のむけはえぐすり 第41弾 原善三郎の話 その21 旧正金銀行(4) 白壁の廊下2006年12月26日 04時02分04秒


のむけはえぐすり 第41弾
原善三郎の話 その21 旧正金銀行(4) 白壁の廊下 

 明治14年、娘もようやく、自らのインフレ政策の失敗に気づいた。損ばかりしていた殖産事業を民間に譲渡し、緊縮財政へと舵を切り替えた。その責任をとって、大隈重信さんは大蔵卿を辞めた。

 No2だった松方正義さんが大蔵卿になると、さらに徹底した不換紙幣の整理が始まった。財政を引き締め、増税をして、どうにか財政を黒字化することに成功した。5年間で1364万円もの紙幣を、文字通り焼き捨てた。

 反面、松方さんの超デフレ政策によって、世の中は不況になり、金融機関の倒産が相次いだ。生糸と茶の輸出前貸と為替を扱っていた正金銀行も、その煽りをもろに食った。

 正金銀行の存続が危ぶまれたにもかかわらず、初代頭取の中村道太さんと二代目頭取の小野光景さんの動きは鈍かった。仲間の横浜商人の窮状に、目が奪われ過ぎたのかもしれない。

 そこで明治16年、エール大学で経済を学び、イギリスでレオン・レヴィに師事した第百銀行の頭取原六郎さんが、正金銀行の四代目頭取に迎えられた。原六郎さんは、改革に反対する株主を排除し、潰れるべきところは見捨て、改革のスピードを速めた。

 すでに、資本金300万円に対して、不良債権は約180万円にのぼっていた。原六郎さんは、まず資本金を切り崩して損失を補填した。そして、資本金を銀貨ではなく通貨にし、為替取組の支払利息を正金銀行の収入にするように法律を変えた。そうやって足腰を鍛えてから、外国商人に対する輸出為替の取扱も始めた。

 3年後には、正金銀行の為替取扱高は、530万円余から2500万円余に急増した。生糸の輸出取扱高の四分の三を扱うまでになった。正金銀行の性格は、紙幣整理ではなく、為替関連の業務へと変わっていった。

 そこで本来の紙幣整理を目的として、日本銀行が明治15年に設立された。初代総裁には正金銀行関係から吉原重俊さんが就任した。松方さんはある書簡の中で、「日本銀行は内国を経理して以て外国にあたり、正金銀行は海外を経理して以て内国を益し・・・」と書き送っている。要するに、娘のために、独立した立場で、お互いを尊重して、相互補完の良い関係でやっていきましょうと、正金銀行と日本銀行の役割分担を明確にした。

 当時横浜の外資系銀行は、イギリス系の東洋銀行、香港上海銀行、チャータード銀行と、フランス系のコントワ-ルデスコンテ銀行が活躍していた。その中の東洋銀行が娘の海外での資産運用を担当していたが、明治17年に破産した。正金銀行は東洋銀行に代わって、自らロンドンでの銀取引に参入することになった。それが始まりとなって、海外支店を増やしていった。

 明治18年には、娘の借金は全額返却され、紙幣と銀貨の格差も解消した。日本銀行はこの時から、兌換紙幣の日本銀行券を発行するようになった。

 その後、正金銀行は世界の三大為替銀行に成長した。だが、昭和20年の敗戦によって正金銀行の100以上あった海外支店は接収され、膨大な在外資産を失った。
昭和22年6月、正金銀行の勘定は東京銀行に譲渡され、戦前に世界最大の為替銀行と目された正金銀行の歴史を閉じた。

写真は、馬車道の玄関から入った旧正金銀行の廊下である。どんよりとした薄明かりに照らされた漆喰の白壁の廊下を、原六郎さんは歩いた。窓もない、飾りっ気ひとつない廊下は、立ち止まることが許されなかった原六郎さんの心象風景のようだ。
結論をいえば、紙幣を発行する「国立」銀行の153は多すぎた。
窓があって外を見れば、中村さんや小野さんのように立ちすくむ。原六郎さんが立ち止まったら、その後の正金銀行も娘もなかった。

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