第147弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 阿自岐神社2010年03月09日 06時47分25秒






第147弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 阿自岐神社

 

正直な話。阿自岐(あじき)神社を、阿知使主(あちのおみ)の神社と思い込んで訪ねてしまった。

 

阿知使主は、息子の都加使主(つかのおみ)と共に、応神天皇の時に党類17県を率いて渡来したとされる代表的な帰化人である。後漢の霊帝の子孫を自称するが、百済から渡来し、大和の飛鳥の武市郡檜前(ひのくま)村に定住した東漢(やまとのあや)の祖である。

 

阿自岐は、やはり応神天皇の時に百済の第13代近肖古王から、二頭の馬と刀と鏡と共に遣わされた帰化人である。日本書紀では、教典が読めるので、太子菟道稚郎子(うじわきのいらつこ)の師になったと記されている。

 

菟道稚郎子とは応神天皇の子で、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)の弟である。和珥氏を母に持つ菟道稚郎子は、尾張の豪族を母に持つ兄を差し置いて太子となった。応神天皇が亡くなると、菟道稚郎子と兄は互いに皇位を譲り合い、3年の間空位が続いた。そのために菟道稚郎子は自らの命を絶って、兄に王位を継がせたという美談仕立ての話の主人公である。仁徳天皇の皇后の磐之姫は葛城氏の出だから、和珥氏から葛城氏への政権交代の中で、阿自岐の子孫は歴史の舞台から消えたと想像したが、新撰姓氏録には右京諸蕃、安勅(あじき)連、百済王の魯王の出身と記され、しっかり生き残っていた。

 

阿自岐のもう一つのエピソードは、阿自岐が応神天皇から「あなたよりも優れた博士がいるか」と訪ねられると、「王仁という者がいます」と答えた。そこで応神天皇は百済に使いを出し、王仁を召したという。王仁は論語十巻、千字文一巻をもって渡来し、日本に儒教を伝えた人物とされる。王仁は帰化して、河内の古市や丹比(たちひ)に定住し、西文(かわちのふみ)の祖となった。

 

だから、阿自岐はどちらかと言えば西文につながる百済の帰化人で、同じ百済でも阿知使主の東漢とは違った出自だが、名前が似ていたので混乱した。

 

現代では安食西と表記される地番に、阿自岐神社がある。近江鉄道の豊郷駅から徒歩15分。かつては式内社だったが、写真のように小さな神社である。しっかりとした造りは、江戸時代後期のものだという。縣社と書かれた石碑があり、参道を挟んで両脇に池がある。神社の敷地はもともと池に囲まれた島で、そこに阿自岐氏の邸宅があったといわれている。東西の大きな池の中に大小の島があり、池泉多島式の庭園として有名である。池にはショウズと呼ばれる湧き水が豊富で、灌漑用水として使われていた。うっそうとした森の中の小径には所々に曼珠沙華が咲き、池の中の島を巡る石橋を渡ると、「千町田を養ふ神の清水哉」と記された句碑がある。

 

阿自岐神社の境内に青銅でできた馬が奉納されている。由緒書きには大正13年に作られたが、戦時中の徴用にあい、昭和45年に再建されたとある。神社に献納されるのは昔から馬というのが相場で、その名残が絵馬だ。だが、阿自岐神社の馬は、阿自岐が百済王に馬二頭と共に遣わされたことに由来するものと思いたいが、どこにもそんなことは書かれていない。

 

青銅の馬の横に社の由緒書きがあり、主祭神が味耜高彦根(あじすきたかひこね)神と道主貴(みちぬしむち)神となっている。相殿には天兒屋根(あめのこやね)命、保食(うけもち)神、須佐之男(すさのお)命の名があり、他に合祀の神様が盛りだくさんだ。

 

 古事記では味耜高彦根神のことを阿遅鉏高日子と表記し、またの名を迦毛(かも)大神といい、賀茂氏系が入っているという。古事記伝によると、阿遅(あじ)は可美(うまし)と同義で、鉏(しき)は磯城で、石畳の意味だという。味耜高彦根神は大国主神と多紀理毘姫(たぎりびひめ)命のむすこである。道主貴神とは帰化人のシンボル・須佐之男命の三人の娘、多紀理毘姫命、多岐津姫(たぎつひめ)命、市杵島姫(いちきしまひめ)命の三女神のことだから、母と一緒に祀られていることになる。

 

問題は天兒屋根命である。この神様は天岩屋戸伝説に岩屋戸の前で祝詞(のりと)を奏する役で出てくる。中臣氏の先祖神であるから、藤原氏の祖である。春日神社の系統だが、神話の系図にも接点がないので、なぜ祀られているのか分からなかった。だが、本殿の庭に鹿の像が置かれていることから、関係は深そうだ。

 

近くに安食西古墳がある。もとは前方後円墳だったが、江戸時代に水田にするため前方部が削られ、今は後円部だけが残されている。

 

一般的な話として、近江の古墳には他の地域と同じように前方後円墳が多い。中では帆立貝式のものや、円墳や方墳に造り出しという小さな出っ張りのある形が特異的だとされる。100基近くある中で、100mを越える古墳が少ないのは、大和朝廷に遠慮したからだという人もいる。

 

ここから直線距離で4Kmほど離れた、宇曽川が琵琶湖に注ぐ付近にある荒神山古墳は、安土の瓢箪山古墳、大津の膳所茶臼山古墳に次ぐ近江地方第3位の100mを越える規模を誇る。周囲にも小型の古墳が多く、近江の首長たちの中でも強力な勢力がいたことがうかがえる。

 

副葬品である鏡の研究からは、湖北の古保利古墳群の小松古墳からは1世紀に作られた中国鏡が出土するので、弥生時代からの有力者の流れをくむ首長墳と考えられている。その一方で、八日市の八幡社古墳群の雪野山古墳からはそのような伝世鏡の副葬がなく、大和朝廷と関係の深い三角縁神獣鏡や日本製の大型鏡が出土するので、3世紀末に大和朝廷と結んで台頭してきた新興の首長墳と考えられている。

 

その点、安食西古墳の周囲には古墳群もない。阿自岐一族の誰かの墓と考えられる比較的小さな前方後円墳である。それが阿自岐一族の近江における実力だったのだろう。

 

参考文献

1)川口謙二:日本の神様読み解き事典、柏書房、2007

2)朴鐘鳴:滋賀のなかの朝鮮、明石書房、2003

3)大橋信弥、小笠原好彦編:新・史跡でつづる古代近江、ミネルヴァ書房、2005