フライペンの美味しい料理;ナン ― 2007年10月13日 09時31分38秒
フライペンの美味しい料理;チリビーンズ ― 2007年10月13日 09時32分57秒
フライペンの美味しい料理;きんぴら ― 2007年10月13日 09時33分53秒
右の「フォトショップ」に「ファンファンくらぶ」が入りました ― 2007年10月13日 19時52分45秒
のむけはえぐすり 第70弾 原善三郎の話 その49 Aberdeen取材旅行 紅茶 ― 2007年10月14日 02時33分16秒
のむけはえぐすり 第70弾 原善三郎の話 その49 Aberdeen取材旅行 紅茶
東インド会社は茶を輸入する対価として、アヘンを中国へ持ち込んだ。だから東インド会社の末裔を探すには、「紅茶」と「アヘン」がキーワードになる。 今回は、紅茶部門についてたどってみる。
写真は、イギリスで有名な紅茶の4大銘柄のアール・グレイのティーバックである。左からリプトン、トワイニング、ブルックボンド、フォートナム&メイソンである。なぜかリプトンの後ろに隠れているのが、“三井”農林の日東紅茶だ。
トーマス・リプトンさんはグラスゴーで生まれ、1871年に食料品店「リプトン」を開店した。セイロンの茶園を手に入れ、流通や製法に工夫を凝らし、茶の価格を下げ、紅茶の普及に一役買った。 「赤い楯」の著者、広瀬さんは「”リプトン”は、かつてサスーン家のもの」だったと言い切る。紅茶の販売会社を輸入元が、いつ頃か、傘下におさめたと言うことだろうか。 現代のリプトンは、世界最大の食品会社「Unilever(ユニリーヴァー)」の子会社になっている。「ユニリーヴァー」はオランダの「マーガリン・ユニ」とイギリスの「リーヴァー」が1929年に合併した会社で、その仲立ちをしたRobert Cohenさんは、かつてオランダの「ロイヤル・ダッチ」とイギリスの「シェル」を結びつけたロスチャイルド家の人だから、巡りめぐればロスチャイルドさんのものだと言っているようだ。
トワイニングは1706年にロンドンのシティーの西で、コーヒーハウス「トムの店」から始まった。創業者のトワイニングさんは、東インド会社にも勤務したことがある。1717年に「ゴールデン・ライオン」という紅茶専門店を開き、1837年にはヴィクトリア女王の王室御用達になった。英国首相にもなったグレイ伯爵(Earl Grey)が好んだことに因んだアール・グレイという銘柄や、Edward Ⅷに因んだPrince of Walesという銘柄を出している。いつの頃からか、トワイニングさんの一族はゴールドスミス商会の重役になった。勿論、フランクフルトのゴールドシュミット・ロスチャイルド家の会社だ。一族には、アフリカなどの植民地の総督になったものが多いという。
ブルックボンドは、1869年にアーサー・ブルックさんがマンチェスターの「ブルックボンド」商会という紅茶の店から始めた。ボンドは単なる語呂合わせの付け足しらしい。広瀬さんは、「”ブルックボンド”はスワイヤ家のもの」と言い切る。香港の支配者といわれるスワイヤ家はキャセイ・パシフィック航空の大株主で、香港上海銀行の重役でもある。このブルックボンドも1984年にユニリーヴァーに吸収された。
フォートナム&メイソンの名前を、今回、私は初めて聞いた。ネットで検索すると、横浜のランドマークタワーに販売店を兼ねた喫茶店があった。この会社は、アン女王のロウソク係をしていたウィリアム・フォートナムさんが、家主のヒュー・メイソンさんと一緒にロンドンのピカデリー・サーカスの近くで、1707年に開業したのが始まりだ。ヴィクトリア女王の御用達にもなった。最近まで、紅茶価格の下落で店を閉じていたという。今は製造をトワイニングの工場に委託しているという話も聞いた。 三井の日東紅茶がそこにいるのが偶然ではないことは、後日話す機会があるだろう。
広瀬隆さんによれば、1798年のベンガル総督Richard Willesleyさんから、インド女帝・ヴィクトリア女王を経て、1948年の最後のインド副王Louis Mountbatten卿に至るまでの32人のインド総督は、ロンドンのロスチャイルドさんを頂点とした、5世代ぐらいの大きな家系図に収まってしまうとされる。 その家系図から、東インド会社の紅茶に関係のありそうな人を探してみると、話はさらに香港へと飛ぶ。
先ほどのグレイ伯爵のお孫さんのMary Greyさんが結婚した相手は、インド総督のGilbert Elliotさんだ。同じ名前のひいおじいさんもインド総督だったが、Maryさんのおじいさんはアヘン戦争が起きたときのイギリス海軍提督だった。その海軍提督の甥は香港の初代総督のCharles Elliotさんだ。だから、トワイニングのアール・グレイは単に紅茶が好きなオジさんの名前にあやかっただけではなさそうだ。
さらに驚いたのは、セポイの反乱を引き起こす引き金になったダルフージ侯爵の本当の名前はJames Broun Ramsayといい、その一族のSarah Ramseyさんのご主人がJohn Keswickさんだった。お父さんは、William Keswickさんで、ジャーディン・マセソン商会の会長だ。ジャーディン・マセソン商会は、リプトンのサスーンさんが大株主だった香港上海銀行のライバルで、中国における紅茶の輸入も多かった。最終的には香港上海銀行と和解し、自身が香港上海銀行の会長になった。
紅茶部門から浮かび上がってきた東インド会社の末裔には、いくつかの共通点があった。ひとつは、ロスチャイルドさんの閨閥に絡んでいること、次はインド総督や香港総督などのイギリス政府の権力の近い立場にいること、もう一つはオランダの東インド会社が残した権益と資産も守ろうとしていることだ。 そのうちの二つ以上を持っていることが、条件のようだ。
東インド会社の末裔が守ろうとした権益と資金の持ち主とは、オランダやイギリスで、かつて「勅許状」を与え、今も「御用達」の免許を与えている人達のことではないのかと、フッと頭をよぎった。
参考文献
1)広瀬隆:赤い楯 ロスチャイルドの謎、上・下、集英社、1991
ファンファンくらぶ;懐かしいファンちゃんです ― 2007年10月19日 23時09分56秒
のむけはえぐすり 第71弾 原善三郎の話 その50 Aberdeen取材旅行 Scot Rail ― 2007年10月21日 06時45分12秒
のむけはえぐすり 第71弾 原善三郎の話 その50 Aberdeen取材旅行 Scot Rail
Scot Rail(スコットランド鉄道)のアバディーン駅の切符売り場で、「8時20分発、エジンバラまで、大人一人」というと、駅員が「今日、戻るのか」とよけいなことを聞く。「いや、明日ですよ」というと、確か70ポンドくらいを払ったと思う。渡された切符を見ると、帰りの切符が含まれている。何のことはない、私が往復という意味の「return」と答えればよかったらしい。
写真は、AberdeenからEdinburghに向かう電車だ。
ちょっとした「世界の車窓」気分で、海側の席に座る。ワクワクしながら、構内のWHSmith店で買ったパンを食べる。電車が走り出して、ものの数分も経たないうちに、街並みはとぎれる。いきなり、えぐれた崖の入り江を臨む景色が繰り返される。
海岸と鉄道との間に少しの空き地があれば、羊の背丈ほどの石垣に囲まれた牧草地になっている。だが、羊の姿はほとんど見えない。岬の突端には、崩れかけた小さな家が見える。
次の駅も次の駅も、駅の周囲に家が少ない。乗る人もまばらだ。陸地を見ても、平坦な丘のところどころに、思い出したように家が置かれている。はるか向こうには、なだらかな山が見える。森が少なく、さらに平地が続く。
切符の点検に車掌がやってくる。切符を見せると、黒マジックでチョンと印を付ける。万事が簡素だ。
9時32分、スコットランド第4の都市、Dundee(ダンディー)に着く。ダンディーの町は、幅広い入り江が北海に続くテイ湾に面している。かつてはジュートという麻布作りで栄えたそうだ。駅の構内全体が鉄錆色で、廃鉱に紛れ込んだような雰囲気だ。乗り降りする人は多く、空席が埋まり始める。電車は再び快調に走り出す。
やがてテイ湾に架かる橋が見える。細い橋桁でやっと支えられているような橋で、広い川幅の中で、今にも流されそうだ。渡る自動車も人影もない、今はもう使われていないのかと思っていると、だんだん電車がそちらに向かっていく。電車は、なぜか徐々に速度を落とす。
「まさか・・・!?」
「やっぱり・・・」
「よせ!!」
電車はおもむろに橋を渡りだす。いつごろに作られたのか、橋梁は鉄の円柱で構築され、円柱には鋲が10cm位の間隔で打たれている。橋桁を見ると補強工事中の作業員が手を休め、「渡ってみて」という顔で、こちらの足下を見上げている。 どうにか橋を渡り終えると、再び電車は自信を取り戻して、飛ばし始めた。 広々とした砂浜に、犬と散歩する老人が見える。浜辺の丘陵を早足で歩く夫婦の姿が見える。遠浅な海の中に、木の枝が並べて立てられているのを、ぼんやりと眺める。
とある駅に停車する。古い引き込み線があり、傍らに鉄のトロッコが横倒しにされて、朽ちかけている。線路には草が伸び放題で、ところどころに子供の背丈ほどで、茎の上の方に総(ふさ)のようについたピンクの花が、まとまって咲いている。
そういえばと、アザミの姿を探すが、見当たらない。アザミはスコットランドの国の花だ。赤紫の花と、その下のふっくらとした緑に触れた時の、思わず感じた棘の痛みを思い出す。
旅も、終わりに近づいている。
今回の旅は、横浜の英国一番館、ジャーディン・マセソン商会を創立した二人、William JardineさんとJames Mathesonさんが、アバディーンの出身だと分かった時から始まった。 アヘン戦争の直前の1839年3月に、Jerdineさんはジャーディン・マセソン商会を辞め、一人イギリスに帰国した。ロンドンに住み、自らが下院議員となった。議会で自由貿易を唱える傍ら、中国に対する強硬な外交を主張した。1943年2月、59才で亡くなった。 Mathesonさんの方も1942年に帰国し、やはり下院議員となった。
ジャーディン・マセソン商会の創立150周年を記念して発行された、Maggie Keswickさんが書いた社史の名は、「Thistle & Jade」。アザミと、中国を表す翡翠という意味だ。
Scot Railから見たスコットランドは、野原に咲くアザミのように質素だった。 「アザミの歌」を地でいくような、例えば横浜のジャーディン・マセソン商会には薔薇とポピーの花園があって、その中にアザミが一輪咲いていたという、そんな出来すぎた話があったかどうか。 横浜に帰ってから、ジャーディン・マセソン商会について、アヘンをキーワードに調べてみようと思う。
10時50分、終着駅、Edinburgh到着。
参考文献
1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998
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