●キャプテン・フィリップス ★4.72013年12月01日 22時04分56秒



●キャプテン・フィリップス ★4.7

いやあ~感服しました!

間違いなくアカデミー賞候補でしょう

トム・ハンクスの作品の中でもベスト3に入りますね

カメラワークも素晴らしい!

黒をベースにした階調表現と実写だけでこれだけの作品が作れるのは監督やりますなぁ。。。。

●安渓鉄観音新茶2013年12月11日 03時28分17秒






中国の方からまた今年も烏龍茶の最高級品である安渓鉄観音の新茶をいただきました(^_^) 

緑茶のようなきれいな緑色でしかも香りがすごい!

中国茶の奥の深さを感じます・・・眼から鱗です

これを飲んでゆったりした気分で残り少ない年末を過ごしましょう(^_^)


ゼロ・グラビティ ★4.52013年12月13日 22時32分56秒


●ゼロ・グラビティ ★4.5


本日公開の「ゼロ・グラビティ」を見てきました。基本的に「ヒューストンもの」は大好きなんですが、特にこれはいいですね。冒頭のシーンなんか最高。

トム・ハンクスとサンドラ・ブロックは本当にこの「一人芝居」みたいなのをきちっと演じられますね。

日本のタイトルは「ゼロ・グラビティ」なんですが、原題は「グラビティ」だけでした。これじゃ日本人にうけないので”ゼロ”をつけたあたりに苦労がうかがわれます(^_^)

KFアテインのワックス2013年12月16日 03時42分52秒





この週末はバンバン雪が積もってますね。来週が楽しみです(^_^) 

東北復興支援ということでミュージック・セキュリティでKFアテインという塗料会社のファンドに投資しまして、その特典でスキーワックスを頂きました。(このワックスを作ってるから投資したともいう)来週性能チェックに行ってきます(^_^) いつもの液体フッ素のワックスとどちらがいいか?楽しみです。


GoPro HERO3+がやっとメットに2013年12月16日 22時08分49秒






●GoPro HERO 3+

やっとヘルメットにつけるためのベルトが入荷しました。

これで安心して滑りながら撮影できます。

右のリモコンで録画とかの切り替えができるんですが、iPhoneをリモコンにして映ってる画像をモニターしながらもできる

ほとんど「大人のおもちゃ」状態です(^_^) 

ただ老眼の人にはカメラやリモコンの超小さい文字は読めないだろうな。。。

ヘルメットについてるCMHヘリスキーのラベルが格好いいと思うんですが・・・分かる人はきっといないだろうなぁ(^_^) 
でもいいんです・・・自己満足で!

第199弾 のむけはえぐすり 金印公園 「漢委奴国王」2013年12月18日 01時28分28秒








第199弾 のむけはえぐすり
金印公園 「漢委奴国王」

「漢倭奴国王」の金印が出土したという金印公園に行ってみた。

博多からの鹿児島線を香椎で香椎線に乗り換え、博多湾の能古島を右から抱え込むように延びた「海の中道」を、終点の西戸崎まで行く。タクシーに乗って海の上の志賀島橋を渡り、内海に沿って海岸線を行く。低い山が急峻な角度で海に迫るあたりに金印公園がある。

公園に登る階段の手前に、1922年に旧福岡藩第18代当主、黒田長成氏が「漢委奴国王金印發光之處」と揮毫した大きな石碑がある。そこから急な階段を10mほど上ると、山の中腹に写真のような平地があって、金印の碑が博多湾の能古島を望むように立っている。

意外だった。この金印は建武中元2年(57年)に後漢の光武帝から下賜された印綬であり、金印発見時の経緯は、近くの百姓が田んぼの畦を直そうとして偶然に発見したと聞いていたからだ。この金印公園に来てみて、とにかく田んぼがあるような場所ではないのは、一目瞭然だった。

誤解の元は、金印が掘り出された天明4年(1784)の発見者、百姓甚兵衛が発掘の経緯を伝えるために一緒に差し出した口上書にあった。今は所在の分からなくなっているその口上書は、郡役所に提出された後、長く黒田家の倉に収められ、再び公開されたのは大正4年(1915)だという。

口上書に記されていたことは、ざっと次のようだった。

甚兵衛が所有する叶の崎(かなのさき)の田の境の溝を直そうとして、岸を切り落としていると、たくさんの小石がでてきた。小石を取り除くと、その下に二人で持ち上げなければならないほどの大きさの石があった。その石を鉄梃子(かなてこ)で持ち上げてみると、石の間に光るものがあった。それを水ですすいでみると、この金印でした。それに加えて、金印をしばらく手元に置いてしまい、市中に噂が広まるまで差し出さなかったことは、大変申し訳なく思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げますと、庄屋と村役の署名とともに記されている。

そもそも叶の崎を現在の金印公園としたのは、発見当時金印に関する論文「金印弁」を発表した亀井南冥という福岡の儒学者である。その後、この周辺の発掘調査が何度も行われ、海底まで調査されたが、弥生後期の遺物どころか、何も発見されなかった。

私も金印が志賀島のような辺鄙な場所から出土したのか不思議に思ってはいたが、私なりに勝手な想像はしていた。志賀島は古代の海の民、安曇氏の本拠であり、志賀島の北端の勝間には、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、仲津綿津見神、底津綿津見神の三柱を祭神とした沖津宮と仲津宮がある。金印は巡り巡って、安曇氏が所持していたのではないか。それが刀伊の入寇や元寇や海賊が来た時に、急いで隠したままになったとか、いろいろ考えた。

口上書に記された金印の発見された場所や状況の不自然さから、金印が贋作であるといった疑惑は古くからささやかれていた。

江戸時代を代表する篆刻家、高芙蓉の印譜の中に同じものがあるとした昭和29年の贋作説は、その根拠となった印譜が別人のものと昭和60年に確認され消滅した。その後も金印が本物とする証拠が提唱されると、その証拠に異議を唱えただけなのに、金印が贋作であることを証明したような雰囲気にある。

下の写真は実物大の金印のレプリカである。印を持つところが蛇の形をしている。金印があまり類を見ない蛇をモチーフした蛇紐であることによる贋作疑惑は以前からあったが、昭和31年に中国雲南省で発見された?王之印(てんおうのいん)が蛇紐であったことから、疑惑は解消したかのようにみえた。だが、「?王之印」の方は蛇のモチーフがより写実的であって、漢委奴国王の印はずんぐりしている。同じとして良いかという疑問が提示された。さらに、昭和45年には、中国の揚州の郊外で発見された亀紐の金印に彫られた廣陵王璽(こうりょうおうじ)の字体が同じで、洛陽の同一工房による製作説が発表されたが、これに対しても、細かくみると彫刻技法に違いがあり、同一工房だったとしても、一世代以上の差があるとする異論があった。

鈴木勉氏はさらに踏み込んで、彫金家による刻印の鑑定から、漢委奴国王の金印は下書きの文字の形を忠実に再現しようとした「浚(さら)い彫り」といった技法で彫られているとした。一方、廣陵王璽は溝たがねによる「線彫り」の技法で彫られており、下書き通りに刻印することは難しく、彫り手の技量が優先する彫り方だという。二つの印は文字の仕上げの工程が全く異なっているのだから、同じ工房で作られたとは言えないとしている。

今の時代、金属分析のような手法で証明できないのかといったもどかしさもある。平成元年に行われた蛍光X線分析によると、「漢委奴国王」の金印の組成は金95.1%、銀4.5%、銅0.5%のおよそ23Kとの分析結果であったが、中国の金印にはこうした分析結果がないので、比較できないのが現状である。

また、金印の印面の一辺の長さは平均2.374cmであり、漢代の1寸と一致する。これも贋作を主張する側からすれば、後世でも漢代の1寸の知識はあり、当然その寸法に従うはずだから、真印の根拠にはならないとする見解である。偽物だとすれば、誰が何のためにということでは、亀井南冥が自らの漢学塾の宣伝のための自作自演という南冥主犯説がある。

私が福岡市立博物館でみた金印は、四方からの光に囲まれて無邪気に純金のきれいな光を放っていた。それすらも、出土時の状況から考えると、傷がなくきれいすぎるのはおかしいという人もいる。

参考文献
1)鈴木勉:「漢委奴国王」金印・誕生時空論 -金石文学入門Ⅰ 金属印章編-、雄山閣、東京、2010
2)三浦佑之:金印偽造事件 「漢委奴国王」のまぼろし、幻冬舎新書15、東京、2006
3)明石散人:七つの金印、講談社文庫、東京、2004




●今年の自分を漢字で表すと・・・「幸」2013年12月28日 03時39分21秒




●今年の自分を漢字で表すと・・・「幸」

「ラッキーと幸せ」

でした。。。

榮さん流に「今年の重大ニュース」

1. CMHヘリスキーに・・・40年越しの念願が叶いました
2. 小田さんのコンサートに二回も行けました・・・しかも福島まで
3. フィーリングテニスの合宿に参加・・・「眼から鱗」の展開で以後のテニスが変わりました
4. 映画少年に戻りました・・・しかも今年は秀作目白押し
5. 親友を偲んで一切教山登山

そして今年の曲は・・・小田さんの「言葉に出来ない」
めざましライブでのキーボードを引きながらの歌声に鳥肌がたちました!!!!!

皆さん、良いお年を!!!!


第200弾 のむけはえぐすり 始度一海千餘里至對馬國2013年12月29日 18時31分03秒












第200弾 のむけはえぐすり
始度一海千餘里至對馬國

表題は、「始めて一海を度(わた)る、千余里にして対馬国に至る」と読み下す。

 魏志東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝のはじめの頃の一節である。中国の使節が帯方郡から倭(日本)に行くには、海岸沿いに船で南に行ったり東に行ったりしながら韓国を経由して七千余里で倭の北岸の狗邪韓国に着くとした一文の後に続く。
 
 古代の小さな船で、危険を冒し日本海を渡る。勇壮とも、悲壮とも、胸が躍る一節である。実際にどんな船でどのように航海したのか、興味があった。

その疑問を解きに、まず大阪市歴史博物館にある弥生後期の船の埴輪を見学に行った。それが上の写真で、4世紀末の船形埴輪である。全長128.5cm、幅26.5cm、高さ36cmで、船首と船尾を高く立ち上げ、鰐口のような独特な形をしている。

この埴輪は、昭和62年(1987)の地下鉄谷町線の延長工事で長原駅の周辺から発見された。長原駅の周辺には、5世紀前半の小型の方墳を中心とした200基以上の古墳群があり、その中の高回り2号墳から出土した。

大和川の北岸の平野区長原は、古代には伎人郷(くれのごう)と呼ばれ、呉人が住み、地名にも転化した喜連(きれ)の東に隣接している。また、物部氏の本拠である八尾の渋川神社の南に位置し、ちょうど上町台地が河内湖に突出する砂州の基部にあたる。長原駅の近くからは韓式土器や初期須恵器も出土し、古代には朝鮮半島南部からの帰化人が住んでいた形跡がある。長原古墳群を築いた人々は、大和川を挟んで大王陵のある古市古墳群の被葬者とその政権を支えていたと考えられている。

展示されていた船形埴輪は、下部の丸太の「くり抜き船」の上に、舷側板を積み上げた準構造船である。舷側にはオールの柄を受けるための4対の櫂架があり、8人の漕ぎ手が船首に背を向けて漕いだようだ。

このような古代船を復元して、日本海を横断して韓国まで行こうとした実験航海が今までに2度試みられている。昭和50年の第1回目は角川春樹氏が組織し、西都原古墳から出土した船形埴輪を模して作られた「野性号」である。韓国では10人の韓国人船頭が八丁櫓を使って仁川から釜山まで漕いだ。時速は順調にいった時でも2ノット、約4Kmである。途中、海流に翻弄され母船に曳航されることもあったが、6月20日に仁川を出発し、7月7日に釜山に到着した。

7月20日、釜山港を出港。釜山からは下関水産大学の20人のカッター部員と教官1人を3組に分け、交代で左右7人ずつ14本のオールで漕いだ。7月21日は、対馬を目前にしながら、洛東江から奔出する褐色の水と潮流とが合流する潮目を越えられない。やむなく曳航されて対馬沖に投錨した。7月22日、この事態になっても報道公器論を振りかざして定員オーバーの船から下りようとしない報道陣に辟易しながら、再び対馬の鰐浦の沖合に停泊せざるを得なかった。7月23日、ようやく対馬の鰐浦の地を踏んだ。

厳原での2日間の休養の後、7月28日、再び壱岐に向かって出航し、丸1日掛けて、7月29日、壱岐勝本港に到着した。対馬から壱岐の間も、魏志倭人伝には「南一海を度(わた)る千余里、・・・一支国に至る」とある。釜山から対馬も千余里、対馬から壱岐も千余里と記されている。この千余里は実際の距離ではなく、魏の使節の心に映じた距離感であると、角川氏は考えた。

8月1日午前8時、壱岐の印通寺港を出港すると、まもなく九州本土がみえた。午後3時25分、帆を張りながら櫓を漕ぎ、カカラ島に到着。その後、呼子、唐津、志賀島と回航し、8月5日には博多港に到着した。平均速力は、1.67ノットと計算された。

平成元年の第2回目の試みは、高回り2号墳出土の船形埴輪を模した「なみはや号」である。大阪市文化財協会の永島暉臣慎氏によると、「なみはや号」は専門家から「船にならない」と酷評されながらも、全長12mの姿にどうにか復元された。案の定、安定が悪く、危なくてとても乗れない代物だった。何百キロという重りを底に入れて安定を保ち、左右4人ずつ合計8人で、大学のボート部の学生が立って櫂で漕いだ。速力は平均2ノットであったが、ほとんど進まないこともあった。やむを得ず、夜間は他の船に曳航してもらった。韓国に着いた時のイベントでは、直前に衣装を着替え、ずっと漕いできたように振る舞ったという。

 今、「なみはや号」は廃館になった「なにわの海の時空館」に展示されているが、もうひとつ、狗邪韓国を受け継いだ金官伽耶国の遺跡を集めた韓国金海市の大成洞古墳博物館にも、古代の船が復元され展示されている。それが下の写真で、高回り2号墳出土の船形埴輪を参考にして作られ、倭の商人が金官伽耶国産出の鉄を船に積み込んでいるところだという。

2回の実験航海の成果を参考にして、遠澤氏は、古代に釜山沖の影島から毎時3ノットで釜山からみえる対馬の御岳(490m)を目指すと、1.5ノットの海流を受けた時は12時間で、2ノットの海流を受けた時は14時間で対馬北端の鰐浦に到着すると試算している。狗邪韓国から対馬までの距離は昼間一杯で航海できる距離であり、それが魏志倭人伝のいう千余里だと、遠澤氏は考えている。

 下の海原の写真は、博多港と釜山港を結ぶJR国際汽船のBeetle号から見た対馬である。表題の魏志倭人伝の一節の後に、対馬は「土地は山険(けわ)しく、深林多し、道路は禽鹿の径の如し」と続く。それが今、3時間で釜山を目指すBeetle号からは、対馬の島影は水平線の上に隠れるように薄く、海の色と空の色の間に消えそうに淡く見えた。

 参考文献
1)角川春樹:わが心のヤマタイ国、角川文庫、東京、1978
2)大友幸男:海の倭人伝 海事史で解く邪馬台国、三一書房、東京、1998
3)遠澤葆:魏志倭人伝の航海術と邪馬台国、成山堂書店、2003

夏油高原のパウダー2013年12月31日 19時57分55秒

GoProの画像がやっと編集出来ました2013年12月31日 20時00分24秒


GoProで撮った映像をやっと編集できました。しかし充電用コードを忘れてきたので、これが「一発勝負」

皆様、良いお年を!