第201弾 のむけはえぐすり 咸安(ハマン) 安羅伽耶 任那日本府2014年02月01日 18時20分20秒









第201弾 のむけはえぐすり
咸安(ハマン) 安羅伽耶 任那日本府

釜山(プサン)から高速道路で咸安へと向かう。金海(キメ)の手前で洛東江を渡る。金海を過ぎる辺りから、海抜500m前後の低い山が連なり、山間の所々に小さな集落が見える。昌原(チャンウォン)を過ぎて間もなく、大邱(テグ)へ向かう道路が分岐する漆原JCがある。大邱へ向かえば60Kmほどで高霊(コリョン)だが、車はそのまま晋州方面をめざし、次の咸安ICで下りる。

地図で確かめると、漆原JCから10Kmほど北で、洛東江は金海へ向かう本流と、咸安へ向かう南江に分かれている。南江は咸安から晋州の先、泗川の辺りで海に注ぐ。古代の船ならば、咸安から南江を遡上し、それから洛東江を下れば、金海から海へと続く。逆に、南江を下れば、泗川からも海に出られるといった地形だ。

魏書弁辰伝によれば、3世紀頃のこの辺りは弁辰と呼ばれ、12の主な国とそれ以外の小さな国があった。それぞれの国から鉄が産出し、市場の売買にも鉄が用いられていた。

弁辰は、三国史記では伽耶と呼ばれていた。伽耶は金海の金官伽耶と咸安の安羅伽耶が中心勢力であった前期と、高句麗の攻撃を受けて金官伽耶が衰退した後、高霊の大伽耶が中心勢力となった後期に分けられる。最後は、金官伽耶国は532年に新羅に降り、安羅伽耶と大伽耶は562年新羅によって滅ぼされた。

咸安ICから、海抜400mほどの山に囲まれた盆地の中央にある咸安博物館へと向かう。写真のように、咸安博物館の玄関は土器がモチーフになっている。脚の部分にある透かしは火の玉から炎が上がったような形をしており、火焔形透窓と呼ばれる安羅伽耶式土器の特徴をまねている。

咸安博物館の裏はなだらかな山になっていて、夏の日差しで芝が茶色に焼け、稜線の所々に径が10mほどの円墳がある。遊歩道は山頂に向かって続き、その先にもまた古墳が続いている。

途中にある案内をみると、安羅伽耶の王や貴族の墓が集まっている咸安末伊山古墳群と記されている。末伊山は「モリサン(頭山)」の漢字を当てた名前で、「頭領の山」つまり「王(族)の墓のある山」という意味だという。現在、号数をつけて管理している墳墓は37基あり、痕跡として残っている墳墓は約100基あり、原形を保っていないものを含めると1000基以上あったという。

かつては道項里古墳群と末山里古墳群は別個の史跡として指定されていたが、発掘調査の結果、二つの古墳群は同時代の墓が集まったものと認められ、2011年7月に統合して末伊山古墳群として再指定された。

同じ案内板に、末伊山古墳群に対する最初の発掘調査は、日本の植民地時代の朝鮮総督府によって行われたと記されている。その目的は、かつてこの地に任那日本府があったという証拠を探し、韓半島侵略を正当化するためだったとしている。その際、伽耶の中で最大規模の末伊山4号墳はわずか10日余りで発掘されたという。

今日、任那日本府の実態への解釈が日韓の古代史上、微妙な問題になっている。今回はそれを承知で、この咸安の地を訪ね、先の一文に出会った。

安羅伽耶にあったとされる任那日本府に関する記事は、日本書紀の雄略8年に高句麗軍に包囲された新羅王が、任那王のもとへ使いを出し、日本府の将軍たちの救援を求めてきたとあるのが初見であり、日本書紀では伽耶は任那と呼ばれている。

戦前の韓国には、任那日本府に対する研究はほとんどなかった。それは、日本書紀には任那日本府を中心にした伽耶諸国に関する記述があるのに対して、韓国古代史の唯一の資料である三国史記には高句麗、百済、新羅の本紀はあるものの伽耶諸国の本紀はなかったからだ。そのため、戦前の伽耶諸国に対する研究は、当時の日本の植民地政策に合わせるように、日本書紀の記事をもとにした解釈が一人歩きしていた。それは日本書紀が威勢良く語るように、伽耶諸国が倭国の一部、あるいは属国であったとして、任那日本府を日本の出先機関と捉えていた。もし戦前にこのような解釈に対して異を唱えれば、1940年の早稲田大学の津田左右吉教授のように発売禁止処分や皇室冒涜の有罪判決を受け、言論弾圧の対象となった。

李永植氏によれば、戦後、韓国で伽耶に対する研究が行われるようになると、感情的な反発から、日本書紀は偽書であるとか、任那日本府については触れるべきではないといった考え方もあったという。その後の任那日本府に関する研究は、大和政権と切り離して韓半島南部に居住する倭人による政治機関とする説、百済のことが日本に書き換えられた百済軍司令部と捉える説、任那に派遣された倭国の外交交渉団と捉える説などに分類されるとしている。

日本書紀によると、欽明天皇(在位541-571)は先に新羅によって滅ぼされた任那の再興を図り、新羅に対抗するために、残った任那諸国の団結を呼びかけ、百済の聖明王(在位523-554)に働きかけ任那済復興会議を2回開催した。それを欽明5年3月に百済の使節が報告する中で、「(百済が)日本府と任那を呼んだ」とあり、任那にはいたが、任那と日本府は並立した存在であることがうかがえる。さらに、任那日本府の的臣(いくはのおみ)や吉備臣や河内直に対する百済からの罷免要請があったり、任那日本府が新羅に通じていたことが報告されたり、任那日本府は軍事的というよりは外交的な性格が強く、それも当時の倭の政権がその活動を完全に掌握していたようには思えない節がある。

そうしたことから、私は任那日本府について、伽耶諸国が自らの生き残りをかけて受け入れた現代のロビイストのような存在と考えており、外交交渉団説をとる。

参考文献
1)李永植:伽耶諸国と任那日本府、吉川弘文館、東京、1993
2)大平裕:知っていますか 任那日本府、PHP研究所、東京、2013
3)朴天秀:伽耶と倭、講談社、東京、2007
4)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀(下)、講談社学術文庫、東京、2009


第200弾 のむけはえぐすり 始度一海千餘里至對馬國2013年12月29日 18時31分03秒












第200弾 のむけはえぐすり
始度一海千餘里至對馬國

表題は、「始めて一海を度(わた)る、千余里にして対馬国に至る」と読み下す。

 魏志東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝のはじめの頃の一節である。中国の使節が帯方郡から倭(日本)に行くには、海岸沿いに船で南に行ったり東に行ったりしながら韓国を経由して七千余里で倭の北岸の狗邪韓国に着くとした一文の後に続く。
 
 古代の小さな船で、危険を冒し日本海を渡る。勇壮とも、悲壮とも、胸が躍る一節である。実際にどんな船でどのように航海したのか、興味があった。

その疑問を解きに、まず大阪市歴史博物館にある弥生後期の船の埴輪を見学に行った。それが上の写真で、4世紀末の船形埴輪である。全長128.5cm、幅26.5cm、高さ36cmで、船首と船尾を高く立ち上げ、鰐口のような独特な形をしている。

この埴輪は、昭和62年(1987)の地下鉄谷町線の延長工事で長原駅の周辺から発見された。長原駅の周辺には、5世紀前半の小型の方墳を中心とした200基以上の古墳群があり、その中の高回り2号墳から出土した。

大和川の北岸の平野区長原は、古代には伎人郷(くれのごう)と呼ばれ、呉人が住み、地名にも転化した喜連(きれ)の東に隣接している。また、物部氏の本拠である八尾の渋川神社の南に位置し、ちょうど上町台地が河内湖に突出する砂州の基部にあたる。長原駅の近くからは韓式土器や初期須恵器も出土し、古代には朝鮮半島南部からの帰化人が住んでいた形跡がある。長原古墳群を築いた人々は、大和川を挟んで大王陵のある古市古墳群の被葬者とその政権を支えていたと考えられている。

展示されていた船形埴輪は、下部の丸太の「くり抜き船」の上に、舷側板を積み上げた準構造船である。舷側にはオールの柄を受けるための4対の櫂架があり、8人の漕ぎ手が船首に背を向けて漕いだようだ。

このような古代船を復元して、日本海を横断して韓国まで行こうとした実験航海が今までに2度試みられている。昭和50年の第1回目は角川春樹氏が組織し、西都原古墳から出土した船形埴輪を模して作られた「野性号」である。韓国では10人の韓国人船頭が八丁櫓を使って仁川から釜山まで漕いだ。時速は順調にいった時でも2ノット、約4Kmである。途中、海流に翻弄され母船に曳航されることもあったが、6月20日に仁川を出発し、7月7日に釜山に到着した。

7月20日、釜山港を出港。釜山からは下関水産大学の20人のカッター部員と教官1人を3組に分け、交代で左右7人ずつ14本のオールで漕いだ。7月21日は、対馬を目前にしながら、洛東江から奔出する褐色の水と潮流とが合流する潮目を越えられない。やむなく曳航されて対馬沖に投錨した。7月22日、この事態になっても報道公器論を振りかざして定員オーバーの船から下りようとしない報道陣に辟易しながら、再び対馬の鰐浦の沖合に停泊せざるを得なかった。7月23日、ようやく対馬の鰐浦の地を踏んだ。

厳原での2日間の休養の後、7月28日、再び壱岐に向かって出航し、丸1日掛けて、7月29日、壱岐勝本港に到着した。対馬から壱岐の間も、魏志倭人伝には「南一海を度(わた)る千余里、・・・一支国に至る」とある。釜山から対馬も千余里、対馬から壱岐も千余里と記されている。この千余里は実際の距離ではなく、魏の使節の心に映じた距離感であると、角川氏は考えた。

8月1日午前8時、壱岐の印通寺港を出港すると、まもなく九州本土がみえた。午後3時25分、帆を張りながら櫓を漕ぎ、カカラ島に到着。その後、呼子、唐津、志賀島と回航し、8月5日には博多港に到着した。平均速力は、1.67ノットと計算された。

平成元年の第2回目の試みは、高回り2号墳出土の船形埴輪を模した「なみはや号」である。大阪市文化財協会の永島暉臣慎氏によると、「なみはや号」は専門家から「船にならない」と酷評されながらも、全長12mの姿にどうにか復元された。案の定、安定が悪く、危なくてとても乗れない代物だった。何百キロという重りを底に入れて安定を保ち、左右4人ずつ合計8人で、大学のボート部の学生が立って櫂で漕いだ。速力は平均2ノットであったが、ほとんど進まないこともあった。やむを得ず、夜間は他の船に曳航してもらった。韓国に着いた時のイベントでは、直前に衣装を着替え、ずっと漕いできたように振る舞ったという。

 今、「なみはや号」は廃館になった「なにわの海の時空館」に展示されているが、もうひとつ、狗邪韓国を受け継いだ金官伽耶国の遺跡を集めた韓国金海市の大成洞古墳博物館にも、古代の船が復元され展示されている。それが下の写真で、高回り2号墳出土の船形埴輪を参考にして作られ、倭の商人が金官伽耶国産出の鉄を船に積み込んでいるところだという。

2回の実験航海の成果を参考にして、遠澤氏は、古代に釜山沖の影島から毎時3ノットで釜山からみえる対馬の御岳(490m)を目指すと、1.5ノットの海流を受けた時は12時間で、2ノットの海流を受けた時は14時間で対馬北端の鰐浦に到着すると試算している。狗邪韓国から対馬までの距離は昼間一杯で航海できる距離であり、それが魏志倭人伝のいう千余里だと、遠澤氏は考えている。

 下の海原の写真は、博多港と釜山港を結ぶJR国際汽船のBeetle号から見た対馬である。表題の魏志倭人伝の一節の後に、対馬は「土地は山険(けわ)しく、深林多し、道路は禽鹿の径の如し」と続く。それが今、3時間で釜山を目指すBeetle号からは、対馬の島影は水平線の上に隠れるように薄く、海の色と空の色の間に消えそうに淡く見えた。

 参考文献
1)角川春樹:わが心のヤマタイ国、角川文庫、東京、1978
2)大友幸男:海の倭人伝 海事史で解く邪馬台国、三一書房、東京、1998
3)遠澤葆:魏志倭人伝の航海術と邪馬台国、成山堂書店、2003

第199弾 のむけはえぐすり 金印公園 「漢委奴国王」2013年12月18日 01時28分28秒








第199弾 のむけはえぐすり
金印公園 「漢委奴国王」

「漢倭奴国王」の金印が出土したという金印公園に行ってみた。

博多からの鹿児島線を香椎で香椎線に乗り換え、博多湾の能古島を右から抱え込むように延びた「海の中道」を、終点の西戸崎まで行く。タクシーに乗って海の上の志賀島橋を渡り、内海に沿って海岸線を行く。低い山が急峻な角度で海に迫るあたりに金印公園がある。

公園に登る階段の手前に、1922年に旧福岡藩第18代当主、黒田長成氏が「漢委奴国王金印發光之處」と揮毫した大きな石碑がある。そこから急な階段を10mほど上ると、山の中腹に写真のような平地があって、金印の碑が博多湾の能古島を望むように立っている。

意外だった。この金印は建武中元2年(57年)に後漢の光武帝から下賜された印綬であり、金印発見時の経緯は、近くの百姓が田んぼの畦を直そうとして偶然に発見したと聞いていたからだ。この金印公園に来てみて、とにかく田んぼがあるような場所ではないのは、一目瞭然だった。

誤解の元は、金印が掘り出された天明4年(1784)の発見者、百姓甚兵衛が発掘の経緯を伝えるために一緒に差し出した口上書にあった。今は所在の分からなくなっているその口上書は、郡役所に提出された後、長く黒田家の倉に収められ、再び公開されたのは大正4年(1915)だという。

口上書に記されていたことは、ざっと次のようだった。

甚兵衛が所有する叶の崎(かなのさき)の田の境の溝を直そうとして、岸を切り落としていると、たくさんの小石がでてきた。小石を取り除くと、その下に二人で持ち上げなければならないほどの大きさの石があった。その石を鉄梃子(かなてこ)で持ち上げてみると、石の間に光るものがあった。それを水ですすいでみると、この金印でした。それに加えて、金印をしばらく手元に置いてしまい、市中に噂が広まるまで差し出さなかったことは、大変申し訳なく思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げますと、庄屋と村役の署名とともに記されている。

そもそも叶の崎を現在の金印公園としたのは、発見当時金印に関する論文「金印弁」を発表した亀井南冥という福岡の儒学者である。その後、この周辺の発掘調査が何度も行われ、海底まで調査されたが、弥生後期の遺物どころか、何も発見されなかった。

私も金印が志賀島のような辺鄙な場所から出土したのか不思議に思ってはいたが、私なりに勝手な想像はしていた。志賀島は古代の海の民、安曇氏の本拠であり、志賀島の北端の勝間には、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、仲津綿津見神、底津綿津見神の三柱を祭神とした沖津宮と仲津宮がある。金印は巡り巡って、安曇氏が所持していたのではないか。それが刀伊の入寇や元寇や海賊が来た時に、急いで隠したままになったとか、いろいろ考えた。

口上書に記された金印の発見された場所や状況の不自然さから、金印が贋作であるといった疑惑は古くからささやかれていた。

江戸時代を代表する篆刻家、高芙蓉の印譜の中に同じものがあるとした昭和29年の贋作説は、その根拠となった印譜が別人のものと昭和60年に確認され消滅した。その後も金印が本物とする証拠が提唱されると、その証拠に異議を唱えただけなのに、金印が贋作であることを証明したような雰囲気にある。

下の写真は実物大の金印のレプリカである。印を持つところが蛇の形をしている。金印があまり類を見ない蛇をモチーフした蛇紐であることによる贋作疑惑は以前からあったが、昭和31年に中国雲南省で発見された?王之印(てんおうのいん)が蛇紐であったことから、疑惑は解消したかのようにみえた。だが、「?王之印」の方は蛇のモチーフがより写実的であって、漢委奴国王の印はずんぐりしている。同じとして良いかという疑問が提示された。さらに、昭和45年には、中国の揚州の郊外で発見された亀紐の金印に彫られた廣陵王璽(こうりょうおうじ)の字体が同じで、洛陽の同一工房による製作説が発表されたが、これに対しても、細かくみると彫刻技法に違いがあり、同一工房だったとしても、一世代以上の差があるとする異論があった。

鈴木勉氏はさらに踏み込んで、彫金家による刻印の鑑定から、漢委奴国王の金印は下書きの文字の形を忠実に再現しようとした「浚(さら)い彫り」といった技法で彫られているとした。一方、廣陵王璽は溝たがねによる「線彫り」の技法で彫られており、下書き通りに刻印することは難しく、彫り手の技量が優先する彫り方だという。二つの印は文字の仕上げの工程が全く異なっているのだから、同じ工房で作られたとは言えないとしている。

今の時代、金属分析のような手法で証明できないのかといったもどかしさもある。平成元年に行われた蛍光X線分析によると、「漢委奴国王」の金印の組成は金95.1%、銀4.5%、銅0.5%のおよそ23Kとの分析結果であったが、中国の金印にはこうした分析結果がないので、比較できないのが現状である。

また、金印の印面の一辺の長さは平均2.374cmであり、漢代の1寸と一致する。これも贋作を主張する側からすれば、後世でも漢代の1寸の知識はあり、当然その寸法に従うはずだから、真印の根拠にはならないとする見解である。偽物だとすれば、誰が何のためにということでは、亀井南冥が自らの漢学塾の宣伝のための自作自演という南冥主犯説がある。

私が福岡市立博物館でみた金印は、四方からの光に囲まれて無邪気に純金のきれいな光を放っていた。それすらも、出土時の状況から考えると、傷がなくきれいすぎるのはおかしいという人もいる。

参考文献
1)鈴木勉:「漢委奴国王」金印・誕生時空論 -金石文学入門Ⅰ 金属印章編-、雄山閣、東京、2010
2)三浦佑之:金印偽造事件 「漢委奴国王」のまぼろし、幻冬舎新書15、東京、2006
3)明石散人:七つの金印、講談社文庫、東京、2004




第198弾 のむけはえぐすり 福岡大湊公園 鴻蘆館跡2013年10月21日 21時18分49秒







第198弾 のむけはえぐすり
福岡大湊公園 鴻蘆館跡

 万葉集の第15巻に、「筑紫館(つくしのたち)に至り遙かに本郷(もとつくに)を望み、凄愴(いた)みて作れる歌四首」という題詩がある。周防灘で嵐に遭った遣新羅使が筑紫館にたどり着き、久々にくつろいだ様子が詠われている。

 筑紫館は、日本書紀の持統2年(688)に、新羅からの使者である金霜林をもてなしたとあるのが最初の記述である。663年に倭が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、太宰府の整備とともに造営されたといわれている。

 筑紫館の遺構が福岡にあるというので行ってみた。

場所は福岡市の大湊公園に隣接する舞鶴公園の中、福岡城と平和台球場の間に、もう一つ球場ができるほどの空き地が発掘現場である。その一角に近代的な建物の鴻臚館跡展示館が建てられている。入ってみると、中はガランとした体育館のような作りで、中央には発掘現場がそのまま残されている。基壇、礎石と記された案内板の周囲には、柱や溝の跡が白いペンキで縁取られている。別の一角には、捨てられた陶磁器の破片が無数に埋もれている。

その捨てられた陶磁器は平安時代のゴミ穴の遺構からみつかった大量の中国陶磁器で、鴻臚館に運ばれた後、火災に遭い、焼け割れて商品価値がなくなったために捨てられたという。これ以外にも、展示館の中には、中国越州窯の青磁、長沙窯の磁器、那窯の白磁、イスラム陶器、西アジアのガラス器など国際色豊かな発掘品が展示されている。

四方の壁にはポスターが貼られ、発掘品が展示されている。「筑紫館から鴻臚館への建物の変遷」というポスターには、第Ⅰ期 筑紫館の遺構(7世紀後半)、第Ⅱ期 筑紫館の遺構(8世紀前半)、第Ⅲ期 鴻臚館の時代(8世紀前半から9世紀前半)と同じ場所に繰り返し建てかえられた建物の遺構図が示されている。第Ⅳ期以降の建物は破壊されてわからなくなっているという。筑紫館の読みは万葉集では「つくしのたち」だが、展示では「つくしのむろつみ」になっている。

どの時代も、谷を挟んで南と北の二つの建物がある。第Ⅰ期は掘立柱の建物で、北の造成地には小規模な石垣があった。第Ⅱ期は谷の埋め立てが進み、北側の石垣は立派になり、南北の建物は同じ規模で建てられ、東西72m、南北56mの堀があり、南館北館の堀の外にはそれぞれトイレの遺構が見つかっている。

上の写真は、展示されていた第Ⅲ期の鴻臚館の全景復元図である。海は鴻臚館の間近にある。周囲は石垣に囲まれ、真ん中に谷があり、同じ形の建物が谷を挟んで南北に並んでいる。どちらの建物も庇(ひさし)がついた大型の建物で、基壇跡もみつかっている。回廊があり、東側には門がある。中には宿泊施設以外に、管理する役人や警備する人の建物や、食物や器物の倉庫もあった。

下の写真は復元された建物だ。場所は上の写真でいうと、陸側の南館で、西に3棟並ぶうちの最も外側、当時草ヶ江と呼ばれた今の大湊公園側の林に近い建物である。宿坊か回廊だとされている。鴻臚館跡展示館の中に残された発掘現場は、その内側に平行して建てられていた棟の遺構である。

展示された年表を見ると、鴻臚館の名は、838年小野篁が唐人と太宰鴻臚館で詩を唱和したという記事に初めてみえる。この時の使節には円仁が同船し、848年に帰国した際も、鴻臚館に滞在した。鴻臚館の名前は、唐の外交施設を鴻臚寺といったので、それにならって筑紫館から変えたようだ。鴻蘆寺の「寺」は秦漢の時代の庶務を担当する官庁のことで、寺が今のように仏教寺院の意味で使われるようになったのはもっと後の時代である。鴻というのは大きな鳥、臚というのは腹で、転じて告げるという意味になり、大きな鳥が外交使節の来たことを告げることを意味している。平安時代の鴻臚館は筑紫(福岡)、難波(大阪)、平安京(京都)の3カ所にあったが、現在、遺構が確認されたのは筑紫の鴻臚館だけである。

年表にはさらに、861年に平城天皇の皇子、高岳親王が唐へ行き、翌年帰国の際にも鴻臚館に滞在したと記されている。861年と869年には唐の商人李延孝が、866年には唐の商人張吉が鴻臚館に「安置」されたとある。鴻臚館は9世紀前半までは中国や新羅からの外交使節をもてなし、日本からの遣新羅使や遣唐使、留学生の宿泊施設として利用されていた。それが9世紀後半になると、唐や新羅の商人たちが滞在するようになり、唐(後に五代、北宋)や朝鮮半島との貿易の拠点となっていたことがうかがえる。11世紀後半に貿易の拠点が鴻臚館の東の砂丘の博多に移り、鴻臚館の役目はそこで終わったようだ。

展示された地図では、鴻臚館と太宰府が東南にまっすぐ延びた2本の古代の官道でつながっている。官道は太宰府の手前で大野城から延びた長さ1.2Kmの水城によって遮断され、東門と西門で通じている。奈良時代の律令下では、太宰府は西海道の九ヶ国(九州)と2島を統括し、九州防衛の要となり、東アジア諸国との対外交渉の窓口となっていた。その中で、鴻臚館は太宰府の出先施設としての役割を担っていた。

「遠(とう)の朝廷(みかど)」と呼ばれた太宰府の組織図がある。政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、蔵所(くらのつかさ)、税所(ちからのつかさ)など15の組織があり、中央政府を模した組織図になっている。鴻臚館はその中の蕃客所(ばんきゃくしょ)に所属していた。その他、鴻臚館に関係のありそうな組織は主船司(しゅせんし)で、鴻臚館から西に離れた今の福岡市西区周船寺付近にあったとされている。もう一つは警護所で、鴻臚館にあったと記されている。

この警護所は、貞観11年(869)、新羅の海賊船が博多湾に侵入した事件の後、設けられた。その後も11世紀はじめに刀伊(とい)の入寇事件があり、その記事から警護所は福岡城の小高い丘(後の天守台)にあったと想定され、鴻臚館遺跡の位置を推定する根拠の一つとなった。それを提唱したのが、大正から昭和初期にかけての九州における考古学の先駆者であり、九州帝国大学医学部教授でもあった中山平次郎博士だったという。

文献
全て、鴻臚館遺跡展示館にある展示の記事に拠った


第197弾 のむけはえぐすり 万葉集から読み取る遣新羅使の航路2013年08月18日 20時06分56秒






第197弾 のむけはえぐすり
万葉集から読み取る遣新羅使の航路

第20回目の遣新羅使の大使には、天平8年(736)2月28日、安倍朝臣継麻呂が拝命した。4月、安倍継麻呂は従5位下に叙され節刀を賜るや、軍令に従い帰宅は許されず、急ぎ平城京から平群、日下を経て難波津に向かった。出航までの間、難波津から13Kmほど離れた住吉大社への参拝を果たした。

6月、難波津を出帆した一行は、住吉津の波打ち際の松林の中に見える朱塗りの玉垣に囲まれた住吉大社を遙拝し、次の停泊地、武庫の浦へと向かった。武庫の浦で潮待ちして、灘の敏馬(みぬめ)浦から潮に乗って、明石海峡を一気に越え、加古川河口の印南都麻(いなみつま)の小島で船を休めた。

印南都麻という名は、隠れる、引っこもるという意味の「いなむ」に拠ったらしい。景行天皇は吉備臣の娘の印南大郎女(いなみおおのいらつめ)に求婚したが、印南大郎女は印南都麻に隠れた。愛犬が吠えて居所を知られ、連れ戻されたという伝承がある。一見略奪婚のようだが、印南大郎女は景行天皇の皇后となった播磨稲日大郎女のことで、日本武尊の母である。求婚されたからといって、巫女あった印南大郎女が「待ってましたとばかりに」というわけにもいかず、一旦逃げるという形をとったという説もある(折口)。

印南都麻の先は、今の姫路市の沖合にある大小40あまりの島からなる家島諸島を通過する。播磨国風土記には「人民(たみ)が家を造って住んだ、故に家嶋となづけた」とあり、縄文、弥生時代の遺跡も多い。家島のある播磨灘は広く、天候にさえ恵まれれば順風な航海が期待できた。

小豆島を過ぎて水島灘、備後灘、安芸灘の境は島々が連なっている。島の間は潮汐の干満によって激しい潮流を生じる幅の狭い海峡となっていて、それぞれに○○瀬戸と名前が付けられている。瀬戸を通り過ぎるのには、潮と天気と時間をみて一気に通り過ぎる。

船を休める停泊地には、武庫川河口の武庫浦、三原市沼田川河口糸崎の長井浦など波の穏やかな河口が多いのだが、「安芸国長門島にて船を磯辺に泊(は)てて作れる歌」という題詞もあり、島影の磯にも停泊することがあったようだ。

長門浦では、「長門浦より船出せし夜、月の光を仰ぎ観て作れる歌」という題詞に続く歌がある。

山の端に 月かたぶけば 漁する 海人(あま)の燈火(ともしび) 沖になづさう(3623)

われのみや 夜船は漕ぐと 思えれば 沖辺の方に 楫の音すなり(3624)

長門浦では漁師の漁り火やら、夜間に船の櫓の音が行き交う様子が詠われ、潮がかなうなら、月明かりを頼りに夜の船出もあったし、瀬戸を渡るには潮に乗るために漕いで渡っていたことが分かる。

安芸灘から伊予灘に抜ける最後の瀬戸が現代の柳井市の大畠瀬戸で、屋代島との間の大島鳴門が難所になっていた。そこをぬけて今の室津半島の熊毛浦で一息入れる。熊毛浦を出ると関門海峡までは瀬戸もなく順風満帆のはずが、周防灘で嵐に遭って、今の大分県中津市の分間浦に漂着した。

漂流の後、優雅に歌を詠うどころの騒ぎではなかったらしい、次の歌は博多の筑紫館である。筑紫館での歌には、「今よりは 秋づきぬらし・・・」(3655)や、題詞の「七夕に(なぬかのよい)・・・」や、「秋萩に にほへるわが裳・・・」(3656)と、陸地に上がって季節感の漂う歌が続く。天平8年7月7日は太陽暦736年8月17日というから、季節は夏の終わりである。旧暦の6月から7月まで、瀬戸内海を渡るのに約1ヶ月を要したことになる。

その後、糸島半島の引津亭(ひきつとまり)、唐津の狛島亭(こましまとまり)、壱岐、対馬の浅茅浦(あさじうら)を経て、竹敷浦に停泊する。万葉集にはこの先の道程と新羅国内で詠まれた歌はない。この後は、「筑紫に廻(かへ)り来て、海路より京へ帰らむとして・・・」と帰路の家島付近の題詞になっている。

続日本紀の天平9年正月26日の記事に、帰還した使節の報告に「新羅国、常の礼を失いて使いの旨を受けずとまをす」とあり、新羅に本当に行ったのかどうか怪しげだ。対馬で入国を拒否されたのではないか。記事には、対馬で大使安倍継麻呂は死んだと記され、何かの異変があったようだ。さらに、副使大伴宿禰三中は病で京に入ることができなかったとも記されている。

新羅に行けなかった理由は、その頃緊迫してきた新羅との関係が背景にあり、当時流行した天然痘(注)(麻疹という説も)のためだと考える人もいる(島田)。続日本紀の天平7年8月12日の記事に、「太宰府に疫に死ぬるもの多し、と聞く」とあるから、使節が行く前から太宰府管内に天然痘が流行していたのだ。使節の一人、雪連宅満が壱岐島で鬼病(えやみ)のため急死したと万葉集の題詞にあることから、大使が対馬で急死したのはその鬼病に感染したためであり、副使が入京できなかった病というのもそれだという。

遣新羅使が帰国した翌年の天平9年の夏に、天然痘は朝廷に蔓延し、藤原四兄弟が相次いで死亡した。遣新羅使が新羅から天然痘を持ち込んだという説も古くからあるが、既に西から流行が広がっていたわけで、遣新羅使も感染して新羅に行けなかったという方が正確なのかも知れない。

参考文献
1)島田修三:遣新羅使人歌群の史的背景  文学論的考察の前提となるもの、愛知淑徳短期大学研究紀要、30、1-10、1991
2)佐佐木信綱編:新訓 万葉集下巻、岩波文庫、1998
3)真弓常忠編:住吉大社事典、瀧川政次郎:住吉大社と遣唐使、2008
4)森浩一:万葉集に歴史を読む、ちくま文芸文庫、2011
5)折口信夫:最古日本の女性生活の根底、2013年8月確認、http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24436_14407.html
注1)天然痘:天然痘ウイルスによって感染し、感染力は極めて強く、致死率は40%といわれている。今は種痘によって撲滅されて、世界中のどこにも流行はない。



遣新羅使は天平7年(668)天智天皇から新羅の文武王に使わされた初回から、桓武天皇の延暦19年(780)に正式に停止されるまで派遣は25回に及んだ。その後、遣唐使の消息を訪ねるための小規模な派遣があり、それを含めて遣新羅使は28回を数える。







第196弾 のむけはえぐすり 住吉大社 遣唐使・遣新羅使の港2013年06月16日 03時24分44秒









第196弾 のむけはえぐすり
住吉大社 遣唐使・遣新羅使の港

西に向かう遣唐使や遣新羅使が出帆した港はどこだったのか。それが分かる当時の公的な資料はない。だが、使節やその縁者が詠った万葉集の歌から、ある程度うかがうことができる。

万葉集の歌を引用する際に付されている番号は、佐佐木信綱が編纂し1924年に刊行した「校本 萬葉集」に準じている。

 4245番の一首は、「天平五年、入唐使に贈れる歌一首・・・」と題される詠み人知らずの歌である。その歌には、「・・・平城の京師(みやこ)ゆ 押照る 難波に下り 住吉(すみのえ)の 三津に船乗り 直渡る・・・」とあり、この時の遣唐使は奈良の都から難波に行き、住吉の三津から船に乗って出航したと記されている。

この歌はさらに、「ゆゆしかしこき 住吉の わが大御神 船の舳(へ)に 領(うしは)きいまし 船艫(ふなども)に 御立いまして・・・」と続き、住吉大社に航海の安全を祈願し、遣唐使の第一船の舳先に何やら社殿を祀って出港していった様子が詠われている。

この歌からは、住吉大社が古くから航海の安全を守る神で、遣唐使は住吉大社を経由して出航していった様子がうかがえる。そこで、住吉大社に行ってみた。

住吉大社に向かうには、天王寺の阿倍野から阪堺電軌上町線の古びたチンチン電車に乗って、見通しのよい平坦な「あべの筋」の下町をガタガタと揺られながら南下する。

実は、このあべの筋を反対に北へ向うと、天王寺を境に谷町筋と名前を変え、洒落た街並みの通りとなる。天王寺から5Kmほどで大阪城を過ぎ、天満橋で大川を渡る。大阪城の手前で谷町四丁目を右折し、なだらかな法円坂を上がれば、左手に大阪歴史博物館、右手に難波宮跡があり、1.6Kmで森ノ宮に至る。

現代は内陸にある住吉大社から大阪城の辺りまでは、古代には淀川と大和川から運ばれた土砂によって北に突き出た砂嘴(さし)であった。砂嘴は上町台地と呼ばれ、ほとんどが海であった大阪平野を、瀬戸内海と河内湾とに分けていた。砂嘴は時代とともに砂州となって対岸近くまで延び、今の吹田市垂水の辺りにわずかな幅の水路を残した。河内湾は淡水化し河内湖となり、氾濫を繰り返した。河内湖の流れを整えるために、仁徳が上町台地の途切れる辺りに「難波の堀江」を開削した。その堀江が今の大川で、大和川が江戸時代につけ替えられるまでは、大和川と合流して淀川の本流であった。地図は藤井寺市立生涯教育センターに掲示されていた「河内潟周辺の初期の弥生ムラ」の地図を基に作成した。弥生ムラが全くない地域が、河内湖の範囲でもある。

その後も河内湖は陸地化し、河内潟になった。江戸時代まで大阪東部に新開池、深野池として名残を残していたが、1704年の大和川の付け替え工事とともに開拓され新田となった。

上町台地の南の傾斜地であった住吉大社から大阪城にかけては、高さも大阪城大手町で24m、天王寺で10m、住吉大社で6mとなだらかで、電車から見たとおりの平坦な地形である。古代も両岸は浅瀬が多かったはずで、大船が停泊できる港があったとは考えにくい。

前述の4245の歌では、遣唐使は難波に着いて、住吉の三津から出発したと詠われている。三津は御津や美津と同じで、遣新羅使の秦間満(はたのはしまろ)の歌(3593)では「大伴の御津」と詠われており、大伴が御津の枕詞のように使われている。

現代の谷町4丁目を右折した法円坂に、孝徳や聖武の難波宮の跡と大阪歴史博物館がある。大阪歴史博物館の屋外に、5世紀後半に営まれた16棟の法円坂倉庫群の高床式倉庫のひとつが復元されている。法円坂倉庫群は難波津の物資が集積する倉庫群であり、大伴室屋時代の大伴政権の支配下にあったと考えられている。本来、御津といえば難波津のことで、大伴氏の本拠も上町台地にあったことから、大伴の御津と呼ばれていたようだ。

難波津の正確な位置はわかってはいないが、平安時代から室町時代にかけて京都へ水運の中継点となっていた渡辺津は、大和川と淀川の流れを集めた大川の左岸、今の天満橋から高麗橋にかけての北船場の辺りにあったことが知られている。難波津もその辺りにあったと考えるのが自然だろう。

住吉大社に行ってみると、有名な反橋(太鼓橋)の近くに写真の「住吉万葉歌碑」がある。

万葉集に「大船を荒海に出(いだ)しいます君 恙(つつ)むことなく早帰りませ(3582)」の歌がある、碑に掲げられた船は、その大船を模したようだ。歌碑に刻まれていた遣唐使への餞(はなむけ)の歌は、「住吉に 斎(いつ)く祝(ほうり)が神言(かむごと)と 行くとも来とも 船は早けむ(4243)」とあり、住吉大社の神官(祝)が祈願したことが記されている。

碑の下の方には、「萬葉時代の住吉の地形」が描かれている。住吉大社は住吉津に臨み、反橋のかかる水路とつながっている。住吉津は今の細井川の掘り割り水路となって河内潟に通じている。一方、潟湖を南にたどると得名津のある浅香潟に通じ、途中は浅沢小野、遠里小野という低湿地になっている。

現代も住吉大社の周囲は平坦な地形であり、古代も浅い潟であった住吉津に、大船が接岸するのは難しいと思った。遣唐使や遣新羅使の大船が停泊して出航できる御津とは、やはり難波津だったのだろう。難波津を出航してから、どのような経路と形で航海の安全を住吉大社に祈願したかは、万葉集の歌からうかがうことはできなかった。

参考文献
1)ここまでわかった!古代豪族のルーツと末裔たち、「歴史読本」編集部、新人物往来社、2011
2)森浩一:萬葉集に歴史を読む、ちくま学芸文庫、2011
3)佐佐木信綱編:新訓 万葉集(下巻)、岩波文庫、東京、1998
4)住吉大社編:住吉大社、学生社、1977



第195弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 敦賀 気比の松原 渤海2013年04月04日 01時17分55秒






第195弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人 敦賀 気比の松原 渤海

 延喜式の雑式に「およそ越前松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」とある。

8世紀初めから10世紀にかけて朝鮮半島北部とロシアの沿海州にかけて渤海という国があった。その渤海からの使節が来た時の迎賓施設として松原客館があり、その管理運営を気比神宮の宮司に任せていたというのだ

渤海国を韓国語ではパレという。668年、唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼし、唐は高句麗の王族や貴族を今の遼寧省朝陽に移住させた。

7世紀末になると、唐の支配に対して反乱が起き、698年に乞乞仲象(こつこつちゅうしょう)が唐からの討伐軍を打ち破り、今の吉林省敦化市辺りに振国(震国とも)を建国した。新唐書によると、乞乞仲象の長男が振国の初代の王となった時に、高句麗王族の姓の一つである大氏を継いで、大祚栄(だいそえい)と名乗ったという。705年、唐は討伐をあきらめ、振国の建国を認め、形の上では朝貢国として「左驍衛員外大将軍渤海郡王」の称号を与えた。

718年、大武芸が2代目の王となると、振国は黒水靺鞨(こくすいまつかつ)族以外の全靺鞨族を支配し、旧高句麗の領土の北半分を支配するまでに版図を拡大した。渤海の発展を恐れた唐は、新羅と黒水靺鞨族と計り、遠征しようとした。これに対して、渤海は54回も遣唐使を派遣し、唐には藩屏国として服従する姿勢をとった。一方、新羅を牽制するために、新羅と敵対していた日本との軍事的な提携を求めて、728年に第1回の渤海使を日本に派遣した。

それから919年までの200年間に、渤海使は34回日本に来航し、日本からは遣渤海使が15回派遣された。

この間、第3代大欽茂による56年間の治世下で渤海の国力は充実し、762年に唐から正式に渤海国王の称号が与えられた。871年の第13代大玄錫まで、渤海は積極的に留学生を唐に送り、唐の制度を学ばせ、五京十二府六十二州の行政制度を確立し、唐をして「海東の盛国」といわしめるほどに繁栄した。

五京とは、古くからの国の中心である中京顕徳府(吉林省和竜)、新しい国の中心である上京龍泉府(黒竜江省寧安)、日本道の始点となる東京龍原府(吉林省琿春)、唐への朝貢道の始点となる西京鴨緑府(吉林省臨江)、新羅道への始点となる南京南海府(北朝鮮威鏡南道)をいい、中京、上京、東京との間で遷都を繰り返した。

写真の地図は、韓国国立中央博物館に展示されていた「渤海の領土とルート」である。今の沿海州の辺りのオレンジ色の範囲が、最大となった時の渤海の領土である。そこから、放射状に広がる矢印が新羅道、日本道、唐道であり、その起点になっているのが五京である。日本道の終点は、敦賀を指している。

10世紀に入ると、907年にまず唐が滅び、分裂していた新羅は935年に滅亡する。この間、渤海は支配階級の権力闘争と形骸化した制度によって弱体化し、契丹の耶律阿保機に攻められ、926年に滅んだ。

718年に派遣された初回の渤海使は、寧遠将軍高仁義を将とする24人の使節団であった。日本海を海流で流され、蝦夷地に漂着した。現地で16人が蝦夷人に殺され、残り8人が命からがら出羽国にたどり着いた。渤海使の到着は平城京に知らされ、来意を問う存問使が派遣され、平城京に案内された。

武芸王の国書には、「高麗の旧居に復し、扶余の道程を有(たも)てり」とあった。自らが高句麗の後裔であるとし、対等な外交文書であった。渤海から貢献された貂(てん)の毛皮300張りは貴族たちに重宝され、権力の象徴となった。2年後の帰国の際には、日本が建造した船に大量の絹や綿(きぬわた)を積んで、62人の送使団とともに北陸の港から旅立っていった。

初期の渤海使は文化的な交流や親善が目的で、漢詩の競い合いの会が催され、菅原道真が日本側のエースとなって活躍したこともあった。ところが渤海使は、毛皮と繊維の交易が目的化してきた。それも「船は日本側で仕立ててくれ、毛皮でいいなら毎年でも使節を派遣したい」と、かなり図々しくなった。日本側としても、使節が来れば、なにかと物入りである。

それでも文人趣味の嵯峨天皇の頃ならまだ歓迎されていたが、やがて渤海使は疫病を持って来るとか、国書の記述が気に入らないとか、難癖がつけられては入京を拒否されるようになった。最終的には、12年に1回の朝貢にしてくれと、「一紀一貢」が一方的に決められ、来航しても追い返されることもあった。

渤海使は、冬の季節風の強い12月か1月に沿海州を出発して、1月か2月に着いた。初期の頃は東京龍原府の近辺のポシエト湾から船出していたが、ポシエト湾は冬には凍結してしまう港であった。後になって南京南海府の近くから船出したが、風と海流によっては日本のどこに着くか分からなかった。たどり着いた渤海使を入京する前に接待したのが、敦賀津の松原客館だった。

逆に、帰国する渤海使や日本の送使は、6月から8月に日本を船出していた。多くは日本が船を能登の福浦で建造し、福浦津から渤海に出発した。渡航の準備が整うまでの間、敦賀津の松原客館で待っていた。

松原客館が今の敦賀市のどこにあったかということは、今でも分からないらしい。気比宮社記の相伝には「(松原神明神社が)上古、高麗・渤海国人を饗応せしむるの客舎の旧地也」とあるから、気比の松原に隣接する松原神明神社から永健寺にかけての辺りだと推定する人もいる。また、気比神宮の宮司が管理運営するのだから、気比神社の近くだったはずだという人もいる(福井県史)。

写真は、3月中旬の気比の松原から見た敦賀湾の景色である。左に、西方ケ岳が見える。渤海使はこの山を目指し、ひたすら風濤に身を任せて海を渡ってきたのだろう。3月中旬ともなると西方ケ岳の頂きにも雪はなく、この日の海は穏やかな姿を見せてはいたが、松の枝を揺らす西からの風はなおも冷たかった。

参考文献
1)上田雄:渤海国、講談社学術文庫、講談社、東京、2004
2)上田雄、孫栄健:日本渤海交渉史、彩流社、東京、1994
3)福井県史 通史編全6巻、渤海使の来航と縁海諸国の対応、http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-05-01-01.htm


第194弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 敦賀 気比神宮2013年03月01日 02時43分51秒










第194弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人 敦賀 気比神宮

 琵琶湖の北端、北陸道の木之本ICから車で23Km。古代の日本海の玄関口を見なくてはという思いから、敦賀の気比(けひ)神宮まで行った。

気比の大鳥居は、嵯峨天皇の810年に造営されたが、1343年に暴風雨で倒れた。写真に見える高さ11mの朱塗りの大鳥居、通称赤鳥居は、1645年に佐渡の一本の榁の大木から作られ、柱の前後に支柱のある両部鳥居の型式で今に伝わっている。

写真の赤鳥居の右にある石碑には、「官幣大社気比神宮」とある。気比神宮は古くは笥飯(けひ)の字が当てられ、越前国一之宮、北陸道総鎮守と呼ばれていた。延喜式神名帳には「祭神七座並びに名神大社」とあり、この七柱の神は一座ごとに官幣の奉祭にあずかっていた。明治時代には官幣大社であった。市民からは「けいさん」と親しまれているというが、福井の発音だと、「けえさん」になるようだ。

気比神宮の祭神は、伊奢沙別命(いささわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、日本武命(日本武尊)、応神天皇、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰命の七座である。

元々は伊奢沙別命が気比神宮に祀られていた神で、気比大神、御食津大神(みけつおおかみ)と呼ばれていた。社伝によると702年に仲哀天皇と神功皇后が本宮に合祀され、東殿宮に日本武尊、東北にある総社宮に応神天皇、西北にある平殿宮に玉妃命、西殿宮に武内宿禰命が祀られたという。今も四社之宮(ししゃのみや)とよばれ、本殿の左右に二社ずつ並んでいる。

「気比宮社記」によると、仲哀2年、日本武尊の子である仲哀天皇が神功皇后とともに新羅征討を気比神宮に祈願し、角鹿から穴戸に向かった。仲哀8年には、仲哀天皇が神功皇后と武内宿禰と安曇連に気比大神を祀るように詔(みことのり)をした時に、気比大神が玉妃命に神がかりして、「もし天皇が敵に遭ったとしても、刀を血で汚すことなく、敵が自ら帰順してきます」と神託があったというのだ。

さらに、古事記の仲哀天皇の段には、幼いホンダワケ(応神)と伊奢沙別命と武内宿禰が登場する敦賀の地名の由来話がある。

仲哀天皇の死後、皇位継承の争いで異母兄の忍熊皇子と籠坂皇子を殺害した武内宿禰は、幼いホンダワケを連れて、禊(みそぎ)の旅に出た。角鹿に来て仮宮を作ると、伊奢沙別命がホンダワケの夢枕に現れて、「私の名前とホンダワケの名前と取り替えよう」と告げた。ホンダワケは恐縮しながら、「その通りに致します」と答えた。すると、伊奢沙別命は「明日の朝、浜に来なさい。お祝いの品を差し上げよう」と言った。次の日の朝、ホンダワケが浜に出てみると、一の浦に鼻の先を傷つけたイルカが溢れていた。ホンダワケは「伊奢沙別命が御食(みけ・食料)とされる魚を私に下さった」と喜んだ。それからは伊奢沙別命を御食津(みけつ)大神と呼ぶようになったが、今は気比大神という。また、イルカの鼻から流れた血が臭かったので、その浦を血浦といったが、今は都奴賀(つぬが)という。

日本書紀の垂仁即位の条に、もう一つ、ツヌガノアラシトが登場する敦賀の地名の由来話がある。

額に角が生えているツヌガノアラシトが、船で笥飯に着いた。どこの国の人かと尋ねると、「私は大加羅国の王子で、都怒我阿羅斯等といい、またの名を于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本に立派な王がいると聞いてやって来た。初め穴門(あなと・今の下関辺り)に行ったが、そこの王はたいしたことはなかったので、出雲を経て、笥飯に来ました」と答えた。崇神がちょうど亡くなった年で、それから3年間、垂仁に仕えた。ツヌガノアラシトが帰りたがっているので、垂仁は「道を間違えずにやって来たら、先の大王に会えたのに、国に戻ったら御間城(みまき)天皇の名をとって、国の名前にしなさい」といい、赤織りの絹を賜り、国に返した。これが、任那(みまな)国の始まりである。その布を新羅が奪ったので、新羅と任那が争うようになったという。

気比神宮の境内に14社の摂社末社があるなかに、式内社が7つある。摂社はその神宮の祭神と縁故の深い神を祀った神社で、末社はそれ以外の神を祀る神社と区別される。摂社の筆頭が、赤鳥居からほぼ真っ直ぐ入った森の奥にある角鹿(つぬが)神社である。祭神は都怒我阿羅斯等命(ツヌガノアラシト)である。

それでは、ツヌガノアラシトは伊奢沙別命と関係があるのかというと、はっきりしたことは分からないらしい。「大日本史」や「敦賀郡誌」のように「ツヌガノアラシトは角鹿国造の祖健功狭日命(たけいさひのみこと)」のことだとみている本もあるという(谷川:122p)。

新羅と任那の抗争の始まりを伝える話の後に、もう一つのツヌガノアラシトの話が続いている。

ツヌガノアラシトが国にいる時、黄牛に農具を負わせて田舎に行った。牛がいなくなったので捜していると、村人に食べられてしまったという。その代価として、村人が祀っていた白い石を貰って持ち帰ると、石は綺麗な娘になった。喜んでいると、娘は東の国に逃げて行ってしまった。娘を探して日本にやってくると、娘は難波の比売語曽(ひめごそ)神社の神となっていたという話だ。

気比神宮には大伽耶から来たツヌガノアラシトや、新羅に行った神功皇后とその神話に登場する祭神が祀られていた。両方の神話に共通して登場する穴門(穴戸)とともに、敦賀は朝鮮半島と行き来する人々にとって、日本海の玄関口だったのだろう。今も、敦賀の地名の由来となったツヌガノアラシトは、写真のような銅像となって敦賀駅の広場に立っていた。

1)谷川健一編:日本の神々 神社と聖地(8)北陸、白水社、東京、2001
2)敦賀市立博物館:気比さんとつるが町衆 気比神宮文書は語る、2005
3)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀(上)、講談社学術文庫、東京、2009
4)倉野憲司校注:古事記、岩波文庫、東京、1998



第193弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 神田神社2013年02月18日 03時03分30秒







第193弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 神田神社

 古代に朝鮮半島から畿内を目指して日本海ルートで来るには、山陰の海岸にそって小浜か敦賀に着く。小浜からは、水坂峠を越えて今津にいたる九里半越えの若狭街道がある。敦賀からは海津に出る七里半越えと、敦賀から追分、深坂峠を越えて塩津に出る最短の五里半越えがある。古代には主にこの五里半越えが使われていた。

 塩津、海津、今津からは、湖上を船で大津に向かう。途中、堅田の辺りで、琵琶湖はくびれるように狭くなる。今はそこに琵琶湖大橋がある。

堅田は古くから湖上交通を管理する湖上関のような所であった。中世には堅田衆が湖上を往来する船を警護する名目で、「上乗り」権と称する警護料を徴収し、従わなければ湖族となって略奪していた。

 JR湖西線堅田駅から、車で10分。真野町神田に神田神社がある。写真の石碑には縣社とあるが、旧社格は旧滋賀郡八座の内の一つで、ここから1kmほど離れた普門町にあるもうひとつの神田神社や日吉大社、小野神社などと並ぶ式内社であった。

由緒書きには、「神田神社、みとしろのかみのやしろとも言う」とある。みとしろとは、御戸(刀)代とも書き、神にささげる稲を作る神田のことだという。

神田神社から400mほど湖岸の方に、「真野の入江跡」の石碑がある。古代の湖岸はその辺りまで入っていて、ススキの穂を連想させるような地形になっていた。「真野の入江の汀」の辺りが神田(かみしろ)の地であって、そこに神殿を建て、地名をとって神田神社と称したのが始まりである。現在地には、その後の水害のために遷されたという。さらに、由来には、真野とは大変古くから開けた神気ただよう素晴らしい土地という意味だと解説されている。

祭神は、主神に彦国葺命(ひこくにぷくのみこと)、相殿に天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)とある。二の宮には孝昭(5)と須佐之男命が祀られている。神田神社を氏神とした氏族は、古代の豪族真野氏である。真野氏は和邇一族で、和邇氏と同じ孝昭の皇子、天足彦国押人命を祖とする。

新撰姓氏録には、真野氏は天足彦国押人命の三世孫である彦国葺命の後裔で、大口納命(おおくたみのみこと)を祖とすると記されている。さらに、難波宿祢と大矢田宿祢が神功皇后に従って新羅を征服した時に、鎮守将軍として新羅に留まり、新羅の国王猶榻(ゆうとん)の娘を妻として、男子二人をもうけた。兄を佐久命といい、弟を武義命(むげのみこと)という。佐久命の九世孫に和邇部臣の鳥と忍勝がいて、近江国志賀郡真野村に住んでいたので、持統天皇(41)の4年に真野臣という姓を賜ったと記されている。

「滋賀県の地名」には、真野村から2Kmほど北にある和邇川の付近を本貫としていた和邇部臣の一族のうち、真野村に住んでいた鳥と忍勝の系統が真野氏に改姓したのだろうと書かれている。

真野川の北には1基の前方後円墳を含む111基の円墳からなる曼荼羅山古墳群があり、真野川の南には2基の前方後円墳を含む167基の円墳からなる春日山古墳群がある。真野氏の墓域と考えられている。いずれも片袖長方形プラン、平天井で、近畿一帯に広がる横穴式石室の特徴をとっている。明らかに、穴太の辺りにみられた両袖式正方形プラン、ドーム型天井で、ミニチュアかまどを出土する百済系帰化人氏族の墓とは異なっている。これらの古墳群は6世紀から7世紀にかけて営まれた古墳群である。

真野氏の新羅遠征の伝承から新羅系の帰化人ではないかという説もあるが、滋賀郡の最北端に位置する真野鄕には、和邇氏の勢力が強く、帰化人の氏族がいた証拠は見当たらない。

彦国葺命については、古事記に活躍が記されている。崇神10年(由来には紀元前87年とされているが)、四道将軍の一人、大彦命が北陸に向かう途中の和邇坂で不思議な少女から、孝元(8)の皇子、武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻吾田媛(あたひめ)に謀叛の企てがあると知らされる。都を攻める反乱軍に対して大彦命と彦国葺命が派遣され、彦国葺命が武埴安彦を射殺したというのだ。

 真野氏は新羅への遠征軍や、皇族の反乱に対する鎮圧軍の将軍を務めており、和邇部の中でも有力な軍事氏族であったようだ。

神田神社の周囲を見渡すと、今は真野川流域に広がる平坦な地形になっているが、当時は湖岸が迫り、すぐ北側には小野氏がいて、さらにその北には和邇部氏がいた。真野村の辺りだけで、二つの古墳群を造営できる人員や軍勢を養うほどの農地があったとは思えない。加賀、越前、若狭といった日本海側の和邇部からの動員もあったのだろう。真野の地は北陸の和邇部と都を結ぶ人員や貢献物の中継点になっていたようだ。

貢献物が北陸の和邇部からの運ばれてくる様子が、古事記に記されている。応神(15)が山背の和邇氏の娘を妃に迎えるために、宇治の木幡(こはた)で宴会が開かれた時のことだ。宴席に蟹が運ばれてきたのをみて、応神が歌を歌った。この蟹が角鹿(つぬが)から運ばれてくる道は険しく、蟹のように横歩きしながら峠を越え、水鳥のように潜って苦しそうに息継ぎをしながら琵琶湖を渡り、大変な思いをして運ばれて来た蟹だと歌った。

蟹が運ばれて来た道は、五里半越えの深坂峠だろう。蟹の横歩きに例えられるほど、五里半越えは険しかった。深坂峠を避けて、峠の東側に新たな道が開かれ、今に残る塩津街道となったのは、戦国時代末期のことである。

参考文献
1)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
2)平凡社地方資料センター編:日本歴史地名体系第25巻 滋賀県の地名、平凡社、東京、1997
3)谷川健一編:日本の神々5 山城 近江、白水社、2009
4)財)滋賀県文化財保護協会編:琵琶湖をめぐる交通と経済力、サンライズ出版、大津、2009



第192弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 御上神社2012年12月19日 20時47分02秒









第192弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 御上神社

 琵琶湖線の野洲駅からタクシーで10分、御上神社の鳥居に着いた。そこから見た三上山は、円錐の形はしていない。遠くから見ると、手前の低い山が三上山に隠れ、きれいな三角形の近江富士に見えていたようだ。
 
由緒書きに記されている祭神は、天之御影神(おめのみかげのかみ)である。社伝によれば、孝霊の6年、これが紀元前285年と注釈されているので、今から2200年以上も前のことになってしまうのだが、三上山の山頂に天御影神が天降り、御上祝(みかみのいわい)が祀ったとされる。

三上山を望む里の遙拝所であった現在地には、養老2年、藤原不比等が社殿を創建した。その頃の三上山の一帯は、榧(カヤ)と呼ばれるイチイ科の常緑針葉樹の森であり、社殿にはその榧の木が使われた。

写真の本殿は鎌倉時代に建立されたが、どこか普通の神社建築と違っている。ほとんどの神社建築は、切妻造りで、両端に張り出す屋根がない。切り妻の語源をいえば、配偶者は家の端っこの「つまや」に住んでいたから妻といい、刺身の「つま」と同じだという。この本殿の両端には屋根があって、入母屋造りという仏閣や殿舎に多い様式である。漆喰の白壁や連子窓もまるで寺のようで、千木はというと無理矢理乗っけたような格好になっている。戦国時代まで、この辺りに東光寺という大きな寺があって、その神仏習合の影響でこのような形になったといわれている。

 天御影神は天照大神の孫であって、鍛冶や刀工の神とされている。天御影神の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)は日子坐王(ひこいますおう)の3人目の妻であり、二人の間の子が水乃穂真若王(みずのほのわかのみこ)で、近淡?の安直(やすのあたい)の祖先とされている。この近淡?安直が古代に三上山の麓、現代の野洲郡一帯を支配していた安国造であり、三上山を聖地として祭祀していた氏族である。古事記には御上祝(みかみのほうり)が息長水依比売を祀っていたと記されているが、御上祝の娘であったとする説もある(日本の神様事典、54P)。

日子坐王は開化(9)の皇子で、崇神(10)が地方を帰順させるために派遣した四道将軍の一人で、丹波方面が担当であった。日子坐王の母は意祁都比売命(おけつひめのみこと)で、その兄の日子国意祁都命(ひこくにおけつほみこと)と共に丸邇(わに)氏の祖先である。

御上神社周辺には、総数30基の横穴式石室を主体とする小規模な円墳からなる御上神社古墳群がある。さらに、写真の三上山から左の方へ、2~3Kmの間が妙光寺山、大岩山と続く丘陵地帯になっていて、麓には後期古墳の群集墳が多い。野洲川右岸の大岩山周辺には、弥生時代終末から古墳後期までの大岩山古墳群がある。安直の歴代の墳墓と考えられており、明治14年から全部で24個の銅鐸が相次いで発見され、今は銅鐸博物館に収められている(のむけはえぐすり、第151弾)。

大岩山の近くにある桜生(さくらばさま)史跡公園には、6世紀初頭に築造された丸山古墳や6世紀中葉の高山古墳の横穴式古墳がある。二つの古墳には家形石棺が安置され、馬甲や銀装鉄矛など朝鮮半島に由来を持つ副葬品が出土している。6世紀初頭は継体が即位する前であって、この頃に安直が近淡?安国造になり、近江を代表する豪族に成長した時期であった。

古代の近江の豪族は、三つに分けられる。

ひとつは坂田郡の坂田君を中心として息長、伊香(いかご)、犬上といった氏族のいた湖北地方の勢力。次は、今回の近淡?之安国造(ちかおうみのやすのくにのみやつこ)が代表する湖東地方の勢力。最後が、安直とは別の近淡?国造が本拠としていたと考えられる湖西地方の勢力である。因みに、このもう一つの方の近淡?国造が、日吉大社の東本宮の大山咋神を祀った氏族だという説がある(大津市史Ⅰ、114p)。

三つの勢力は継体の即位を機に、大きく運命が分かれた。息長氏は継体に妃を出し、外戚として継体の即位に尽力した。天武の八姓制定にあたっては皇親に与えられる姓(かばね)の真人を賜っている。朝廷の中枢に入ることはなかったが、地方勢力として威勢を保った。

近淡?国造のうち大友郷にいた方の近江臣には、527年に継体の即位後、朝鮮問題の処理を任され、朝鮮半島の安羅に派遣された近江臣毛野がいる。近江臣毛野は外交使節として2年間活躍するが、たいした成果も上げられないまま、帰途、対馬にて急死した。589年には東山道の蝦夷の国境を視察したという近江臣満(みつ)の記録がある。先の近江臣"毛野"の名前からしても、北関東地方との関係がうかがわれる。古くから北関東や朝鮮半島などとの交易で活躍していたので、朝鮮半島との外交にも登用されたのだろう。だが、壬申の乱以降はまったく名前がみえなくなり、三尾氏と同じく大友側について没落したようだ。

近淡?国造のうち野洲にいた方の安直は、継体以降、活躍を伝える記載は全くなくなる。それどころか、屯倉の設置が盛んになった安閑の時代に、野洲の葦浦に屯倉が設定されたとある。葦浦屯倉は今の守山市三宅の辺りで、当時も豊かな穀倉地帯であっただけではなく、湖上交通の要地でもあった。安直の重要な経済的基盤が削減されたのは、安直が継体の即位に対して協力的でなかったというのが理由のようだ。

参考文献
1)谷川健一編:日本の神々5 山城 近江、白水社、2009
2)大橋信弥、小笠原好彦編:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、2005
3)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
4)平凡社地方資料センター編:日本歴史地名体系第25巻 滋賀県の地名、平凡社、東京、1997