第118弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 白村江2009年02月13日 19時58分33秒

のむけはえぐすり;泗沘城のあった扶蘇山の落花岩から見た白馬江

第118弾  のむけはえぐすり

古代の帰化人 白村江

 朝鮮半島から日本へ集団で帰化してきた7世紀後半、朝鮮半島では百済が滅亡した。

 百済が滅びたのは、660年7月の夏の一月足らずの出来事だった。それだけに戦火を免れた地方には、豪族や重臣たちが残った。凱旋を急ぐ唐軍の司令官の蘇定方は、地方の小さな城砦に旧百済の豪族や重臣たちを残したまま帰国した。九月になって新羅の金庾信将軍の本隊も帰国するや否や、各地で百済の遺民が蜂起し、叛乱は瞬く間に百済故地全土に広がった。

 中では百済の王族であった鬼室福信が率いる反乱軍が、泗沘城を脅かすほどの勢力に成長した。「今一押し」とみた鬼室福信は、唐人の捕虜と大勢の百済遺民を連れて日本にやって来た。日本には30年も前から人質として義慈王の五男、豊璋がいる。これまでにも事あるごとに百済救済を大和朝廷に働きかけていた。大和朝廷は大化改新後の政情不安を理由に豊璋からの要請を断り続けていたが、ここに来て事態は急展開を迎えた。数年前から日本に来ていたおびただしい数の百済の亡命民による叛乱をほのめかしながら、豊璋と鬼室福信は大和朝廷に援軍の派遣を迫ったのである。

 660年12月、中大兄皇子は母・斉明天皇による百済への親征を決意する。

 日本の各地から農民が集められ、大した訓練も施されないまま、筑紫の娜(な)の大津に送られた。そこで、渡航のために急場しのぎのかなり手抜きな船が、数だけは300隻も用意された。

 661年1月、斉明天皇が九州に向かった。女官を引き連れ、瀬戸内海を物見遊山で行くものだから、やたら時間がかかった。道後温泉がお気に召したらしく、近くの熟田津(にぎたつ)に船を泊めて2ヶ月も滞在した。熟田津を船出する日、宮廷歌人の額田大王はこれから戦に向かう人々のために、和歌を歌う。

 「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今漕ぎ出な」
 (熟田津で船出しようと月の出るのを待っていたら、潮の流れも丁度よくなった、さあこぎ出しましょう)

 娜の津(今の博多港)に到着して間もなく、68才の斉明天皇は風土病に倒れ、筑紫の朝倉宮で崩御した。喪に伏した遠征軍の出発はなおも遅れ、とりあえず5000の兵を添えて豊璋を百済に送り出した。喪が明けた663年3月、中大兄皇子の出撃命令が下った。

 百済救援軍は二手に分けられ、1万7000人の第一陣は泗沘城と錦江の河口・白村江(はくすきのえ)の中間に位置する周留城に難なく入った。周留城には鬼室福信と、今は豊王となって即位した豊璋がいた。ところが豊王と鬼室福信との間には、深刻な対立が起きていた。猜疑心を強める豊王の疑いを晴らすため、鬼室福信は指揮権を豊王に返し、周留城を出てひとり岩窟に籠もった。そうまでしても、鬼室福信は謀反を恐れた豊王によって捕らえられ、手に穴を開けて縛られ、豊王の前で斬り殺された。

 百済復興軍の内紛を目の当たりにして困惑する日本の第一陣をよそに、新羅軍と唐水軍が熊津城に合流した。唐水軍は周留城を牽制しつつ白村江に向かい、河口を塞ぐように布陣した。写真は、泗沘城のあった扶蘇山の落花岩から見た白馬江である。大きな船が移動するのに問題ないくらい、夏でも水量が多いのに驚かされた。

 8月27日、日本水軍の第二陣800隻が白村江の沖に姿を現した。迎え撃つ唐水軍は170隻余り。数は少ないが、日本の兵船よりも格段に大きく、櫓の数も多くて速い。上から射下ろす火矢には、石油と硫黄が巻き付けてある。射抜かれた船は炎上を免れない。前哨戦の小競り合いでは、唐水軍に損害らしい損害も与えられないまま、日本水軍が完敗する。

 翌日、日本水軍の総攻撃が始まる。前日の戦闘で日本の兵船の構造がもろいことを知った唐水軍は、船の舳先を補強して待ち受ける。日本水軍が迫ると、河口を塞いでいた唐水軍が、突如、左右に水路をあける。その間隙に吸い込まれるように、日本の中小の兵船が入っていく。いきなり左右から舳先をそろえて、唐の大型船が突っ込んでくる。激突された日本の兵船は粉砕され、兵士たちが投げ出される。日本の水軍は逃げては追いつかれ、火矢を射かけられて燃え上がり、瞬く間に壊滅した。

 この知らせを聞いて、周留城の豊王はわずかな共を引き連れ、高句麗へと逃げた。残された百済遺民軍と日本軍は各地で惨敗し、北部に逃れた兵は投降し、あるいは離散した。南部に逃れた兵は南海島に集結し、亡命を希望する百済の王族、貴族、官僚たちの家族を数千人引き連れて帰国した。

 白村江の敗戦の後も、百済からの亡命民が海を渡って来た。大和朝廷は百済からの亡命民に食を与え、大和の近辺に住まわせた。だが、あまりの数の多さに、2年後の665年には百済の男女400人を近江国の神崎郡へ、666年には2000余人を東国へ、669年には700余人を近江国蒲生郡へ移住させた。

 白村江以降、1万を越える百済からの帰化人がいたと考えられるが、この時の帰化人は百済の高官とその家族たちが主で、百済の官位16階のうちベスト1,2の佐平や達卒が70人もいたとされる。大臣クラスがそんなにいるはずはないのに、自称も含めた百済の大臣たちには大和朝廷から従四位か、従五位以下の官位が百済での地位と特技に応じて与えられた。実務経験者の百済官僚にはさらに下位の官位が与えられ、医薬、法律、兵法などのさまざまな分野で重用された。

 参考文献
1)片野次雄:戦乱三国のコリア史 高句麗・百済・新羅の英雄たち、前出
2)藤井游惟:白村江敗戦と上代特殊仮名遣い 「日本」を生んだ白村江敗戦 その言語学的証拠、東京図書出版会、2007