第168弾 のむけはえぐすり 継体天皇の越前三国2010年11月22日 00時21分07秒






第168弾  のむけはえぐすり

継体天皇の越前三国

 

継体天皇が57才で即位した継体元年(507)から逆算すると、生年は450年ということになる。倭の五王の時代だ。継体は近江の三尾で生まれた。生後間もなく、父、彦主人(ひこうし)王が亡くなると、母、振姫(ふりひめ)は実家のある越前坂井郡の高向郷に戻り、継体はそこで育てられた。

 

高向郷は福井平野を流れる九頭竜川の扇状地の北、今の丸岡辺りだ。そこから九頭竜川は何度も蛇行し、河口の三国で海に出る。日本書紀によると、彦主人王に迎えられた時に振姫がいたのは三国で、夫を亡くした振姫が戻った先は高向郡だ。ついでに言うなら、大伴金村から迎えが来た時に継体がいたのは三国である。継体の出自とされる三国氏は、九頭竜川の平野部を治めていた豪族であったことが分かる。

 

その頃の九頭竜川は氾濫を繰り返して「崩れ川」と呼ばれ、福井平野は大きな湖と沼地になっていた。継体は九頭竜川の河口を広げ、湖の水を海に導き出し、福井平野を開拓し、越前地方の発展の礎を築いたとされている。

 

地図の赤四角印は、福井市の市街地にある、高さ116mの足羽(あすわ)山である。継体が福井を発つ時に、「末永くこの国の守り神ならん」と言い、足羽山に自らの生霊をおいて旅立たれたと伝えられている。その時に朝廷に祀られていた5柱の坐摩神(いかすりのかみ)を一緒に祀って創建されたのが足羽神社であり、斎主は継体の子である馬来田皇女であったという。

 

足羽山山頂には、写真のように継体の大きな立像がある。明治16年(1883)に足羽山で採れる凝灰岩の笏谷石(しゃくだにいし)で造られ、継体の姿は髭が長く、杖をついて、頭の大きな4頭身のおじいさんである。太い眉の継体の眼下には、福井平野が広がっている。

 

先代の武烈天皇亡き後、次の王として継体が選ばれなければ、継体は三国の豪族の男大迹王(おおどおう)として、越前平野の開闢(かいびゃく)の御祖神で終わるはずだった。

 

ところが男大迹王は応神天皇の遠い血筋であるとして、次の大王に迎えられた。その血筋というのが、日本書紀では応神天皇5世孫彦主人王の子と、素っ気ない。古事記に至っては、応神天皇5世孫とあるだけで、迎えた場所も近江と、出身地も世代も違っている。その辺りの怪しさから、応神天皇の子孫という話の信憑性が疑われ、継体は三国の豪族にすぎなかったのではないか、いや三国氏ではなく息長氏だとか、さまざまな説が続出した。

 

そこで、三国氏の実態と出自について調べてみた。

 

まず、古代における三国氏の実態だが、地図の赤四角印の右、九頭竜川上流の南の山麓には松岡古墳群があり、北の山麓には丸岡古墳群がある。両古墳群とも4世紀後半から6世紀中葉に造られ、越前全域を支配した有力な氏族の墓域と考えられる。その氏族が奈良時代の郡司に名を連ねる三国真人氏の前身である可能性が高く、継体の母、振姫の出身氏族であると大橋信弥氏はみている。だからこそ、中央に本拠を移した三国真人氏が、天武朝において真人という皇族に準じた姓を賜ることになったというのだ。

 

一方、丸岡古墳群のさらに北、今の金津町の辺りに、継体と重なる6世紀初頭から急速に発展した横山古墳群がある。こちらは三国国造であった海直(あまのあたい)氏の墓域と考えられている。海直氏は九頭竜川の河口の三国湊を支配し、坂井郡は三国真人氏と海直氏が連携して支配していたという。

 

三国真人氏と同じ山麓部には品治部公(ほむちべのきみ)氏もいた。この品治部公氏が三国真人氏の本姓であり、品治部公氏はその名前から垂仁天皇の皇子の本牟智和気命(ほむちわけのみこと)が所有する部民、すなわち名代(なしろ)であったと考えられている。

 

次の三国氏の出自については、古事記と日本書紀で異なっている。

 

古事記では、応神天皇と息長の真若中比売との間の子が若野毛二俣(わかのげふたまた)皇子で、若野毛二俣皇子が母の妹と結婚し、生まれた子の意富富杼(おほほど)王が三国君の祖だとされている。先ほど、記紀には応神天皇から継体の間の系譜が明らかではないと話したが、実は、その間の系譜が孫引きの孫引きという形で記された「上宮記一云」といわれる史料がある。それと照らし合わせると、継体の父、彦主人王は意富富杼王の孫になっている。つまり、古事記では三国氏が継体の父方の系譜に存在している。この伝承の出所は息長氏だということは、大橋氏だけではなく、水谷千秋氏も同じ意見である。

 

日本書紀では、垂仁天皇の子の磐衝別命(いわつきわけのみこと)が三尾氏の始祖であって、その子孫である三尾君堅楲(かたひ)の娘の倭比売が生んだ二男二女のうち、第2皇子の椀子皇子が三国公の祖であると記されている。「上宮記一云」では、継体の母、振姫がこの系譜で、垂仁天皇から7世孫ということになっている。日本書紀では、三国氏は継体の母方の系譜に存在するわけだ。

 

近江の高島にいた三尾氏は壬申の乱で近江朝側に味方して失脚したが、古代においてはとりわけ有力な氏族であった。加我国造や羽咋国造も三尾氏と同族であると主張しているように、越地方の豪族にとって三尾氏と同じ系譜にあることは一種のステータスであったので、三国氏も三尾氏の系譜を拝借したと、大橋氏はみている。

 

したがって、古代の三国氏の実態は福井平野の北部の坂井郡を中心とした氏族であるが、出自としては継体天皇の父方の系譜である息長氏や、母方の系譜である三尾氏との関係が深い氏族であり、この関係が継体を中央に押し出す根源となったと考えられる。

 

参考文献

1)水谷千秋:謎の大王 継体天皇、文藝春秋、2006

2)大橋信弥:継体天皇と即位の謎、吉川弘文館、2007

3)塚口義信:継体大王家の成立、前之園亮一、武光誠編:古代天皇家の全て、新人物往来社、1998

 

 


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