第199弾 のむけはえぐすり 金印公園 「漢委奴国王」2013年12月18日 01時28分28秒








第199弾 のむけはえぐすり
金印公園 「漢委奴国王」

「漢倭奴国王」の金印が出土したという金印公園に行ってみた。

博多からの鹿児島線を香椎で香椎線に乗り換え、博多湾の能古島を右から抱え込むように延びた「海の中道」を、終点の西戸崎まで行く。タクシーに乗って海の上の志賀島橋を渡り、内海に沿って海岸線を行く。低い山が急峻な角度で海に迫るあたりに金印公園がある。

公園に登る階段の手前に、1922年に旧福岡藩第18代当主、黒田長成氏が「漢委奴国王金印發光之處」と揮毫した大きな石碑がある。そこから急な階段を10mほど上ると、山の中腹に写真のような平地があって、金印の碑が博多湾の能古島を望むように立っている。

意外だった。この金印は建武中元2年(57年)に後漢の光武帝から下賜された印綬であり、金印発見時の経緯は、近くの百姓が田んぼの畦を直そうとして偶然に発見したと聞いていたからだ。この金印公園に来てみて、とにかく田んぼがあるような場所ではないのは、一目瞭然だった。

誤解の元は、金印が掘り出された天明4年(1784)の発見者、百姓甚兵衛が発掘の経緯を伝えるために一緒に差し出した口上書にあった。今は所在の分からなくなっているその口上書は、郡役所に提出された後、長く黒田家の倉に収められ、再び公開されたのは大正4年(1915)だという。

口上書に記されていたことは、ざっと次のようだった。

甚兵衛が所有する叶の崎(かなのさき)の田の境の溝を直そうとして、岸を切り落としていると、たくさんの小石がでてきた。小石を取り除くと、その下に二人で持ち上げなければならないほどの大きさの石があった。その石を鉄梃子(かなてこ)で持ち上げてみると、石の間に光るものがあった。それを水ですすいでみると、この金印でした。それに加えて、金印をしばらく手元に置いてしまい、市中に噂が広まるまで差し出さなかったことは、大変申し訳なく思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げますと、庄屋と村役の署名とともに記されている。

そもそも叶の崎を現在の金印公園としたのは、発見当時金印に関する論文「金印弁」を発表した亀井南冥という福岡の儒学者である。その後、この周辺の発掘調査が何度も行われ、海底まで調査されたが、弥生後期の遺物どころか、何も発見されなかった。

私も金印が志賀島のような辺鄙な場所から出土したのか不思議に思ってはいたが、私なりに勝手な想像はしていた。志賀島は古代の海の民、安曇氏の本拠であり、志賀島の北端の勝間には、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、仲津綿津見神、底津綿津見神の三柱を祭神とした沖津宮と仲津宮がある。金印は巡り巡って、安曇氏が所持していたのではないか。それが刀伊の入寇や元寇や海賊が来た時に、急いで隠したままになったとか、いろいろ考えた。

口上書に記された金印の発見された場所や状況の不自然さから、金印が贋作であるといった疑惑は古くからささやかれていた。

江戸時代を代表する篆刻家、高芙蓉の印譜の中に同じものがあるとした昭和29年の贋作説は、その根拠となった印譜が別人のものと昭和60年に確認され消滅した。その後も金印が本物とする証拠が提唱されると、その証拠に異議を唱えただけなのに、金印が贋作であることを証明したような雰囲気にある。

下の写真は実物大の金印のレプリカである。印を持つところが蛇の形をしている。金印があまり類を見ない蛇をモチーフした蛇紐であることによる贋作疑惑は以前からあったが、昭和31年に中国雲南省で発見された?王之印(てんおうのいん)が蛇紐であったことから、疑惑は解消したかのようにみえた。だが、「?王之印」の方は蛇のモチーフがより写実的であって、漢委奴国王の印はずんぐりしている。同じとして良いかという疑問が提示された。さらに、昭和45年には、中国の揚州の郊外で発見された亀紐の金印に彫られた廣陵王璽(こうりょうおうじ)の字体が同じで、洛陽の同一工房による製作説が発表されたが、これに対しても、細かくみると彫刻技法に違いがあり、同一工房だったとしても、一世代以上の差があるとする異論があった。

鈴木勉氏はさらに踏み込んで、彫金家による刻印の鑑定から、漢委奴国王の金印は下書きの文字の形を忠実に再現しようとした「浚(さら)い彫り」といった技法で彫られているとした。一方、廣陵王璽は溝たがねによる「線彫り」の技法で彫られており、下書き通りに刻印することは難しく、彫り手の技量が優先する彫り方だという。二つの印は文字の仕上げの工程が全く異なっているのだから、同じ工房で作られたとは言えないとしている。

今の時代、金属分析のような手法で証明できないのかといったもどかしさもある。平成元年に行われた蛍光X線分析によると、「漢委奴国王」の金印の組成は金95.1%、銀4.5%、銅0.5%のおよそ23Kとの分析結果であったが、中国の金印にはこうした分析結果がないので、比較できないのが現状である。

また、金印の印面の一辺の長さは平均2.374cmであり、漢代の1寸と一致する。これも贋作を主張する側からすれば、後世でも漢代の1寸の知識はあり、当然その寸法に従うはずだから、真印の根拠にはならないとする見解である。偽物だとすれば、誰が何のためにということでは、亀井南冥が自らの漢学塾の宣伝のための自作自演という南冥主犯説がある。

私が福岡市立博物館でみた金印は、四方からの光に囲まれて無邪気に純金のきれいな光を放っていた。それすらも、出土時の状況から考えると、傷がなくきれいすぎるのはおかしいという人もいる。

参考文献
1)鈴木勉:「漢委奴国王」金印・誕生時空論 -金石文学入門Ⅰ 金属印章編-、雄山閣、東京、2010
2)三浦佑之:金印偽造事件 「漢委奴国王」のまぼろし、幻冬舎新書15、東京、2006
3)明石散人:七つの金印、講談社文庫、東京、2004