第149弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 安羅神社2010年04月02日 03時00分33秒




第149弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 安羅神社

 

 地図のオレンジの丸印、草津市の西に、安羅神社を名乗る神社が3つほど集中している。その中の一つ、穴村町の安羅神社の境内には写真のような「天日槍命暫住之聖蹟」と記された石碑が建っている。天日槍は「あめのひぼこ」と読み、天日矛とも書く。

 

 安羅神社の安羅は朝鮮半島に古くから栄えた伽耶六国の中の安羅伽耶のことだと考えられる。穴村の穴は、安羅が転化したのだろう。韓国語では、ラの発音がナになることはよくあるからだ。

 

 いつの頃からか、この辺りに安羅伽耶からの帰化人がいて、そこに新羅の王子、天日槍がやって来て、しばらく住んでいたというのだ。知らない人がいきなり来ても、受け入れられるはずがない。ここにいた帰化人は天日槍と同族で、旧知の間柄だったのかもしれない。となると、この地の帰化人は天日槍の伝承が始まる少し前からいたということになる。

 

 記紀の記述が脚色と創作に満ちているのは常識だが、そこに垣間見える、この「いつ?」という問題に挑戦してみる。

 

天日槍が渡来してきた年代からして、日本書紀と古事記では違っている。

 

日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある。かの国で都怒我阿羅斯等が牛に農具を背負わせて田舎を歩いていると、目を離した隙に村の役人がその牛を殺して食べてしまった。代わりに白石を貰い、家に持って帰ると、石は美しい娘になった。妻にしたいと思っていると、その娘は「東に行く」と言っていなくなった。都怒我阿羅斯等が日本まで来て探すと、その娘は難波の比売語曽(ひめこそ)神社の神だったという。

 

何故この話をしたかというと、次に古事記の話と比べてみるとよく分かる。

 

古事記では、新羅の王子、天日槍がやって来たのは、応神天皇(15)の時だという。新羅国のある沼のほとり、身分の卑しい娘が昼寝をしていると、日の光が陰(ほと)を刺し、しばらくすると娘は赤い玉を産んだ。それを見ていた男がその玉を奪い、飲み物と食べ物を牛の背に乗せて歩いていると、天日槍に会って、玉を奪われてしまう。天日槍がその玉を持ち帰ると、玉は美しい娘に化身した。娘は天日槍に尽くしたが、天日槍のだらしなさに愛想が尽き、「アンタなんかの妻になっている女ではない」と捨てぜりふを残して、母国に帰ってしまった。天日槍が訪ねて行くと、娘は難波の比売碁曽(ひめこそ)神社のアカルヒメだったという。

 

要するに、日本書紀の都怒我阿羅斯等の話と天日槍の話は同根なのだ。その中で私が知りたいのは、天日槍の話は単なる神話なのか、何かの言い伝えを反映しているのか、反映しているとすればいつ頃のことなのかということだ。

 

古事記の応神天皇と、日本書紀の垂仁天皇では5代も違う。その点、古事記の作者は先に自己矛盾を吐露している。天日槍は難波に入れなくて但馬に行き、但馬でマエツミを妻にする。二人の玄孫(やしゃご)がタジマモリと、タジマヒダカとキヨヒコだ。タジマモリには、垂仁天皇の命令で常世の国に不老不死のトキジクノカクの木の実を採りに行ったという伝承がある。一方、タジマヒダカの孫はオキナガタラシヒメ(神功皇后)だという。神功皇后は仲哀天皇(14)の皇后で、その子が応神天皇だから、応神天皇の時に天日槍が来たというのでは年代が合わない。崇神天皇(10)の時あたりでなくてはおかしいと、古事記の作者自身も言い、「違うているはずじゃ、何ゆえこうなってしもうたのか、お前たち若い者に考えてもらうしかないよのう」と途方に暮れている。

 

ところが、日本書紀には問題がないのかというと、そうでもない。垂仁天皇からして、24才で皇太子となり、天皇になってからは99年間在位したという、恐ろしく長生きの天皇とされている。あり得ない話で、記紀に書かれた古代の天皇の在位年数はいい加減というのが、常識だ。そこは無視して、何代前ということで当てはめると、倭の五王の最後の武が宋に使いを出した478年が基準になる。倭王武は雄略天皇(21)とするのがほぼ通説だから、その10代前の垂仁天皇が実在したかどうかは別として、歴代の天皇の在位年数を10年強に仮定すると、日本書紀ではほぼ100年以上の4世紀頃の話ということになる

 

日本書紀には、天日槍のその後が記されている。当初、天日槍は播磨国の宍栗邑(しさをのむら)にいたが、やがて定住の地を求め、宇治川をさかのぼり、近江の吾名邑(あなむら)にしばらく住んだという。その後、天日槍は敦賀、出石を経て、最終的に但馬に住んだ。近江の鏡邑(かがみむら)の陶人は天日槍と一緒に来た人々だったと記されている。実は、近江には今も鏡神社があり、その周辺に須恵器を焼いた鏡山古窯群がある。まんざら言い伝えだけではなさそうなのだ。

 

となると、天日槍は個人と考えるよりは、新羅からの渡来した集団を指していると考えた方がよさそうだ。そう考えた時に、天日槍や都怒我阿羅斯等がたどった道というのは、秦氏が分布する地域であることから、新羅から来た秦氏という同一系統の氏族の居住地を結ぶための伝承だという人もいる。

 

古事記には、秦の造の祖にあたる者や、漢(あや)の直の祖にあたる者など、応神天皇の時に帰化する者が多かったと記されている。天日槍の話もこの時だ。雄略天皇の5代前に相当するような年代に、それに近い実態があったのかも知れない。

 

古事記での5代前ならば5世紀初頭といいたいのだが、記紀の記述で推測するのは雲をつかむような話だ。記紀はあくまでイメージ作り程度にして、この地の遺物や出土品を見に行くことが、最も重要なことだと考えている。

 

参考文献

1)朴鐘鳴:志賀のなかの朝鮮、明石書房、2003

2)三浦佑之:口語訳古事記、文藝春秋、2002

3)宇治谷猛:全現代語訳日本書紀、講談社学術文庫、2009

 



好吃!小龍包の旅;台北101と明月湯包2010年04月04日 03時14分51秒

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 好吃!小龍包の旅

台北と来たら今世界一の高さを誇る台北101です
(もうすぐ抜かれますので今がチャンス)

僕の広角カメラでも全貌は入りきらない500m



下はこんな感じですがここはオフィスビルになっていまして入れません


隣がショッピングモールでしてこの5階からタワーに登るように仕向けられてます
ここはやはり世界中のブランドが軒を並べてまして・・・
まあ所詮僕には関係ないのですが

展望台への切符売り場
NT$400(\1,200)
結構混んでまして上りも30分位待ちました

500mからの景色です


すぐ真下はこんな感じの記念堂とか


風でビルが揺れるのを防止するダンパーだそうです


さて本論の小龍包の旅
昨日の高記に続いて今回は台湾の人に大人気のお店


店内はこんな感じ
外国人は僕くらい(といっても外国人には見られなかったでしょうが)


つまみの芋と茎わかめ


鶏肉のスープ
これが胃腸にやさしい。。。


そして本命の小龍包
県泰豊に近い感じで美味しいですね


好吃!小龍包の旅;たまにはCクラスで・・・秘密兵器も2010年04月05日 21時27分36秒

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今回の台湾行ですがハンドキャリーの荷物がYクラス(エコノミー)には10kg位オーバーしてまして超過料金をしっかりとられそうだったんですが・・・エージェントに頼み込んでいったはずがJALのカウンターで聞いてる、聞いてないで揉めまして・・・結局エージェントに連絡させて僕は機中の人に(結構カウンターでまたされてしまった)

ということで台北からの帰りはおとなしく超過料金を払うつもりでカウンターに行ったら・・・

JALカウンターの小姐;「アップグレードです」
僕;「えっ?」(心の中・・・”ラッキー”)

ということで超過料金も払わずにCクラス(ビジネス)の人に・・・

食事もいいですね


デザートのケーキとコーヒーカップも陶器で・・・

昔はノーマルYでアジアを回っていたので同じ料金なら・・・ということで台湾発券のCクラスで飛んでいたのですが、ここのところは完全FIXのYクラスばかりだったのでこれはありがたかった

ところで前回のジャカルタから登場の秘密兵器


いわゆるネットPCです

しかも直前に発売されたばかりの新商品
10.4インチ液晶、1.27kg、しかもATOM450という新CPUでバッテリー駆動12時間
これは大きいです。日中は一日つけっぱなしでも大丈夫
(ということは電源アダプターを持って歩く必要がない)

これで4万円というからやめられない

*アップグレードの訳は帰国してから分かったのですがJALの機上職員がデータの読み方を知らなくて僕をまたしたので、エージェントが文句を行ってCにあげてくれたとのことでした

監督はいつもCクラスでしょうが僕らには久しぶりの贅沢でした
難を言えば台北のような近場でなくシンガポールくらいならもっと良かった





東京で桜ときたら・・・千鳥ヶ淵でしょう2010年04月10日 17時32分19秒

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ここのところ海外出張があったりで一番美味しい時に東京出張ができなかったのですが
今回は半ば強引に用事をつくりまして・・・
行った先は・・・そうです「東京で桜といえば・・・千鳥ヶ淵」じゃないですか


九段下からきて陸橋を渡ると銅像が・・・誰なんでしょう?


そして武道館
この日は東京理科大の入学式でした

金曜の昼間というのにこんな感じ

千鳥ケ淵といえばこの風景でしょう
貸しボート屋さんは大繁盛です

桜のアップも


通路の桜の木のしたに咲いてる白い花
一眼レフ+望遠なら簡単なんですがコンデジでもうまく撮れたショット


桜も散り始めでどうしようか迷ったのですが桜の葉がお堀一面に浮いていて
これはカップルのボートが桜をかき分けていくところ・・・なかなかいい風情です

のむけはえぐすり;安羅神社のびっくり2010年04月11日 21時59分49秒


安羅神社のびっくり  3の中の1
笠縫村大字野村の安羅神社

阿羅郷は近江の古くからあり、風土記にも記されている。
野村と穴村にそれぞれ安羅神社が、十里には小安羅神社があり、
広い範囲だったと由緒書きにはある。


安羅神社のびっくり  3のなかの2
穴村の安羅神社

この神社の宝に、数十個の小判型で黒い小石がある。
野洲川の源流で採れた石だが、黒いのは火にあぶったからだそうだ。
火にあぶって温めた石(温石・おんじゃく)を患部に当て、
治療に使用したらしい。
今でいう針灸の始まりだという。
だから天日槍は日本の医術の祖神ともいわれている。


安羅神社のびっくり  3のうちの3
穴村の安羅神社の由緒書き

祭神は天日槍だけ。
天日槍は巡歴した後、最終的には但馬国出石(いずし)に行き、
出石神社に鎮座した。
出石神社で8種類の宝物と一緒に祀られている。
その八つの宝は、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤玉、出石の小刀、出石
の矛、日鏡、
熊の神籬(ひもろぎ)、胆狭浅(いささ)の太刀だって。

のむけはえぐすり; 近江の帰化人 鏡神社2010年04月14日 21時49分54秒





第150弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 鏡神社

 

 日本書紀の垂仁天皇3年の条に、「近江国の鏡村の谷の陶人(すえひと)は、天日槍の従人(つかいひと)なり」とある。この伝承が私には何かの史実を反映しているように思えて、その足跡を探しに出かけた。

 

地図の中央、青い丸印、国道8号線沿いに、鏡神社がある。鳥居の前の由緒書きを見ると、主祭神は天日槍尊、配祀祭神は天津彦根命(あまつひこねのみこと)と天目一箇神(あめのまひとつのかみ)になっている。

 

鏡神社が天日槍ゆかりの神社であることは間違いなかった。天津彦根命は須佐之男命から化生した神だから、帰化人所縁の神社としての条件もそろっている。火か日に関係した神で、いくつかの氏族の祖だとされるが、なかで額田部湯坐(ゆえ)連と近江の蒲生郡の蒲生稲寸(いなぎ)の祖というのには注目に値する。湯坐とは乳母のことだというが、何を意味するのか分からない。天目一箇神は天津彦根命の子で、目が一つしかなく、古くから作金者(かなだくみ)と呼ばれ、鍛冶の神様だとされている。

 

鏡神社の創始年代は不詳だが、天日槍が崇神天皇3年(BC31)にやって来た時に、多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)と共に近江に集落を作り、さまざまな文化を広めたと記されている。垂仁天皇3年の後ろに括弧書きでBC31年とあるのは、記紀に書かれた天皇の在位年数を単純に引き算したのだろう。垂仁天皇だけをとっても在位年数が99年なのだから、そのくらい古いということになってしまう。

 

鏡という地名の由来には2説ある。由緒書きには、天日槍が持ってきた神宝のうち、日鏡をこの地に納めたからだと記されている。別に、天目一箇神がここで鏡を作ったからだという説もある。鏡の地名は、古くから鏡路や鏡山として有名であったらしく、150余首もの万葉の歌の歌枕に使われたという。

 

鏡の地ゆかりの人として、額田女王と姉の鏡女王が記されている。姉妹の父の名も、鏡王である。鏡女王は天智天皇の妃から藤原鎌足の正妻になった人で、鎌足の病気回復を祈願して興福寺を建てたといわれている。祭神の中の天津彦根命が武市郡の額田部の祖でもあったとされていることから、この地と額田部の一族とは何かしらの関連があったのだろう。

 

12世紀末に鏡氏を名乗る一族がいたが、こちらは帰化人とは関係がなく、保元の乱に勝利した近江源氏の佐々木氏の一流である。源平の宇治川の戦いで、名馬生月(いけづき)を源頼朝から与えられ、梶原景時と先陣争いをした佐々木高綱はこの一族である。高綱の兄弟はその後も戦功を重ね、各地の守護職に任ぜられた。繁栄を極めた佐々木一族ではあったが、延暦寺衆徒との争いでは、佐々木定重が愛知川河原で斬刑にあっている。その子の尚綱が鏡氏を名乗り、鏡神社を崇拝したというのだ。鏡神社と源氏との関わりは、牛若丸が奥州に下る途中、鏡神社の奥にある湧き水の池で元服をし、九郎義経を名乗ったとされる「元服の池」があることからもうかがえる。

 

由緒書きに、鏡の地は延喜の世の大嘗会で鏡餅を献上した火鑽(ひきり)の里だと記されている。火鑽というのは、皿のような形の台木(火鑽り臼)に木の棒(火鑽り杵)を激しくもみ合わせ火をおこすことである。他の地方でも火鑽神事という行事があって、熾(おこ)した火で食事を作り、無病息災を祈るのだという。火鑽の里とは、鏡餅で火鑽神事を行う里ということを言いたいのかも知れない。

 

鏡神社に火に関する伝承が多いのは、須恵器を焼くために1000度という熱が必要だし、製鉄にも通じるからのようだ。それを伝えたこの地の帰化人が、火の神である天津彦根命、製鉄の神である天目一箇神を鏡神社に祀ったと考えられる。

 

さらに、鏡神社の近くに弓削、須恵、薬師という地名があるが、天日槍と共に渡来してきた技術集団の職種と同じである。それも、須恵村ははじめから平地にあったのではなく、元は鏡山山麓の谷間にあったが、土砂に埋まってしまい現在地に移住したといわれている。ますます「鏡村の谷の陶人」に合致してくる。近江における天日槍の伝承は、鏡の地にいた帰化人のことを書いていると言えそうだ。

 

須恵器は垂仁天皇7年の条にある茅渟縣陶邑(ちぬのあがたすえむら)で始まったとされ、その場所は堺市南部から和泉市にかけての「陶邑古窯址群」に比定されている。最近の研究では、同時発生的に他の地域でも5世紀から須恵器の生産が始まって各地に広がり、7世紀になるとそれまでの古墳の祭祀用から、日常用品として使われるようになったという。

 

鏡山の北麓に分布する古窯址群の須恵器の生産が最盛期を迎えたのは、7世紀初めにかけてということだが、発祥はどうさかのぼっても、6世紀前半を越えることはないらしい。ということは、天日槍の伝承につながる帰化人たちがこの地に定住したのは、その頃ということになる。とても応神天皇や垂仁天皇の推定年代までさかのぼることはできない。

 

となると、記紀は6世紀前半にあったことを、もっと古い年代にあったことのように操作していると考えざるを得ない。それはこれまでに多くの学者たちが言っていた通りだった。

 

参考文献

1)朴鐘鳴:志賀のなかの朝鮮、明石書房、2003

2)愛知川町史編集委員会:近江 愛知川町の歴史 第1巻 古代・中世編、2005

好吃!小龍包の旅;台湾ホテル事情2010年04月19日 22時16分55秒


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好吃!小龍包の旅;番外編 

今回の主目的は小龍包を食べ尽くすこと・・・

ではなく・・・台湾デンタルショー

3Dレントゲンとか3Dで押していた会社シロナ社のブース



3D→3D映画→アバター

ということでこんないでたち

ところで台湾では珍しく並木の綺麗な仁愛路



ここは台湾で一番地価が高い地域だそうです
日本で言えば銀座三愛前みたいなもの


大安森林公園という大きな公園があり、しかもすぐそばに永康街という
小龍包の県泰豊もある地域

ここにある「リドホテル」というところに泊まりました


なかなか綺麗な部屋です



向こうに見える窓が開いてバスタブ付きのシャワールームが素通しに・・・
ん?

なんか変だな

天井に目をやると鏡が・・・


一階の裏口から入ってみるとこんな感じ

・・・そうです、みなさんおなじみのファッションホテルです


朝食もルームサービス(これは最近の日本でもおなじみ)

昼間綺麗なオネエサンとエレベーターで一緒になって・・・
こんな綺麗なお嬢さんも泊まってるんだ・・・と思ったのですが
ちょっと違っていたみたい

でも結構住みやすいです
ア○ルトビデオもただだし (^_^)

なぜかしら出演者は全て日本人(というか日本のビデオ)ばかりでした







のむけはえぐすり 鏡神社のびっくり2010年04月25日 07時32分38秒



鏡神社のびっくり  1/3
1)鏡神社の境内
鳥居の前の由緒書きを見ると、主祭神は天日槍尊。
配祀祭神は天津彦根命(あまつひこねのみこと)と天目一箇神(あめのまひとつのか
み)になっている。
階段を上ると、左には祓戸神を祀る石碑がある。


鏡神社のびっくり  2/3
遺跡散策ルートの案内
鏡山古窯址群  鏡神社遺跡他。
鏡山古窯址群の窯跡の分布は、竜王町、野洲町、湖南市にまたがる鏡山一帯に広が
る。
六つの支群から構成され、6世紀末から8世紀はじめまで操業されていた。

鏡神社のびっくり  3/3
鏡神社の本殿
室町時代の中期に建てられた。
滋賀県の遺構に多い前室付き三間社本殿。
蟇股(かえるまた)を多用し、屋根の勾配をゆるく見せている。

第151弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 銅鐸博物館の須恵器2010年04月26日 22時33分40秒





第151弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 銅鐸博物館の須恵器

 

 写真は大津歴史博物館に展示されていた、太鼓塚古墳群の33号墳からの出土品である。

 

 写真の右の方にある赤茶色と黄土色の土器は、弥生式土器の系譜をひく、素焼きの土師器(はじき)である。左の方にある灰色の土器は、朝鮮半島の陶質土器の系譜をひく須恵器である。

 

写真の中央にあるスカートをまいた人形のような固まりがミニチュアの炊飯器で、その再現された姿は右端にある竈(かまど)だ。竈は初期の須恵器がある集落や古墳群には同時に存在し、移動式のものは韓竈(からかまど)と呼ばれ、帰化人の移住と共に普及していった。このミニチュアの竈はその名残だろう。

 

写真の右手にある長い脚の土師器は高坏(たかつき)と呼ばれ、須恵器にも同じデザインがある。土師器と須恵器はお互いにデザインを真似合っていて、工人同士の交流があったと考えられている。また、土師器と須恵器が同じ古墳の中に副葬されていたことは、土師器と須恵器が生活の中で同時に使われていたことを示している。調理具としては耐火性に優れている土師器が、貯蔵具としては堅牢で漏水しにくい須恵器が、供膳具としては両方が役割分担して使われていたと考えられている。

 

真ん中にある蓋のついた杯は蓋杯(ふたつき)と呼ばれ、5世紀の伽耶や新羅地方には存在しなかったものだ。伽耶についての「のむけはえぐすり」でたびたび紹介した朴天秀さんによれば、初期の日本の須恵器は朝鮮半島海岸部の影響が強く、後になるほど伽耶内陸部の影響が見られるという。

 

須恵器は日本に来てから日本化したという。例えば、朝鮮半島では装飾がある器形とない器形がはっきりしていたが、日本では装飾があるものが一般的になったとか、朝鮮半島では脚のある高坏が主だったが、日本では蓋杯になったとか、デザインがさまざまであったものが、日本では定型化したとか、いわれている。

 

この蓋杯の形は地域的な特徴を持ちながらも、結局は日本の須恵器の生産を終始リードした大阪の泉北丘陵一帯の陶邑の変化に合わせており、作られた須恵器の編年も推定しやすいという。戦後間もない頃に、樋口さんが津島の古墳から出土した須恵器を分類して、400年代後半の第1形式、500年前後から500年前半の第2形式、500年後半から600年頃の第3形式、600年を下る飛鳥時代の第4形式に分けることを提唱した。

 

蓋杯の分類では、次のようになる。

時代を追うごとに、蓋を受ける部分の垂直だった立ち上がりが斜めになり、高さも低くなる。蓋の形は次第に肩の張り弱くなり、杯の方も腰の出っ張りが少なくなり、杯の底部は丸くなっていく。全体としてアンパン型からドラ焼き型へと変わるわけだ。第4形式では、蓋の真ん中に擬宝珠型のつまみがつけられるようになるという。

 

日本書紀の垂仁天皇三年に、近江の鏡の谷の陶人は新羅の王子である天日槍のゆかりの人々だと記されている。鏡の谷は野洲市と竜王町にかけての鏡山の北麓に比定され、6世紀から8世紀に須恵器を焼いた窯跡は150基以上にのぼる。中でも北西部の夕日ヶ丘窯跡群にある20基は最も古く、6世紀前半に築かれたという。近江には、この鏡山北西麓のほかに、鏡山北東麓、水口町、堅田町、愛知町などにも古窯址群(こようしぐん)があるが、第1形式にあたる初期の須恵器を焼いた古窯址は見られないという。

 

鏡山古窯址群に最も近い博物館は、鏡神社から2kmほど離れた地図の赤丸印、野洲市立歴史民俗資料館だ。近くの大岩山古墳群から出土した銅鐸がたくさん展示され、銅鐸博物館とも呼ばれている。鏡山古窯址群で焼かれた須恵器が展示されているとすれば、そこだろうと考えて行ってみた。銅鐸に比べると、須恵器の展示はわずかだが、館員の方が熱心に鏡山古窯址群について書かれた資料を持ってきてくださった。残念ながら写真撮影が禁止されているので、そちらの写真は掲載できない。

 

野洲市立歴史民俗資料館に展示されている須恵器は、そこから直線距離で2Kmほど離れた木部天神山古墳からの出土品だった。墓そのものは6世紀中頃に築かれた直径40mほどの円墳で、地元の有力な首長の墓だという。

 

まず気づくのは、レプリカとはいえ、ガラスのような須恵器の薄さと、深みのある緑の色だ。薄さは轆轤技術の高さを物語っている。須恵器の色は、長さ10mを超すトンネル式の窯の中で、1000度を超える高熱で焼くことによって、不完全燃焼でできた一酸化炭素が粘土の中の酸化第二鉄から酸素を奪い、酸化第一鉄となることによって描き出されるという。この須恵器には陶邑から伝搬した技術だけではなく、伽耶直輸入の技術の高さがあるように思われた。

 

 展示されている須恵器は、子持脚付(こもちきゃくつき)装飾壺という実用でない形のものや、脚の長い高坏や「はそう」であり、蓋杯の展示はない。展示の上の壁に、初期の鏡山古窯址群から出土した蓋杯の写真が掲示されていた。その蓋杯の腰は出っ張り、底は平らで、蓋受けは長く、内側に向いている。樋口さんの分類では、第2形式よりも編年が下がりそうだ。この蓋杯の蓋ではないと思われるのだが、隣にある蓋には扁平に押しつぶされた形のつまみがついている。

 

今回、銅鐸博物館の須恵器を見て、鏡山の須恵器を作る技術水準は相当高かいことが分かった。ただ、鏡山で須恵器が作られ始めた実年代は、500年以前にさかのぼることはなさそうだということも分かった。やはり、天日槍と陶村の人々との関係は漠然としたイメージの話で、そのイメージとは同じ故郷の帰化人ということだろうと思った。

 

 参考文献

1)中村浩、望月幹夫編:土師器と須恵器、普及版 季刊考古学、雄山閣出版、2001

2)菱田哲郎:須恵器の系譜、講談社、1996