第193弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 神田神社2013年02月18日 03時03分30秒







第193弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 神田神社

 古代に朝鮮半島から畿内を目指して日本海ルートで来るには、山陰の海岸にそって小浜か敦賀に着く。小浜からは、水坂峠を越えて今津にいたる九里半越えの若狭街道がある。敦賀からは海津に出る七里半越えと、敦賀から追分、深坂峠を越えて塩津に出る最短の五里半越えがある。古代には主にこの五里半越えが使われていた。

 塩津、海津、今津からは、湖上を船で大津に向かう。途中、堅田の辺りで、琵琶湖はくびれるように狭くなる。今はそこに琵琶湖大橋がある。

堅田は古くから湖上交通を管理する湖上関のような所であった。中世には堅田衆が湖上を往来する船を警護する名目で、「上乗り」権と称する警護料を徴収し、従わなければ湖族となって略奪していた。

 JR湖西線堅田駅から、車で10分。真野町神田に神田神社がある。写真の石碑には縣社とあるが、旧社格は旧滋賀郡八座の内の一つで、ここから1kmほど離れた普門町にあるもうひとつの神田神社や日吉大社、小野神社などと並ぶ式内社であった。

由緒書きには、「神田神社、みとしろのかみのやしろとも言う」とある。みとしろとは、御戸(刀)代とも書き、神にささげる稲を作る神田のことだという。

神田神社から400mほど湖岸の方に、「真野の入江跡」の石碑がある。古代の湖岸はその辺りまで入っていて、ススキの穂を連想させるような地形になっていた。「真野の入江の汀」の辺りが神田(かみしろ)の地であって、そこに神殿を建て、地名をとって神田神社と称したのが始まりである。現在地には、その後の水害のために遷されたという。さらに、由来には、真野とは大変古くから開けた神気ただよう素晴らしい土地という意味だと解説されている。

祭神は、主神に彦国葺命(ひこくにぷくのみこと)、相殿に天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)とある。二の宮には孝昭(5)と須佐之男命が祀られている。神田神社を氏神とした氏族は、古代の豪族真野氏である。真野氏は和邇一族で、和邇氏と同じ孝昭の皇子、天足彦国押人命を祖とする。

新撰姓氏録には、真野氏は天足彦国押人命の三世孫である彦国葺命の後裔で、大口納命(おおくたみのみこと)を祖とすると記されている。さらに、難波宿祢と大矢田宿祢が神功皇后に従って新羅を征服した時に、鎮守将軍として新羅に留まり、新羅の国王猶榻(ゆうとん)の娘を妻として、男子二人をもうけた。兄を佐久命といい、弟を武義命(むげのみこと)という。佐久命の九世孫に和邇部臣の鳥と忍勝がいて、近江国志賀郡真野村に住んでいたので、持統天皇(41)の4年に真野臣という姓を賜ったと記されている。

「滋賀県の地名」には、真野村から2Kmほど北にある和邇川の付近を本貫としていた和邇部臣の一族のうち、真野村に住んでいた鳥と忍勝の系統が真野氏に改姓したのだろうと書かれている。

真野川の北には1基の前方後円墳を含む111基の円墳からなる曼荼羅山古墳群があり、真野川の南には2基の前方後円墳を含む167基の円墳からなる春日山古墳群がある。真野氏の墓域と考えられている。いずれも片袖長方形プラン、平天井で、近畿一帯に広がる横穴式石室の特徴をとっている。明らかに、穴太の辺りにみられた両袖式正方形プラン、ドーム型天井で、ミニチュアかまどを出土する百済系帰化人氏族の墓とは異なっている。これらの古墳群は6世紀から7世紀にかけて営まれた古墳群である。

真野氏の新羅遠征の伝承から新羅系の帰化人ではないかという説もあるが、滋賀郡の最北端に位置する真野鄕には、和邇氏の勢力が強く、帰化人の氏族がいた証拠は見当たらない。

彦国葺命については、古事記に活躍が記されている。崇神10年(由来には紀元前87年とされているが)、四道将軍の一人、大彦命が北陸に向かう途中の和邇坂で不思議な少女から、孝元(8)の皇子、武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻吾田媛(あたひめ)に謀叛の企てがあると知らされる。都を攻める反乱軍に対して大彦命と彦国葺命が派遣され、彦国葺命が武埴安彦を射殺したというのだ。

 真野氏は新羅への遠征軍や、皇族の反乱に対する鎮圧軍の将軍を務めており、和邇部の中でも有力な軍事氏族であったようだ。

神田神社の周囲を見渡すと、今は真野川流域に広がる平坦な地形になっているが、当時は湖岸が迫り、すぐ北側には小野氏がいて、さらにその北には和邇部氏がいた。真野村の辺りだけで、二つの古墳群を造営できる人員や軍勢を養うほどの農地があったとは思えない。加賀、越前、若狭といった日本海側の和邇部からの動員もあったのだろう。真野の地は北陸の和邇部と都を結ぶ人員や貢献物の中継点になっていたようだ。

貢献物が北陸の和邇部からの運ばれてくる様子が、古事記に記されている。応神(15)が山背の和邇氏の娘を妃に迎えるために、宇治の木幡(こはた)で宴会が開かれた時のことだ。宴席に蟹が運ばれてきたのをみて、応神が歌を歌った。この蟹が角鹿(つぬが)から運ばれてくる道は険しく、蟹のように横歩きしながら峠を越え、水鳥のように潜って苦しそうに息継ぎをしながら琵琶湖を渡り、大変な思いをして運ばれて来た蟹だと歌った。

蟹が運ばれて来た道は、五里半越えの深坂峠だろう。蟹の横歩きに例えられるほど、五里半越えは険しかった。深坂峠を避けて、峠の東側に新たな道が開かれ、今に残る塩津街道となったのは、戦国時代末期のことである。

参考文献
1)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
2)平凡社地方資料センター編:日本歴史地名体系第25巻 滋賀県の地名、平凡社、東京、1997
3)谷川健一編:日本の神々5 山城 近江、白水社、2009
4)財)滋賀県文化財保護協会編:琵琶湖をめぐる交通と経済力、サンライズ出版、大津、2009



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