第161弾 のむけはえぐすり 帰化人と渡来人2010年09月11日 05時22分58秒



第161弾  のむけはえぐすり

帰化人と渡来人

 

古代に朝鮮半島から日本に移住して来た人々を、私は帰化人と呼んでいる。当初、私が想定していたのは、二上山を望む近鉄南大阪線沿いの大阪や奈良の古墳群や遺跡の周辺に住んでいた人々であった。そこにいた帰化人は当時の日本に新しい文化や芸術を伝え、古代国家の形成に関与し、日本人と同化していった人々であった。

 

その後、思いつくまま帰化人についての稿を重ねているうちに、帰化人の足跡は日本の至る所にあり、その数も想像以上に多いことが分かってきた。ところが、参考文献を読んでいると、そのような人たちを帰化人と呼ぶ研究者と、渡来人と呼ぶ研究者がいることに気がついた。そしていつの頃からか、帰化人という言葉には民族差別の意味合いがあるということで、渡来人という言葉に改められたということも分かった。

 

どういう経緯があったのか知りたいと思い、まず、私が持っている古代の帰化人に関する著書を調べ、帰化人と表記されているか、渡来人と表記されているかを表にしてみた。出身校と教育歴もあげたのは、教育における師弟関係の影響が無視できないと考えたからだ。

 

表を見ると、昭和40年(1960)代の古い著書は帰化人だが、昭和501970)年代以降は渡来人になっているのが分かる。最近では、東京大学の関晃教授の流れをくむ平野邦雄教授のように、帰化人とする研究者も現れた。専門家の間でも、古代に朝鮮半島から移住してきた人々を、渡来人と呼ぶか、帰化人と呼ぶか、未だに一定していないようだ。

 

戦後の帰化人研究の出発点は関教授の著書「帰化人」だといわれているが、帰化人という表現が不適切のように言われ始めたのは、上田正昭教授あたりからだ。上田教授の1965年の著書に、「帰化人」という本がある。だが、表の一番下の上田教授の近刊では、渡来人という言葉が使われている。その転換点になったのは昭和50年前後に上田教授、金達寿さん、李進煕教授、司馬遼太郎さんたちが集まって開かれた座談会での話が、京都で刊行された季刊雑誌「日本のなかの朝鮮文化」に連載された頃だ。

 

そもそも帰化という言葉が歴史上に出てくるのは日本書紀で、「おのずからにまうく」と読ませている。天皇の徳に感じて帰属してくる行為とされ、中国の周りの国々は全て夷狄と考える中華思想からの発想で、中国皇帝のもとに「欽化内帰」するという言葉に起源があるという。

 

だから、帰化を目的とする人が日本に来ると、天皇は慈愛を示さなくてならないという考えがあって、当時の律令では取り扱いが定められていた。まず、地方官である国司や郡司が衣食を保証し、中央に報告することが義務づけられていた。その後、定住すべき地が示され、戸籍に載せられ、口分田も支給され、税や期限付きとはいえ賦役も免除されることになっていた(田中200514P)。実態はともかく、少なくとも文面上ではそうなっていた。

 

その中で、上田教授が帰化人という言葉に疑問を持った理由は二つある。一つは、大宝令や養老令に書かれた「籍貫に付す」、すなわち戸籍に載せるという言葉である。帰化すべき国家が日本では誕生していない段階で、あるいは戸籍が作成される以前の段階で、律令が規定するような帰化人が存在するわけはないというのだ(上田200951P)。

 

もう一つは、朝鮮諸国が日本への隷属的な朝貢国であるという蕃国思想に基づく差別観を、律令政府が強めたことである。そのため、天武持統朝以降にやって来た新羅人は、関東へ、さらには陸奥へと追いやられ、やがては帰化そのものが拒否され、入国も禁止されるようになった。820年には、遠江や駿河に移住させられた新羅人たちが叛乱を起こしたのも、その差別観に根ざしたものだというのだ(上田1965174P)。

 

その時の帰化人に対する差別観が、明治以降の朝鮮半島や中国大陸への侵略を正当化する口実になり、民族差別につながったと批判する声が次第に大きくなった。その中で、上田教授は風土記に渡来(わたりきつ)という言葉があり、帰化していない人については渡来と呼ぶ方がよいと提唱した。それを積極的に推進したのは金達寿さんであった。昭和46年には、NHKの教養番組「帰化人-古代日本と朝鮮」にも座談会の形で取り上げられ、やがて教科書からも帰化人という言葉が消え、渡来人という言葉に置き換わっていった。

 

ところが、近年、移動という事実に着目して用いられた渡来人という言葉を、定住を前提とした帰化人に用いるのは相応しくないという意見が出始めた。帰化人という言葉の負のイメージの束縛から離れて、もう一度、見直そうという考えである。

 

そこで、平野教授は古代の帰化の概念を次のように説明する。

「政変・戦乱・飢饉などの遠因はあるであろうが、みずからの意志に従って、自国での政治的、経済的生活を放棄し、安住の地をもとめて他国へ移住し、他国では一定の政治的方針によってこれを受容し、政治上の手つづきを経て、自国民として遇するにいたるまでの一連の行為」(平野20071P

 

稿を進める中で、渡来人と呼ぶには、私にも違和感があった。来航の動機はさまざまだが、七世紀以前に技術・文化・知識を持ってやって来て、政府に仕えた人たち、あるいは各地で定住して土地の名前として残ったような人たちを、単なる渡来した人というのでは、物足りないという思いからだ。

 

その思いは、私が韓国に行って古代の帰化人のふるさとをたずねて、その土地を去らなければならなかった人々の心情に思いを馳せたり、帰化人たちが定住した近江や埼玉の田舎の風景を見て、扇状地の厳しい自然のなかで根付いていった姿を思い浮かべたりするたびに、強くなっていった。

 

そのような私の思いを、平野教授はひとつひとつ丁寧に説明しているように思えるのだ。

 

参考文献

1)荒井秀規:東国の渡来人の実像、歴史読本51(3)、新人物往来社、2006

2)司馬遼太郎、上田正昭、金達寿:日本の渡来文化、中央文庫、1982

3)金達寿:日本古代史と朝鮮、講談社学術文庫、1985