のむけはえぐすり 第107弾 原善三郎の話 その85 ジャーディン・マセソン商会 高島炭坑残照 ― 2008年10月26日 17時28分13秒
のむけはえぐすり 第107弾
原善三郎の話 その85 ジャーディン・マセソン商会 高島炭坑残照
1875年(明治8年)8月、写真のような横浜絵に描かれた石炭で走る黒い蒸気船に乗って、J.J. Keswickさんは横浜に着いた。海岸通には、写真の右上、平屋の運上所に隣接する英一番、ジャーディン・マセソン商会の横浜支社から始まる洋館が立ち並び、横浜はたいそうな賑わいを見せていた。
横浜支店長のWittallさんの話では、高島炭坑の排水ポンプや捲揚機械が整備され、月の産出量は1万トンに迫り、若干の返済が始まったという。それにしても、蓬莱社と後藤象二郎さんに対する貸付金は巨額過ぎた。1876年1月に、Wittallさんは横浜支店の担当をはずれ、4月末にはジャーディン・マセソン商会のパートナーの地位からも去った。
1876年5月から、高島炭坑では後藤さんに代わって竹内綱さんが舎長になった。「舎長職務」規定では、炭鉱経営を炭坑エセント(agent)の英商渣甸商社(ジャーディン・マセソン商会)との契約に従って行うように定められ、実際の経営は鉱山司長のW. H. Martinさんに委ねられた。8月には、蓬莱社が倒産した。
高島炭坑の出炭量は官営の三池炭坑を上回り日本一になったが、炭坑火災に見舞われたりコレラが流行したりで、なかなか生産が安定しない。1876年の1年間に、船舶用燃料として長崎で4万6000トン、横浜で2600余トンが販売され、3万6000トンは香港や上海へ輸出されていた。だが、その間にも、ジャーディン・マセソン商会は後藤さんが支払うべき払い下げ年賦金の肩代わりの追加融資を迫られ、後藤さんに対する貸付金を積み増していった。1878年4月の時点で、ジャーディン・マセソン商会の高島炭坑勘定の総融資額は130万ドルへと膨らんでいった。
貸付金の回収を目論んだジャーディン・マセソン商会は、1876年頃からチョッピリ小細工をするようになった。ひとつは、香港や上海で販売される輸出炭の販売価格を過小に計上し、差額を頂いた。もうひとつは、1873年から始まった世界的な銀価格の低落による目減りを、後藤側に保証させた。さらに、香港の関連会社への石炭価格を操作したり、石炭価格に香港までの運賃を加えた手数料で請求したり、ほんの1%ほどだが手数料をごまかしたり、炭坑本社に隠れた利益確保に奔走した。
ひとり借金のみが増えていく後藤さんは、イギリスの弁護士Dickinsさんを雇い、帳簿を調査した。1878年2月、後藤さんは突然ジャーディン・マセソン商会に対して鉱山の代理人を解除する通告をし、自分が長崎で炭鉱経営を始めるという実力行使に出た。
ジャーディン・マセソン商会は直ちに東京裁判所に契約の履行と負債の返還を求める訴訟を起こし、石炭販売の差し止めを求めた。この請求は裁判所によって却下されたが、バークス・イギリス公使の抗議や、新しい保証人への控訴で対抗した。行き詰まった後藤さんは新たな返済計画による裁判所の調停に応じ、高島炭坑を「後藤炭坑社」と改めた。
1878年4月、竹内綱さんは反乱容疑で逮捕され、炭坑の経営者は青木休七郎さんに代わった。ジャーディン・マセソン商会には上海支店長のJohnsonさんが派遣されて来た。後藤さんとの約束が履行されなかったので、ジャーディン・マセソン商会は資金の提供を止め、11月に再び後藤さんを相手に東京裁判所に提訴した。だが、今度は日本坑法違反をたてに、門前払いを喰らった。
同時に、大隈重信さん、伊藤博文さんのバックアップで和解案が提示され、中原国之助さんを仲介に、負債110万ドルの内65万ドルを回収することで合意した。
1879年には高島炭坑の出炭量が記録的に伸び、月産2万トンに近づいた。その裏で、後藤さんは三菱会社から借金をするようになり、三菱会社への依存を強めていた。
1880年10月に、一部の炭坑夫による暴動が発生した。だが、それは炭鉱経営への打撃を与えることだけが目的のような、まるでジャーディン・マセソン商会に炭鉱経営を投げ出すようにし向けているような不自然な暴動だった。暴動による収支の悪化を見計らったように、後藤さんから即金20万ドルで高島炭坑を買収する案が打診された。交渉は決裂かと思いきや、泥沼化を避けたいW. Keswickさんは協定案に乗った。
1881年4月、高島炭坑は「後藤炭坑商局」から、三菱岩崎家に譲渡され「高島炭坑事務局」となった。
ジャーディン・マセソン商会は後藤さんに対する110万ドルの貸付金を放棄し、20万ドルで高島炭坑から手を引くことになった。だが、実際の損失は、それまでの小細工が功を奏して、それほどではなかったとも言われている。ジャーディン・マセソン商会の高島炭坑事業の失敗には、初めにWittallさんが後藤さんの資質を見誤り、縁を切れずに傷を深めていったことがあるのは勿論だが、終始、大隈重信卿らによる日本政府の外資排斥政策によって表だった進出を阻まれたことが根底にあったと言える。国の重要な産業への外資の参入を阻止することは、当時も官民挙げての課題だった。これ以降、ジャーディン・マセソン商会は、日本における多角化事業の展開には慎重になった。
その後、後藤象二郎さんは自由民権運動に参加し、政府批判を強めるが、1889年3月にはあっさり政府に取り込まれている。黒田、山縣、松方の各内閣では逓信大臣を務め、1892年の第二次伊藤内閣では農商務大臣を務めた。だが、1894年(明治27年)の日清戦争の最中、取引所設置問題で政商からの収賄を受けたことで議会から弾劾され、辞任に追い込まれている。明治の元勲、後藤象二郎さんの相変わらずの話だ。
関係ないかも知れないが、後藤象二郎さんの長女、早苗さんのお婿さんは、三菱の創業者である岩崎弥太郎さんの息子、第2代三菱財閥の当主の岩崎弥之助さんである。念のため・・・
参考文献 1)石井寛治:近代日本とイギリス資本 ジャーディン・マセソン商会を中心に、前出
つくば「とんQ」;アフターコーヒー ― 2008年10月26日 21時33分25秒
つくば「とんQ」;上ローススタミナかつランチ ― 2008年10月26日 21時35分34秒
つくば「とんQ」;座るとこのメニューが ― 2008年10月26日 21時37分26秒
つくば「とんQ」;待つ間に「黒烏龍茶」 ― 2008年10月26日 21時39分39秒
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つくば「とんQ」;入り口に積まれた米俵 ― 2008年10月26日 21時45分36秒
入り口に積まれた米俵
これを見るだけで「美味そう」と思えるよね、日本人なら
ところで僕のところはテニス仲間から玄米を買っているのは昔書いたけど・・・
茨城県はコシヒカリの収穫量全国第2位なんですよ。
そのなかでも筑波北条米(特別栽培米)は献上米として知る人ぞ知る米;
「筑波山麓、肥沃な土地で育った筑波北条米は甘みと粘りが強い良食味米。炊き上がりはふっくらつややか。味だけでなく、安心安全も追求した特別栽培米です。」と紹介されてます。
この北条米は本当に美味い--しかもポイントは「低温精米」(田舎の人でなければ分からないだろうけど)--今年はその仲間の米がなんと「特A」の評価をとったそうです。
米の食味ランキングは、炊飯した白飯を実際に試食して評価する食味官能試験に基づき、昭和46年産米から毎年全国規模の産地品種について実施しています。 食味試験のランクは、複数産地コシヒカリのブレンド米を基準米とし、これと試験対象産地品種を比較しておおむね同等のものを「A’」、基準米よりも特に良好なものを「特A」、良好なものを「A」、やや劣るものを「B」、劣るものを「B’」として評価を行い、この結果を、毎年食味ランキングとして取りまとめ、発表しています。
(と言っても例年はうまみ指数で83だったのが今年は86で特Aだったということで大きな違いではなかったが)
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