のむけはえぐすり 第79弾 原善三郎の話 その57 ジャーディン・マセソン商会 道光帝 ― 2008年01月18日 19時39分45秒
のむけはえぐすり 第79弾
原善三郎の話 その57 ジャーディン・マセソン商会 道光帝
清朝の道光帝の政治は、北京の紫禁城の乾清宮で朝の四時に、政策を提案する奏文を長々と聞かされることから始まる。気に入らなければ、臣下を左遷するか、処罰する。
だから、奏文を出す方も命がけだ。美辞麗句を並べて、あいまいな主張をちりばめる。恐ろしく非能率的だ。
このところの道光帝の悩みは、先代の乾隆帝の時よりも国庫の銀が目減りしていることだ。その原因は、どうもアヘンの密貿易で国全体の銀が持ち出されているからのようだ。
これまでにもたびたび、アヘンの禁令を出したのだが、いっこうにアヘンの密貿易は減らない。そればかりか、道光帝の身内にも蔓延していることが発覚した。
「いっそのこと、アヘン貿易を解禁し、税金をとりましょう」という意見が、道光16年(1836)に許乃済さんから奏上された。禁をゆるめると書いて、「弛禁論」という考えだが、広州にある学海堂、今でいえば大学の政策研究所の教授たちが言いだした。広東の特権商人の行商たち(Hong merchants)の意見を代弁していた節がある。
直ぐに反対意見が噴出する。代表は、広州のもう一つの名門、越華書院の教授たちだ。「徹底的に取り締まりましょう、全員死刑!」という「厳禁論」と呼ばれる考えだ。その意見は、改革派の官僚の集まりである宣南詩社の黄爵滋さんによって奏上された。
道光帝は迷っていた。薬としてのアヘンはどうするのか。全ての貿易を禁止してしまうことにならないか。要するに、アヘンの実態も、貿易の実態も分かってはいない。写真は、東洋文庫にあったHarry Darell Bart さんが描いたアヘン窟の絵である。道光帝はこういう退廃的で悲惨なアヘンの現場を知らないのだ。
道光帝は、ここは広く現場の意見を聞こうと、各地に派遣した20数名の総督や巡撫たちに意見を求めた。そのうちの4名が厳禁論に賛成を唱えてきた。とりわけ、武昌にいる湖広総督の林則徐さんの意見が、分かり易く、道光帝のお気に召した。いきなり死刑ではなく、一年の猶予を設け、段階的に規制を強め、それでもアヘンを止められないヤツは死刑にするという、タイムスケジュールで示されている。道光帝は林則徐さんを北京に呼び、到着するや否や参上させ、意見を求めた。
林則徐さんの話を聞いて、やる気になった道光帝は、林則徐さんにアヘン問題解決のための全権を与え、臨時の特命大臣である欽差大臣に任命し、広東へ派遣することにした。
「弛禁論」の許乃済さんの方は、とりあえず二階級降格の上、お役ご免にしておいた。
林則徐さんの立場からすれば、こういう仕事は、上手くいったとしても重臣たちのねたみを買って失脚する。下手すれば責任をとらされて死刑だ。どちらにしてろくな結果にはならないことは、これまでの歴史が示している。それでも林則徐さんは覚悟を決め、勅命に近い力を持つ公文書印(関防)をたずさえ、広東までの2ヶ月間の旅に出た。
途中、広東の情報を収集しながら、アヘン密輸の重要犯60人のリストを作成し、到着する前に逮捕状を出した。
広東には、行商たちが所有する十三行街と呼ばれる13軒の洋館(夷館・factory)が並んでいた。各館の行商が外国商人の身元保証人になり、それぞれイギリス、フランス、アメリカ、東インド会社などの商社に貸していた。
ジャーディン・マセソン商会は、マニアック商会が行商のMowquaさんから借りていた家屋を1824年に受け継ぎ、東端の4番地のギリシャ家屋に住んでいた。アヘン戦争前夜のその頃はオランダ家屋に移り、十三行街の中では最も大きな貿易商会になっていた。
林則徐さんが舟で珠江を下り広東に到着したのは、1月25日(新暦の3月10日)であった。 その5日前に、主犯と目されたJardineさんは会社を辞め、イギリスに帰国していた。
本命を見失った逮捕状は、広東でグズグズしていたデント商会のデントさんに向けられた。
参考文献
1)陳舜臣:実録アヘン戦争 中公文庫、中央公論社、1995
2)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982




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