第201弾 のむけはえぐすり 咸安(ハマン) 安羅伽耶 任那日本府2014年02月01日 18時20分20秒









第201弾 のむけはえぐすり
咸安(ハマン) 安羅伽耶 任那日本府

釜山(プサン)から高速道路で咸安へと向かう。金海(キメ)の手前で洛東江を渡る。金海を過ぎる辺りから、海抜500m前後の低い山が連なり、山間の所々に小さな集落が見える。昌原(チャンウォン)を過ぎて間もなく、大邱(テグ)へ向かう道路が分岐する漆原JCがある。大邱へ向かえば60Kmほどで高霊(コリョン)だが、車はそのまま晋州方面をめざし、次の咸安ICで下りる。

地図で確かめると、漆原JCから10Kmほど北で、洛東江は金海へ向かう本流と、咸安へ向かう南江に分かれている。南江は咸安から晋州の先、泗川の辺りで海に注ぐ。古代の船ならば、咸安から南江を遡上し、それから洛東江を下れば、金海から海へと続く。逆に、南江を下れば、泗川からも海に出られるといった地形だ。

魏書弁辰伝によれば、3世紀頃のこの辺りは弁辰と呼ばれ、12の主な国とそれ以外の小さな国があった。それぞれの国から鉄が産出し、市場の売買にも鉄が用いられていた。

弁辰は、三国史記では伽耶と呼ばれていた。伽耶は金海の金官伽耶と咸安の安羅伽耶が中心勢力であった前期と、高句麗の攻撃を受けて金官伽耶が衰退した後、高霊の大伽耶が中心勢力となった後期に分けられる。最後は、金官伽耶国は532年に新羅に降り、安羅伽耶と大伽耶は562年新羅によって滅ぼされた。

咸安ICから、海抜400mほどの山に囲まれた盆地の中央にある咸安博物館へと向かう。写真のように、咸安博物館の玄関は土器がモチーフになっている。脚の部分にある透かしは火の玉から炎が上がったような形をしており、火焔形透窓と呼ばれる安羅伽耶式土器の特徴をまねている。

咸安博物館の裏はなだらかな山になっていて、夏の日差しで芝が茶色に焼け、稜線の所々に径が10mほどの円墳がある。遊歩道は山頂に向かって続き、その先にもまた古墳が続いている。

途中にある案内をみると、安羅伽耶の王や貴族の墓が集まっている咸安末伊山古墳群と記されている。末伊山は「モリサン(頭山)」の漢字を当てた名前で、「頭領の山」つまり「王(族)の墓のある山」という意味だという。現在、号数をつけて管理している墳墓は37基あり、痕跡として残っている墳墓は約100基あり、原形を保っていないものを含めると1000基以上あったという。

かつては道項里古墳群と末山里古墳群は別個の史跡として指定されていたが、発掘調査の結果、二つの古墳群は同時代の墓が集まったものと認められ、2011年7月に統合して末伊山古墳群として再指定された。

同じ案内板に、末伊山古墳群に対する最初の発掘調査は、日本の植民地時代の朝鮮総督府によって行われたと記されている。その目的は、かつてこの地に任那日本府があったという証拠を探し、韓半島侵略を正当化するためだったとしている。その際、伽耶の中で最大規模の末伊山4号墳はわずか10日余りで発掘されたという。

今日、任那日本府の実態への解釈が日韓の古代史上、微妙な問題になっている。今回はそれを承知で、この咸安の地を訪ね、先の一文に出会った。

安羅伽耶にあったとされる任那日本府に関する記事は、日本書紀の雄略8年に高句麗軍に包囲された新羅王が、任那王のもとへ使いを出し、日本府の将軍たちの救援を求めてきたとあるのが初見であり、日本書紀では伽耶は任那と呼ばれている。

戦前の韓国には、任那日本府に対する研究はほとんどなかった。それは、日本書紀には任那日本府を中心にした伽耶諸国に関する記述があるのに対して、韓国古代史の唯一の資料である三国史記には高句麗、百済、新羅の本紀はあるものの伽耶諸国の本紀はなかったからだ。そのため、戦前の伽耶諸国に対する研究は、当時の日本の植民地政策に合わせるように、日本書紀の記事をもとにした解釈が一人歩きしていた。それは日本書紀が威勢良く語るように、伽耶諸国が倭国の一部、あるいは属国であったとして、任那日本府を日本の出先機関と捉えていた。もし戦前にこのような解釈に対して異を唱えれば、1940年の早稲田大学の津田左右吉教授のように発売禁止処分や皇室冒涜の有罪判決を受け、言論弾圧の対象となった。

李永植氏によれば、戦後、韓国で伽耶に対する研究が行われるようになると、感情的な反発から、日本書紀は偽書であるとか、任那日本府については触れるべきではないといった考え方もあったという。その後の任那日本府に関する研究は、大和政権と切り離して韓半島南部に居住する倭人による政治機関とする説、百済のことが日本に書き換えられた百済軍司令部と捉える説、任那に派遣された倭国の外交交渉団と捉える説などに分類されるとしている。

日本書紀によると、欽明天皇(在位541-571)は先に新羅によって滅ぼされた任那の再興を図り、新羅に対抗するために、残った任那諸国の団結を呼びかけ、百済の聖明王(在位523-554)に働きかけ任那済復興会議を2回開催した。それを欽明5年3月に百済の使節が報告する中で、「(百済が)日本府と任那を呼んだ」とあり、任那にはいたが、任那と日本府は並立した存在であることがうかがえる。さらに、任那日本府の的臣(いくはのおみ)や吉備臣や河内直に対する百済からの罷免要請があったり、任那日本府が新羅に通じていたことが報告されたり、任那日本府は軍事的というよりは外交的な性格が強く、それも当時の倭の政権がその活動を完全に掌握していたようには思えない節がある。

そうしたことから、私は任那日本府について、伽耶諸国が自らの生き残りをかけて受け入れた現代のロビイストのような存在と考えており、外交交渉団説をとる。

参考文献
1)李永植:伽耶諸国と任那日本府、吉川弘文館、東京、1993
2)大平裕:知っていますか 任那日本府、PHP研究所、東京、2013
3)朴天秀:伽耶と倭、講談社、東京、2007
4)宇治谷孟:全現代語訳 日本書紀(下)、講談社学術文庫、東京、2009


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