第117弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 百済の滅亡2009年02月08日 05時13分27秒

のむけはえぐすり  扶蘇山の三忠祠にあった階泊将軍の肖像画

第117弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人 百済の滅亡

 
朝鮮半島から帰化人が大挙してやって来た7世紀後半、朝鮮半島では何があったのだろうか?

朝鮮半島の南西部を錦江(クンガン)が流れる。小白山脈から忠清北部の清州盆地を蛇行し、忠清南道の肥沃な論山平野を潤している。熊津(ウンジン)と呼ばれた今の公州あたりでは熊津江と名前を変え、泗沘(サビ)と呼ばれた今の扶余からは白馬江(ペンマガン)となって黄海に注ぐ。熊津も泗沘も百済の都がおかれた所で、錦江は百済の重要な水上交通路であった。河口の白江口を、古代の日本では白村江(ハクスキノエ)と呼んでいた。

7世紀中頃、百済の東には新羅、北には高句麗があり、三つ巴の攻防を繰り広げていた。淵蓋蘇文が率いる高句麗は強大で、百済と新羅はお互いに牽制しあいながら、日本や唐と遠交近攻の外交を模索した。

新羅の王族・金春秋は最初に高句麗を目指すが、逆に幽閉され、命からがら逃げ帰った。日本には1年間も滞在するが、色好い返事が貰えない。最後には唐に行き、盟約にこぎつけようやく帰国することができた。気をよくした真徳女王は、唐の高宗が即位する時に、皇帝を賛美する詩歌を自ら刺繍で織り込んだ錦を贈っている。654年、真徳女王の後を継いで新羅王となったのが、国際派の苦労人・金春秋で、第29代武烈王である。

その武烈王を軍事面で支えたのが、金庾信将軍である。新羅には花郎(ファラン)制度があった。名門貴族の子弟の中から選ばれた容姿端麗、品行方正な花郎のもとに若者たちが集まり、互いに忠誠を誓い、信義を重んじ、血よりも濃い絆で結ばれた青年団のような組織が作られ、戦っては退くことを許さない特殊な軍事教育によって最強の精鋭部隊にもなった。花郎の中でもスーパースターを国仙という。国仙となった金庾信は若い頃から数々の武功を挙げていた。武烈王は金庾信の妹を王妃に迎え、金庾信に対して最高の礼をもって遇し、金庾信もよくその信頼に応えた。新羅はバランスのとれた二頭立ての馬車で、朝鮮半島を駆けめぐった。

一方、百済では、41年間王位にあった武王が641年に亡くなると、扶餘義慈が即位して第30代義慈王となった。だが、義慈王がどうにも情けない。若い頃はそれでも学問に精を出し、「海東の曹子」ともてはやされることもあったが、戦乱の国王が孔子の弟子に例えられるようでは心許ない。戦陣に何度か立つうちに、すっかり厭戦気分に落ち込んでしまった。とにかく戦の話は見るのも聞くのも嫌ということになり、逃げ込む先はやはり酒と女。諌言する忠臣は退けられ、周りは口当たりのいい身内で固められた。
 
そこへ660年、高句麗との戦闘を回避した唐の13万の大軍が、海を渡って百済を襲う。唐と示し合わせた新羅が金庾信将軍の旗下、西から5万の兵で侵入する。この期に及んでも戦を忌避する義慈王は、為す術もなく泗沘城に籠る。
 
百済にも忠臣はいた。階伯(ケーベク)将軍は自ら妻子を切り捨てて出陣し、五千の決死隊を率いて獅子奮迅の戦いを挑む。勢いに押された新羅軍は何度もうち破られる。形勢を挽回しようと、新羅の品目(プンモク)将軍の子、16才の官昌(カンチャン)は、百済軍に単身切り込み捕らえられる。あまりの若さに驚いた階伯将軍は官昌を送り返すが、官昌はすぐまた引き返して切り込む。再び捕らえられた官昌は首をはねられ、百済軍によって送り返される。金庾信将軍がその首を全軍に示すと、新羅軍には異様などよめきが広がる。その後、新羅軍は見違えるほどに奮戦し、百済軍最後の抵抗をうち破った。

写真は扶蘇山の三忠祠にあった階伯将軍の肖像画である。百済の滅亡に際して、死をもって義慈王に諌言した成忠と興首の忠臣に並び、階泊将軍が祭られている。どこにも義慈王の姿は見あたらない。

落城が間近に迫った扶余城では、山中至る所に火の手が上がる。最後の総攻撃を前に、両軍にらみ合ったまま不思議な静寂の時が流れる。突然、泗沘城の門が開く。中から義慈王の王子、隆が両腕を抱えられながら出てくる。その後ろには、戦いに疲れた百済の民や兵が幽鬼のような姿となって続く。

義慈王がいない。義慈王はとうの昔、闇に紛れて小舟で逃げた。追いつめられた三千人の官女たちが、崖の上から次々と白馬江に身を投げている。まるでムクゲの花が落ちるようだと遠くからながめながら、義慈王は白馬江をさかのぼり、熊津を目指した。後世、その崖は落花岩と名付けられた。

熊津城に入った義慈王は、その5日後、あっさり降伏する。その10日後には、捕虜となってひざまずかされた百済の群臣の前で、熊津城で戦勝を祝う武烈王と唐の将軍たちに、酒を注いで回る義慈王の姿が見られた。その後、義慈王は百済の捕虜と共に唐の洛陽に送られ、その年の内に死んだと噂されるが、どこでどのように死んだか、知る人もいない。

日本では、655年頃から百済の貴族や豪族にまじって、着の身着のまま逃れてくる百済人が目立つようになった。亡命してきた百済の民衆は大和や飛鳥に住むことは許されず、近江、若狭、美濃に定住していった。百済の滅亡が近づくにつれ、亡命民の数は爆発的にふくれあがった。

朝鮮半島から帰化人が大挙してやって来た7世紀の中頃には、朝鮮半島では百済の滅亡があった。その後も百済再興運動の挫折、高句麗滅亡による帰化人たちの集団渡来は、新羅による朝鮮半島統一まで続く。その話は、次回。

参考文献

1)片野次雄:戦乱三国のコリア史、高句麗・百済・新羅の英雄たち、彩流社、2007

2)井上秀雄、他:韓国の歴史散歩、山川出版社、2001