第181弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 猿田彦の白髭神社 ― 2012年02月18日 02時36分59秒
第181弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 猿田彦の白髭神社
猿田彦を主祭神として祀る神社は、白髭神社、伊勢の猿田彦神社、鈴鹿の椿大神社と都波岐神社と奈加等神社、宮崎高千穂の荒立神社が主なところだ。
白髭神社で猿田彦の形跡を探ろうにも、境内の奥の摂社に天岩戸神社があるくらいで何もない。 そもそも何故、白髭神社の祭神が猿田彦命になっているのか、謎である。今回はその謎について調べてみた。
上の写真が宮崎県高千穂町に伝わる民俗芸能の夜神楽(よかぐら)で演じられる猿田彦の姿である。顔は赤く、大きな鼻が特徴である。それは日本書紀の一書に、「鼻の長さが七咫(あた:約1m)、背の高さは七尺(約2m)余り、・・・口尻(くちわき)明かり耀(て)れり、眼は八咫鏡(やたかのかかみ)のごとくして、てりかがやけること赤酢醤(あかかがち:ホオズキのこと)に似れり」と記されていたことから作り出された姿のようだ。
何をしているところかというと、邇邇芸(ににぎ)命が天降るときに、一行を「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)」まで道案内をするために天の八衢(やちまた:分かれ道)で待っているところだ。間もなく天細女(あめのうずめ)が邇邇芸命の使いとしてやって来て、何者かと尋ねる場面が演じられる。
古事記によれば、猿田彦の案内で邇邇芸命一行は無事に高千穂に着いた。一行を送り届けた猿田彦は天細女に送られて「伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴川の川上」に戻った。その功により、天細女は猿田彦の名を継いで猿女君(さるめのきみ)を名のるようになった。
その後、猿田彦は伊勢の松坂の海で漁をしている時に、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれておぼれ死んだという。最後がチョットしまらないが、猿田彦命は天孫降臨の天つ神を初めて迎えた国つ神であり、今は交通安全、方位除けの神として祀られている。全国各地のお祭りで御輿の行列の先頭にいて、烏帽子を被り、大きな鼻の面をつけ、高下駄を履き、派手な錦の衣装を着て、杖をもった人を見ることがある。実は嚮導(きょうどう、道案内)の神として信仰される猿田彦である。
下の写真は、五十鈴川の中流、伊勢神郡内宮近くにある猿田彦神社である。これと向かい合うように佐瑠女神社(さるめじんじゃ)がある。以前訪れた時には、この猿田彦神社を猿田彦信仰の総本社なのかと思っていたが、創建は明治だという。ただ、宮司はもと伊勢神宮の重職であった宇治土公(うじとこ)氏で、猿田彦の末裔の太田命の子孫だ。他に、「伊勢 一宮猿田彦大本営」を自称する都波岐神社が鈴鹿市一宮町にある。どちらが真の総本社とも決め難いようだ。
猿田彦信仰の起源は古く、猿田彦には異名が多いことでも知られている。実際に、寛永年間に作られた白髭神社縁起の上巻「詞書第三段」にも、猿田彦が語った話として、「私は国底立神、気神、鬼神、大田神、興玉神と呼ばれたりもしている」と、由来と共に記されている。
猿田彦の研究者である飯田道夫氏によれば、稲荷神社の稲荷は通称で、稲荷神社に祀られているのはウカノミタマと猿田彦が多いとか、白髭神社の白髭の神が猿田彦だとか、全国津々浦々に展開する道祖神や庚申さんも実は猿田彦だという。また、伊勢神宮では興玉神、日吉山王者では早尾神、熱田神宮では源大夫として猿田彦が祀られ、他に春日大社、住吉大社、多賀大社のような名だたる神社で、猿田彦はそれぞれ独自の名前で祀られているという。つまり、猿田彦は民間信仰の神として広く親しまれているばかりではなく、古代の有力な氏族の氏神となっている大社にも祀られている不思議な神である。
飯田氏は、猿田彦信仰が全国に伝播していった背景には和迩氏の存在があったと考えている。和迩氏は和邇、和珥、丸邇、丸などとも書かれる。同族が多く、主なところでは発祥の地とされる大和の石上神社辺り布留氏、春日氏などは勿論、近江の湖西の小野氏が和迩同族である。他に、伊勢の水銀に関わった飯高氏が同族で、和迩氏は鉄や水銀の生産に関係した氏族でもあった。飯田氏は同じように湖東で水銀生産に関わった息長氏も和迩氏と考え、鉱山事業で各地を移動した和迩氏が伊勢の土地の神であった猿田彦を広めたと考えている。
湖西に和迩の地名のあるところは、白髭神社から湖岸沿いに比良山麓を18Kmほど南下した和邇町だが、和邇川を挟んで小野町がある。かつてその辺りが、猿田彦の名を継いだ猿女君の養田であった。平安時代の猿女は7、8才の少女で、巫女として大嘗会(だいじょうえ)や鎮魂祭に奉仕し、中務省の縫殿寮に所属していた。平安時代初期には、小野氏や和邇部氏が猿女として自らの子女を貢進することがあったようだ。
逆に白髭神社の北に広がる古代の高島平野には、安曇(あど)川の北に三尾君がいて、南に角臣が支配していた。朝鮮半島との関係が深い三尾氏の氏神である三尾神社は猿田彦を祭神としていたという記録(飯田、45p)があり、古くから高島平野には猿田彦信仰が根付いていたようだ。
白髭神社には猿田彦以外にもうひとつ、伊勢との関係を示しているところがある。創建したとされる倭姫命である。倭姫命は垂仁と皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)との間に生まれた三男二女のうちの次女である。垂仁25年3月に、垂仁の命を受け、天照大神が鎮座する場所を探して、宇陀から近江、美濃を巡って伊勢にたどり着き、五十鈴川のほとりに斎宮を立てた。伊勢の斎宮の始まりとなった方である。
白髭神社で猿田彦を祀った氏族は、伊勢とのつながりの深い氏族であったことは確かなようだ。伊勢神道の根本経典の一つ、鎌倉時代に執筆された「倭姫命世記」に、倭姫に伊勢神宮の適地として「宇遅(うじ)の五十鈴川の河上」を勧めたのは猿田彦の末裔、大田命と記されているから、倭姫命と猿田彦との組み合わせは可能だと思った。
参考文献
1)飯田道夫:サルタヒコ考 サルタヒコ信仰の展開、臨川選書、1998
2)三浦佑之訳:口語訳 古事記、文藝春秋、2002
3)倭姫命世記:http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm、平成14年9月10日
4)「歴史読本」編集部編:古代豪族の謎、新人物文庫、2010
最近のコメント