荒川沖駅前にある「PUB JANIS」と言う名の「ジャニス・ジョプリン好きな親父がやってると思われる」一杯飲み屋2012年12月02日 03時39分42秒


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●珍百景候補 荒川沖駅前にある「PUB JANIS」と言う名の「ジャニス・ジョプリン好きな親父がやってると思われる」一杯飲み屋

「博多ラーメン 翔龍」に行くのに駅前のドンキに行ったら何やら変な掘っ立て小屋(^_^) が・・・しかも壁にはかのジャニス・ジョプリンのアルバムの写真が・・・なんじゃ、これ?

見ただけで「マスターなる親父・・・年代は僕と同じくらいで昔は髪も肩まであってヒッピー風な風貌だったが・・・今では額も大分後退しお腹も出てきた親父」が好きなジャニスの曲をガンガン流しながらお酒を出して

「やっぱ、ジャニスだっぺ」とか言ってる風景が想像できます (^_^) 

今ビールを飲んで MOVE OVER を聞きながら書いてます。。。


筑波実験植物園2012年12月14日 02時14分13秒


先日筑波実験植物園に行った時の画像

夕方で少し暗くなりかけていたのですがTG-1の撮影会を兼ねて・・・
絞りを少し開けて撮影するともともと色乗りがいいので見た目よりも綺麗に写ることが判明しました。

ランダムに;



ポインセチアの木がこんなだとは知らなかった













オーストラリアでよく見る木




こんな美人研究員もいました・・・盗撮です(^_^) 




第192弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 御上神社2012年12月19日 20時47分02秒









第192弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 御上神社

 琵琶湖線の野洲駅からタクシーで10分、御上神社の鳥居に着いた。そこから見た三上山は、円錐の形はしていない。遠くから見ると、手前の低い山が三上山に隠れ、きれいな三角形の近江富士に見えていたようだ。
 
由緒書きに記されている祭神は、天之御影神(おめのみかげのかみ)である。社伝によれば、孝霊の6年、これが紀元前285年と注釈されているので、今から2200年以上も前のことになってしまうのだが、三上山の山頂に天御影神が天降り、御上祝(みかみのいわい)が祀ったとされる。

三上山を望む里の遙拝所であった現在地には、養老2年、藤原不比等が社殿を創建した。その頃の三上山の一帯は、榧(カヤ)と呼ばれるイチイ科の常緑針葉樹の森であり、社殿にはその榧の木が使われた。

写真の本殿は鎌倉時代に建立されたが、どこか普通の神社建築と違っている。ほとんどの神社建築は、切妻造りで、両端に張り出す屋根がない。切り妻の語源をいえば、配偶者は家の端っこの「つまや」に住んでいたから妻といい、刺身の「つま」と同じだという。この本殿の両端には屋根があって、入母屋造りという仏閣や殿舎に多い様式である。漆喰の白壁や連子窓もまるで寺のようで、千木はというと無理矢理乗っけたような格好になっている。戦国時代まで、この辺りに東光寺という大きな寺があって、その神仏習合の影響でこのような形になったといわれている。

 天御影神は天照大神の孫であって、鍛冶や刀工の神とされている。天御影神の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)は日子坐王(ひこいますおう)の3人目の妻であり、二人の間の子が水乃穂真若王(みずのほのわかのみこ)で、近淡?の安直(やすのあたい)の祖先とされている。この近淡?安直が古代に三上山の麓、現代の野洲郡一帯を支配していた安国造であり、三上山を聖地として祭祀していた氏族である。古事記には御上祝(みかみのほうり)が息長水依比売を祀っていたと記されているが、御上祝の娘であったとする説もある(日本の神様事典、54P)。

日子坐王は開化(9)の皇子で、崇神(10)が地方を帰順させるために派遣した四道将軍の一人で、丹波方面が担当であった。日子坐王の母は意祁都比売命(おけつひめのみこと)で、その兄の日子国意祁都命(ひこくにおけつほみこと)と共に丸邇(わに)氏の祖先である。

御上神社周辺には、総数30基の横穴式石室を主体とする小規模な円墳からなる御上神社古墳群がある。さらに、写真の三上山から左の方へ、2~3Kmの間が妙光寺山、大岩山と続く丘陵地帯になっていて、麓には後期古墳の群集墳が多い。野洲川右岸の大岩山周辺には、弥生時代終末から古墳後期までの大岩山古墳群がある。安直の歴代の墳墓と考えられており、明治14年から全部で24個の銅鐸が相次いで発見され、今は銅鐸博物館に収められている(のむけはえぐすり、第151弾)。

大岩山の近くにある桜生(さくらばさま)史跡公園には、6世紀初頭に築造された丸山古墳や6世紀中葉の高山古墳の横穴式古墳がある。二つの古墳には家形石棺が安置され、馬甲や銀装鉄矛など朝鮮半島に由来を持つ副葬品が出土している。6世紀初頭は継体が即位する前であって、この頃に安直が近淡?安国造になり、近江を代表する豪族に成長した時期であった。

古代の近江の豪族は、三つに分けられる。

ひとつは坂田郡の坂田君を中心として息長、伊香(いかご)、犬上といった氏族のいた湖北地方の勢力。次は、今回の近淡?之安国造(ちかおうみのやすのくにのみやつこ)が代表する湖東地方の勢力。最後が、安直とは別の近淡?国造が本拠としていたと考えられる湖西地方の勢力である。因みに、このもう一つの方の近淡?国造が、日吉大社の東本宮の大山咋神を祀った氏族だという説がある(大津市史Ⅰ、114p)。

三つの勢力は継体の即位を機に、大きく運命が分かれた。息長氏は継体に妃を出し、外戚として継体の即位に尽力した。天武の八姓制定にあたっては皇親に与えられる姓(かばね)の真人を賜っている。朝廷の中枢に入ることはなかったが、地方勢力として威勢を保った。

近淡?国造のうち大友郷にいた方の近江臣には、527年に継体の即位後、朝鮮問題の処理を任され、朝鮮半島の安羅に派遣された近江臣毛野がいる。近江臣毛野は外交使節として2年間活躍するが、たいした成果も上げられないまま、帰途、対馬にて急死した。589年には東山道の蝦夷の国境を視察したという近江臣満(みつ)の記録がある。先の近江臣"毛野"の名前からしても、北関東地方との関係がうかがわれる。古くから北関東や朝鮮半島などとの交易で活躍していたので、朝鮮半島との外交にも登用されたのだろう。だが、壬申の乱以降はまったく名前がみえなくなり、三尾氏と同じく大友側について没落したようだ。

近淡?国造のうち野洲にいた方の安直は、継体以降、活躍を伝える記載は全くなくなる。それどころか、屯倉の設置が盛んになった安閑の時代に、野洲の葦浦に屯倉が設定されたとある。葦浦屯倉は今の守山市三宅の辺りで、当時も豊かな穀倉地帯であっただけではなく、湖上交通の要地でもあった。安直の重要な経済的基盤が削減されたのは、安直が継体の即位に対して協力的でなかったというのが理由のようだ。

参考文献
1)谷川健一編:日本の神々5 山城 近江、白水社、2009
2)大橋信弥、小笠原好彦編:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、2005
3)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
4)平凡社地方資料センター編:日本歴史地名体系第25巻 滋賀県の地名、平凡社、東京、1997