である。

 

謡曲白髭に出てくる白髭神社の神様は白髭明神である。一方、白髭神社に伝わる「白髭大明神縁起絵巻」に出てくる神様は比良明神である。

 

そちらのあらすじはこうだ。聖武天皇が盧舎那仏(大仏)を建立するにあたって、大仏を鍍金するのに必要な黄金が足りないので困っていた。747年、聖武天皇は良弁を吉野の金峯山(こんぷさん)に派遣して黄金産出を祈願させた。良弁の夢の中に吉野の金剛蔵王が現れ、「ここの黄金はお釈迦さまが入滅してから567000万年後に、弥勒菩薩が人間界に降りて来る時に、大地に敷くために使うつもりだから採ってはいけない。近江の滋賀郡の琵琶湖の南に如意輪観音が現れる地があるから、そこに行ってみなさい」とのお告げがあった。

 

良弁が勢多(今の瀬田)に行ってみると、老翁が巨石の上に座って釣りをしていた。老翁は比良明神だと自ら名のり、「この地は如意輪観音の霊地だから、ここで祈れば願い事が叶う」と教えてくれた。そこで、良弁は草の廬を結び、観音像を安置した。それが後の石山寺の始まりである。間もなく、百済王敬福によって陸奥国小田郡(今の宮城県涌谷町)から黄金が発見され、900両の黄金が献上されてきた。

 

「だから」と、「白髭大明神縁起絵巻」の詞書第六段は続ける。日本初の黄金の発見にあたっては、「蔵王の擁護、観音の霊応のみに限らず、比良明神も加助の力をそえた」として、日本初の産金に関する石山寺縁起を拝借して、こちらの方は比良明神の名で手柄話を創出している。

 

その前段、「白髭大明神縁起絵巻」の詞書第五段には、「土俗、其神を祠(ほこ)りて、神社をたつ。老翁の貌を現し給へは、白髭の神と申しぬ」という記事がある。比良神はもともと比良山山系の最高峰比良山の麓にあるこの地方の地主神(じぬしじん)だったのだが、それが白髭明神と呼ばれるようになったのは、比良明神の容貌が白髭の老人であったからだとはっきりと書かれている。

 

天智天皇の時に比良神に比良明神の神号を賜り、平安時代の「三代実録」には865年に近江国の無位の比良神に従四位下が授けられたとあるから、平安時代までは比良神あるいは比良明神と呼ばれていたようだ。それが鎌倉時代には比良明神が白髭明神と呼ばれていたことは、「比良庄堺相輪絵図」などいくつかの古文書の記述で明らかになっている。鎌倉時代辺りが比良明神と白髭明神の使い分けの境目になっているようだ。

 

後世の脚色があったにしても、聖武天皇の奈良時代に石山寺縁起の原型はできたであろうから、白髭神社の神様が比良明神のままでもおかしくはない。これに対して、謡曲白髭に語られている比叡山の開山は延暦7年(788)だが、謡曲白髭が作られた年代は世阿弥を源流として能楽の演目が盛んに作られた室町時代以降のはずだから、白髭神社の神が白髭明神となっているのだろう。

 

ただ、どちらの物語にもいろんな仏様が登場し、仏様と神様が共存している。日本の八百万の神はさまざまな仏が化身した姿であるとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説の影響が強いと思った。

 

参考文献

1)畑中英二:天平産金と石山寺、琵琶湖の考湖学 第2部 18

2)小竹志織:白髭神社、琵琶湖の考湖学 第2部 13

3)白髭神社ホームページ、http://shirahigejinja.com/2011119

4)白畑よし:石山寺縁起絵巻、石山寺、1996

5)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地5 山城近江、白水社2009

6)川口謙二編:日本の神様読み解き事典、柏書房2007

7)古典文学電子テキスト検索β:白髭、http://yatanavi.org/textserch/index.php/70