のむけはえぐすり 第53弾 原善三郎の話 その32 七度目の大蔵大臣2007年06月12日 01時42分55秒

のむけはえぐすり 第53弾

原善三郎の話  その32  七度目の大蔵大臣

高橋是清さんがアメリカに渡って、経済を勉強したように書いたが、どうも違うらしい。

是清さんは、安政元年(1854)、江戸は芝の幕府御用の絵師の子として生まれた。生まれて間もなく、仙台藩士足軽の高橋家に里子に出された。 是清さんが12歳の時、仙台藩から英仏の学問をするために横浜へ派遣された。 横浜大火の後、マーカンタイル銀行の支配人であるシャンドさんの身の回りの世話をするボーイとなったが、酒は飲む、博打は打つ。伝え聞く行状は、芳しくない。   勝海舟さんの息子らと一緒に、是清さんもサンフランシスコに渡った。仲介に入ったアメリカ人が悪で、ホームステイのつもりだったが、実は3年契約の奴隷として売りとばされていたことは後で知った。

明治元年(1868)に是清さんがアメリカから戻ってきた時にはほうほうの体だったから、とても経済を勉強したという話ではない。ただ、普通の留学生よりもアメリカ人の中で生活しただけあって、英語はできた。

日本に戻ってからの是清さんの人生は、双六みたいなものだ。 ず、是清さんに仕事を紹介する人がいる。初めは、そこそこにこなす。成功すると持ち前の放蕩癖が出たり、山っ気が出て、どん底に落ちる。そのまま再起不能かと思うと、立派に切り抜ける。そして、振り出しに戻る。   この繰り返しで、ある時は大学南校(のちの東京大学)の教授、ある時は英字新聞の翻訳業、ある時は共立学校の経営者、ある時は相場師、ある時は特許庁長官であった。

鉱山経営のためにペルーまで行き、だまされて戻って来た時には、さすがに世間の目は冷たく、2年の謹慎生活を余儀なくされた。

今度は、川田小一郎さんの引きで日本銀行に入行することになった。この時から経済を勉強したようで、そこからの是清さんは違った。 明治26年(1893)、日銀の西部支店長となって下関支店に赴任した時も、職場の問題点をたちどころに指摘し、的確な対策を立て、経営手腕を発揮するプロになった。   横浜正金銀行の本店支配人は、日銀から派遣されるという取り決めがあった。だが、こういう立場の人は、そこで意地悪をされる。前任者の小泉信吉さんなどは、それがもとでやけ酒を飲み過ぎ、死んでしまった。

明治28年(1895)、そんなところの支配人に、42歳の是清さんが任命された。間もなく是清さんは、正金銀行の問題点を、古参の行員が慣例を建前に不合理な運営を行っていること、行内に相馬取締役系と戸次支配人系の派閥があってわだかまっていること、お役所的でサービスが悪く、行員が働かないことだと、看破した。日銀総裁となった川田さんの力を背景に、是清さんは正金銀行を改革し、急激に業績を伸ばした。   明治29年には、正金銀行副総裁となり、正金銀行の海外における為替業務を拡充した。 その後、日銀の副総裁となった是清さんは、日露戦争の戦時公債の発行を、パース銀行副支配人になっていたシャンドさんの協力を得て、成功させた。

それからは、列強の一員となった日本の資金繰りを担当し、数度の世界恐慌を乗り切り、常に困難な舵取りを任された。 写真は、「だるま蔵相」とも呼ばれた高橋是清さんである(Wikipedia、高橋是清より)。是清さんは、人に頼まれると、自分本位な欲を捨て、どんな仕事でも仕事本位に大切に努めることを信条にしていた。

昭和9年(1934)11月26日、岡田啓介総理大臣に頼まれ、81歳の是清さんは7度目の大蔵大臣に就任した。軍部の不穏な動きは承知で、「このまま死ぬつもりだ」と覚悟していた節がある。   是清さんは軍事費の増大によるインフレと不況を懸念し、軍部を恐れて何も言わなくなった政治家達にかわり、ひとり軍部の方針を批判し、軍事費の削減を実行した。   昭和11年(1936)2月26日未明。憂国という言葉の悲壮感に酔いしれ、軍部内の派閥対立に敗れ、閉塞感を募らせた皇道派の将校の放った銃弾に、是清さんは倒れた。 その朝、是清さんの官邸の雪に覆われた中庭では、「権門上に傲れども 国を憂うる誠なし・・・」と、何も知らされずについてきた下士官や兵士達の歌声が響いていた。

参考文献 1)津本陽:「生を踏んで恐れず 高橋是清の生涯」、幻冬舎文庫、2002、東京