第188弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂 ― 2012年10月13日 06時49分34秒
第188弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂
錦織遺跡からタクシーで新羅善神堂へと向かう。大津市役所の裏の森に続く道を入ると、左に弘文天皇陵、右に新羅善神堂がある。あいにく新羅善神堂は修理中でシートに覆われていた。
新羅善神堂は第5世天台座主の円珍(在位868-)が創立したと伝えられている。
天台座主とは天台宗の総本山、比叡山延暦寺の住職であり、一宗の首長として教学を統括し、教団経営にあたる僧職をいう(大津市史Ⅰ334p)。宗祖の最澄を座主とはいわない。座主と呼ぶのは最澄の後を継いだ初世義真(824-)からで、それも太政官から任命されるようになったのは、第2世円澄(833-)の後、第3世円仁(854-)からである。
当時、国費による得度者を年分度者という。いわば官費の奨学僧だが、毎年何人と決められていた。最澄は帰国後、その割り当てを南都六宗の10名に対して、2名獲得した。だが、その得度や受戒は従来通り東大寺戒壇で行うことが義務づけられ、国家仏教の支配から抜け出すことはできなかった。さらに、年分度者の2名の内、1名は天台宗、もう1名は密教の専門と定められた。最澄は密教の灌頂(種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を授ける資格がない。それができるのは、最澄と同じ遣唐使船に乗っていた空海で、空海は長安の青龍寺で恵果に師事し、密教の阿闍梨位の灌頂を得て帰国した。そのため、最澄は密教では7才年下の空海に弟子として教えを請い、自らの弟子の灌頂を空海にお願いする立場にあった。だが、二人は徐々に対立を深め、決別した。
最澄の没後、7日目にして比叡山に大乗戒壇建立の勅許が下った(822年)。翌年、比叡山の寺は延暦寺と改められ、延暦寺において得度、受戒が可能になり、ようやく国家仏教の支配から脱することができた。だが、当時は空海の真言密教による加持祈祷が貴族社会に流行しており、天台宗の僧は「比叡無食の僧」と言われるほど困窮を極めていた。
天台宗における密教の不備を補ったのが、円仁である。円仁は835年に唐に渡った。長安に留まり、空海が受法した金剛界、胎蔵界はもちろん、空海も受法しえなかった蘇悉地(そしつじ)の大法を学び、天台密教の弱点であった悉曇(しったん)も習得し、約10年後に帰国した。それ以後、天台密教の真言密教に対する劣等感はなくなり、天皇や貴族にも灌頂ができるようになった。円仁は円澄の後を次いで、第3世天台座主となった。
833年、初世義真が亡くなり第2世を円澄が継いだ時、義真系の弟子は比叡山を追われ、大和の室生寺に移った。勢力挽回を願った室生寺の義真の弟子たちは、満を持して、円珍を唐に送り出した。
853年、円珍は唐の商船に乗って出発した。唐に6年間滞在し、円仁以上の密教、天台を極め、数多くの典籍と共に帰国した。円珍は比叡山東塔西谷山王院の住房唐院を建て、それらの書物を収蔵し、自らもそこに住んだ。その後、円珍は園城寺の別当に迎えられた。園城寺は大友与太王が壬申の乱で敗れて亡くなった父・大友皇子(後の弘文天皇)の菩提を弔うために寺地を寄進して建立された寺で、琵琶湖湖岸の広大な土地を有していた。866年、滋賀郡少領大友村主夜須良麿の請願により、園城寺は円珍を主持として天台別院となった、
円珍は摂政藤原良房の知遇を得て、清和天皇や良房など30人を超える貴族の入壇受法を行った。この頃から比叡山の僧は巨大な荘園領主となり、生活は華美になった。868年、円珍は第5世天台座主となった。円珍の在職23年の間、延暦寺では円珍派が勢力を伸ばし、円仁派門徒と競い合った。993年、ついに両派の門徒は武力衝突し、円珍派門徒は比叡山を下り園城寺に移った。以後、天台宗の宗徒は比叡山に残った円仁派の山門派と、園城寺に移った円珍派の寺門派に別れ、長く争うことになった。
これまで、ながながと天台宗徒が山門派と寺門派に分かれ紛争にいたった経緯を述べてきた。そこを踏まえて、これからが新羅善神堂の本題である。
1062年に藤原実範が書いた「園城寺竜華会縁起」という本がある。その中に、円珍が唐から帰国する船のなかで、新羅明神と名乗る老翁が現れ、弥勒菩薩の世が来るまで円珍のために仏法を守ると約束したと記されている。帰国した円珍は、新羅明神の導きで、園城寺を復興し新羅善神堂を設立したという。
新羅善神堂に祀られている新羅明神像は、今は秘仏である。平安後期に作られた新羅明神像は、不思議な容貌をしている。唐服、三角形のあごひげ、むくんだ顔、何よりも印象的なのは垂れ目である。山門寺門両派の抗争が激しい中で作られ、あきれている顔だという人もいるが、私が見るには、「えー!! なんでぇー!?」といって中年のおじさんの困った時の顔だ(URL参照)。
方や、延暦寺は中国山東省にあった赤山法華院を守護神にして、人を集めていた。園城寺にもそうした外来神が必要となり、新羅善神堂が作られた。新羅善堂の前身は、大友氏の氏神だったのだろう。そのため、百済系の大友氏の氏神を新羅善神堂と名乗るのは、不思議だと考える人もいる。
大友村主氏は後漢献帝の苗裔(すえ)と、続日本紀に記されている。百済系というのは後世の考証であって、当時は後漢の最後の皇帝の子孫を自称していた。今更、百済系を名乗るわけにもいかない。かといって、後漢を滅ぼした唐の神様を祀るわけにもいかない。9世紀の半ば、百済の故地は統一新羅の支配下にあった。地方勢力の反乱が相次ぎ、衰えたとはいえ、新羅である。百済が滅亡して200年、今更百済にこだわることはない。いっそのこと、「新羅でいいヤ」となって、新羅善神堂になったと私は考えている。
参考文献
1)新羅明神像:NHK日曜美術館、2012年10月確認、
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/1123/index.html
2)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
3)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991
最近のコメント