第163弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 息長広姫陵2010年09月28日 02時42分44秒





第163弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人  息長広姫陵

 

写真は、敏達天皇(30)の皇后息長広姫の陵墓指定地、息長陵である。地図のように、日撫神社から北へ約7Kmの所にある。

 

通常、敏達天皇の皇后というと、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)すなわち推古天皇(33)を思い浮かべるが、早く亡くなった広姫の方がいわば先妻である。

 

国道365号線にある息長陵の案内標識を見つけ、集落の狭い道に入る。写真のように、いずこも同じ陵墓指定地の見慣れた風景がある。鳥居があって、外壁があって、鉄の扉があって、参道には玉砂利がひかれ、垣根が整備されている。左に見える小さな屋根のついた宮内庁の案内にも、「一、みだりに域内に立ち入らぬこと、一、魚鳥等を取らぬこと・・・」など、同じ文章が並んでいる。

 

ただ、陵墓指定地としては、私が見た中ではかなり小さい方だ。道路脇から垣根の中をのぞくと、径が67m、高さが2mほどの円墳がある。

 

元禄9年(1696)、隣接する光運寺の本堂改築の際に、家形石槨の蓋と石棺がみつかった。延喜諸陵式という本に、「息長墓、舒明天皇の祖母、名を広姫といい、近江国坂田郡にある」と記されていたので、息長広姫の墓に比定され、その後、現在地に移された。

 

延喜諸陵式に「兆域は東西一町、南北一町で、守戸は三烟」とあるから、本来は四方に100mほどの大きさがあった。それを裏付けるかのように、近年、光運寺の本堂裏の基壇を修理していると、多数の埴輪と墳丘がみつかった。その埴輪の推定年代から、息長陵は5世紀末の古墳であることが分かり、6世紀後半に存在した広姫の陵墓というには、時代が古すぎることが明らかになった。

 

古代の息長氏は、仲哀天皇(14)の皇后である息長帯比売(たらしひめ:神功皇后)から始まって、応神天皇(15)の妃の息長真若中比売(まわかなかひめ)、允恭天皇(19)の皇后の忍坂大中比売(おしさかおおなかつひめ)と、古代の大王家の系譜の中に皇后や妃を出した外戚として頻繁に登場している。

 

だが、応神天皇の母である神功皇后はとても史実とは思えない伝承に包まれ、実在が疑われている。また、継体天皇(26)は応神天皇と息長真若中比売の6世の孫だというが、こちらもかなり怪しげだ。応神天皇も継体天皇もそこで王統が交替したことを匂わせる場面だが、そのような重要な場面に息長氏の名前が出てくるのには、広姫がキーパーソンになっているという説がある。伊吹町史に書かれているのだが、古代における息長氏の実像を伝えているように思えるので紹介する。

 

古事記は天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝皇日継及先代旧辞」を誦習させ、それを元明天皇時代に太安万呂が記載したものだ。天武天皇は壬申の乱によって、甥の弘文天皇から王位を奪って即位した。天武天皇にしてみれば、同じことが起きないようにするために、「万世一系」の大王の系譜を整備し、自らの王統の正当性を主張する必要があった。

 

天武天皇の系譜で一番の弱点は、祖父の押坂彦人皇子のところだ。押坂彦人皇子は敏達天皇の子だが、蘇我馬子の策略によって、皇位に就けなかった。その時、皇位についたのが、敏達天皇の異母妹であり、後妻の推古天皇である。そこで天武天皇は押坂彦人皇子を「皇祖大兄」と呼ばせ、天武の王統直接の始祖として祀り上げることに成功した。次は、押坂彦人皇子の母方、息長広姫の出自である。このままでは、近江の一豪族の娘で終わってしまう。

 

そこで、王朝交替の可能性がささやかれる応神天皇(15)と継体天皇(26)に話を絡める。応神天皇の父は仲哀天皇(14)で、祖父は倭健命である。この仲哀天皇の皇后に、開化天皇(9)のひ孫の息長宿称王の娘ということで、息長帯比売命を配置する。神功皇后である。

 

次は、継体天皇の系譜を、6代さかのぼって応神天皇に結びつけるという荒技に出る。そのために、応神天皇の妃の一人に息長真若中比売(まわかなかひめ)を配置する。この比売の祖父を息長田別王とし、倭健命の何人かいた妃の中の一人から生まれたと、さらに箔をつける。

 

二人の間の息子が、若野毛二股王(わかぬけふたまたおう)という。この王がこともあろうに、母の妹の息長弟比売真若中比売(おとひめまわかなかひめ)を妃に迎え、意富富杼王(おほほどおう)をもうける。そのひ孫が継体天皇で、継体天皇の子が欽明天皇(29)、孫が敏達天皇へと、血統はつながっていく。

 

息長広姫の父は息長真手王(まておう)だが、真手王が息長氏の系譜にどうつながるかは明らかにされてはいない。だがこれまでの話によって、息長氏が古代から大王の系譜に近い存在であることは示されている。そのレーゾン・デートル(存在理由)に対して、息長氏は天武朝において皇親に与えられる最高位の姓(かばね)の真人を賜っている。準皇族の扱いである。

 

奈良時代以降、息長氏は中央に本拠を移した。それほど大王家の外戚として重要な地位にいたのなら、中央政界においてもそれなりの地位にいたはずだが、実際には官人として議政官となった者はいない。息長真人老の従四位上が最高位で、大半は中下級の官人で終わっている。それが、古代における息長系の皇后や妃の存在が虚構とする証拠だという。そういう怪しい話が作られることになったのは、息長広姫がキーパーソンになっていたからだという説だ。

 

それとは別に特記しておきたいのは、神功皇后の母である葛城之高額比売(たかぬかひめ)が、新羅の王子、天日矛の末裔とされていることだ。そこに息長氏と新羅の帰化人との密接な関係が示唆されている。

 

参考文献

1)伊吹町史編さん委員会編集:伊吹町史 通史編上、1997

2)肥後和男編:歴代天皇記、秋田書店、1985