のむけはえぐすり 第83弾 原善三郎の話 その61 ジャーディン・マセソン商会 黄金の50年代 ― 2008年02月22日 21時16分47秒
のむけはえぐすり 第83弾
原善三郎の話 その61 ジャーディン・マセソン商会 黄金の50年代
ジャーディン・マセソン商会には、「黄金の50年代」と「危機の60年代」と呼ばれる時期があった。 石井摩耶子さんがまとめたジャーディン・マセソン商会の経営動向を示す資料によれば、1850年の利益が44万ドルであったものが、1855年から1862年までの7年間では、1856年の186万ドルを最高に、年間利益が100万ドルを超えた年が5回もある(「近代日本とイギリス資本」、4p)。「黄金の50年代」とは蓄財の50年代でもあった。
その年間100万ドルが1863年にはいきなり35万ドルの赤字決算となり、1866年の世界的な恐慌に端を発して1867年から3年連続して損失を計上している。「危機の60年代」である。その後、1870年からは再び黒字基調になり、経営は回復した。 今回は、創業者の二人が去った後のジャーディン・マセソン商会のパートナーや取締役のメンバーを見てみよう。当時、取締役は大班(taipan)と呼ばれていた。
二人の創業者が商会を去った後、しばらくは残った双方の血縁者に平等に配慮した人事になっている。1841年から本社が移り、1844年に本社ビルが完成した香港へは、Donald Mathesonさんが20人のスタッフと共にマカオから移転している。広東へはDavid Jardineさんが行き、マカオにはAlexander Mathesonさんが残って香港と広東の総監督をするといった具合である。
ところが、1848年にマセソン家はジャーディン家とのパートナー契約を解消している。その原因のひとつは、Matheson家の人達が宗教的に厳格で、アヘン貿易に携わることに嫌気がさして辞めていったことだ。早い頃のパートナーであったHugh Mathesonさんはなどは、後にRio Tint(リオ・チント)の創設者にもなった人だが、50年間もイギリスの長老派教会の主催者を務めていたので、アヘンに関わることを恥じ、決して中国へ行こうとはしなかったと言われている。 香港を任されたDonald Mathesonさんはさらに輪をかけた厳格な福音主義者で、周囲の人が辟易してしまうほどだったという。結局、Donaldさんもアヘンを扱うことの罪悪感にいたたまれず、会社を辞めている。その時にAlexander Mathesonさんもパートナーをやめた。それ以降、ジャーディン・マセソン商会にMathesonさんの血縁者はいなくなった。
写真は、現代の香港のJardine Houseである。看板にある中国名の怡和大廈の名前は変わらないが、いつの頃からか、Mathesonさんの名前はなくなっている。
Donaldさんとは辞める時にひと悶着あったかもしれないが、James叔父さんも健在な頃だから、完全な喧嘩別れといったことでもなさそうだ。というのは、会社を辞めてロンドンに戻ったMathesonさんの血縁者たちは、ジャーディン・マセソン商会の資金調達を目的とした銀行のようなマセソン商会のパートナーになっていたからだ。マセソン商会は、Alexanderさんが1846年にロンドンに戻った時に、マニアック・ジャーディン商会の財政危機を知り、再建した会社である。再建にはJames叔父さんのほか、Andrew Jardineさんも絡んでいた。Alexanderさんは、この後、イングランド銀行の取締役にも迎えられている。
その後しばらく、ファミリーではないメンバーのパートナーが続いた。 Mathesonさんが名義保証人になったAlexander Dallasさんは 揚子江の貿易港として重要性を増した上海で1844年から支店長となって活躍し、その後カナダのマニトバ地方の総督になっている。Alexander MacLeanさんは当時としては珍しく娘を一緒に中国に連れてきたので、娘は、早速、Alexander Mathesonさんに見初められ、結婚している。
Donald Mathesonさんの後に大班になったのは、David Jardineさんである。David Jardineさんは1853年に香港立法府の非公式メンバーになり、いとこのJoseph Jardineさんと共に香港船員病院の設立に尽力したことで知られている。だが、二人とも未婚のまま若死にしたので、いとこのRobert Jardineさんが二人の財産を相続した。 その後、縁故関係でないJames Whittal(ウィッタル)さんがジャーディン・マセソン商会の大班になった。ウィッタルさんは、有能な商人をエイジェントとして貿易の新しい場所に積極的に派遣していた。 したがって、1859年にJardineさんの甥のWilliam Keswick(ケスウィック)さんが横浜の英国一番館に来た時というのは、ジャーディン・マセソン商会が「黄金の50年代」の最も充実した時で、新たな貿易の拠点を求めていた時だったというわけだ。
参考文献 1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998 2)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982 3)石井寛治:近代日本とイギリス資本 ジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、2001
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