のむけはえぐすり 第82弾 原善三郎の話 その59 ジャーディン・マセソン商会 晩年のふたり2008年02月10日 20時55分03秒

のむけはえぐすり;中年になったMathesonさん

のむけはえぐすり  第82弾

原善三郎の話 その59 ジャーディン・マセソン商会 晩年のふたり

 J ardineさんは帰国の途中、ボンベイに寄り、貿易パートナーのJamsetjeeさんやパーシー教徒の仲間たちに会い、別れを告げた。スエズを過ぎてナポリでは、ジャーディン・マセソン商会のアヘンが没収されたという知らせを聞いた。

  ロンドンでは、早速、ジャーディン・マセソン商会の代理店になっていたマニアック・スミス商会のパートナーに迎えられた。アヘン戦争が始まる数ヶ月前のことで、JardineさんとMathesonさんは議会や政府に中国への強硬路線の必要性を説いて回った。

  実はこの時に、Mathesonさんは結婚している。だが、結婚相手は数ヶ月もしないうちに、死んでしまった。一人になったMathesonさんは中国へ戻り、貿易監督官のPottingerさんと行動を共にするようになった。     ロンドンに残ったJardineさんはベルグレイブ街に家を建て、パースのランリックに広大な土地を購入した。当時、中国にいるイギリス商人は結婚しないのが慣例だったから、54才になっていたJardineさんも、今更結婚しても、相続の問題や、会社のパートナーとして責任の範囲がややこしくなるだけなので、そのまま独身を通した。

  JardineさんはロンドンのOriental Clubに所属し、週末はアベル・スミスさんと過ごすことが多かった。その上、Public Dinnerという東インド会社のOB会から祭り上げられ、東インド会社出身の成金組(Nabob)の象徴的な存在になっていた。

  Jardineさんは1841年の国会議員選挙で、アシュバートン選挙区の自由党から立候補した。対立候補のDevonさんは保守党のデントさんの息がかかった人だったが、JardineさんはDevonさんと話し合った。するとDavonさんは選挙前日に立候補を辞退し、Jardineさんは無投票で当選することになった。

  その時のJardineさんは、Mathesonさんに手紙で、「デントさんは国会議員になりたいという私の思いを笑うだろう。でも、私たちが中国と同じように、イギリスでも重要な地位を得たことを、君は喜んでくれるよね」と、誇らしげに書き送っている(文献2、25p)。     デントさんとは、Jardineさんの商売仇、デント商会のトーマス・デントさんのことだ。デント商会の後継者のランスロット・デント(Lancelot Dent)さんはイギリスの北西部ウエストモーランド(Westmoreland)の出身だ。香港に来る前からVictoria女王や首相とも親しかったというから、デント家はイギリスでも家柄がよかったのだろう。     そんなデントさんなら、Jardineさんがスコットランドの田舎から来て、たかだか庶民の代表になるのに、何をそんなに必死になっているのかと、薄ら笑うかもしれない。だが、スコットランド出身の二人にすれば、イギリスの社会で成功することが夢だった。そのために、普通のイギリス人が行かないような所にまで行って、人に語れない苦労を重ねた。ようやくその夢に近づいたことを二人で喜び合った、という意味なのだろう。

  1842年に入って、Jardineさんはガンの痛みに苦しんでいた。南京条約が締結されたと聞いた時には、もう手紙を書くこともできなくなっていた。没収されたアヘンの賠償金が会社に支払われたという知らせを待っていたかのように、Jardineさんは1843年2月27日、59才で亡くなった。遺体は遺言により、生まれ故郷のダンフリースのLochmabenに葬られた。

  Jardineさんの死が近づいていた頃、Mathesonさんも会社を辞めて帰国した。   会社を辞めてからのMathseonさんは“Uncle James”と呼ばれ、1843年にマリー・パーシバル(Mary Jane Percival)さんと再婚した。家はロンドンにあったが、スコットランドの西海岸に浮かぶリューウィス島を買い占め、そこで過ごすことの方が多かった。     Jardineさんの死後、Mathesonさんは選挙区の地盤を引き継ぎ、1843年から1852年までイギリスの国会議員になった。選挙法が改正されてからは、スコットランドの生まれ故郷、Lairgがあるロス&クロマティー選出の下院議員になった。

  当時、スコットランドではジャガイモの病害が流行し、飢餓と貧困が広がっていた。この時期、170万以上のスコットランドの小作農民がカナダやオーストラリアに移住している。Mathesonさんは多額の私財をハイランドの小作農民の救済に投じ、彼ほどハイランドのために尽くした人はいないと言われている。親族をはじめ、多くの人が、Mathesonさんのおかげでオーストラリアに移住し、牧場経営者として成功したものも多い。

  Mathesonさんは1878年12月31日に、フランスのMentonで、82才でなくなった。子供はいない。1882年のイギリスの土地所有者のランキングを見ると、Mathesonさんの未亡人と甥のAlexanderさんの分を合わせた所有面積は、第2位になっている。

  ある時からMathesonさんはP&O汽船の社長にもなった。1851年には爵位も頂いたが、準男爵(baronet)であった。女王様への貢献度が少なかったか、アヘンの過去が足を引っ張ったか、Sirの称号はつくが、一代限りで、正式な爵位ではなかった。   写真は、中年になったMathesonさんである(The thistle and the jadeより)。優しそうな顔の中に、若い頃の面影を追ってしまう。   参考文献  1)石井摩耶子:近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に、東京大学出版会、1998  2)Maggie Keswick:The thistle and the jade A celebration of 150 years of Jardine, Matheson & Co., Octopus Books Limited, London, 1982

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