第169弾 のむけはえぐすり 継体天皇の樟葉宮(交野天神社)2010年12月02日 21時55分21秒






第169弾  のむけはえぐすり

継体天皇の樟葉宮(交野天神社)

 

しばらくの間、継体天皇の足跡を追ってみたい。今回の場所は北河内。大阪と京都の間、枚方市(ひらかた)である。

 

地図の赤四角印の右の方から、三つの川が合流している。合流点の北にある大山崎インターチェンジから車で橋を渡ると、広い河川敷の桂川、高い堤防からのぞき込むような宇治川、再び広い河原の木津川が続いている。三川は合流して、淀川となって大阪湾に注ぐ。

 

橋を渡って、地図の赤四角印の交野(かたの)天神社に向かうには、住宅地の中を登っていく。たどり着いた鳥居の前には、右に樟葉(くずは)宮旧蹟と書かれた石碑と、左に桓武天皇先帝御追尊之地と書かれた石碑がある。枚方八景の案内には、ここ507年に継体天皇が即位した樟葉宮跡で、一帯の杜が原生林の姿をとどめた景勝地になっているという。

 

参道の奥に、鎌倉時代に造られた交野天神社の本殿がある。一間社流造、檜皮葺の本殿は、末社の八幡神社と並んで鮮やかに塗られた朱の色が艶めかしい。軒を支える蟇股(かえるまた)は室町時代に修復され、繊細な彫刻が施されている。

 

延暦6年(787)、武天皇が長岡京の南郊にあるこの地に、父光仁(こうにん)天皇を天神として祀る郊祀壇(こうしだん)を建てたのが、交野天神社の起源である。中国の皇帝が毎年冬至の日に、都の南に天壇を設け、天帝を祀った例にならったという。「のむけはえぐすり」の153弾で上田正昭先生が講演なさった桓武天皇の郊祀壇がここにあったのかと、思いがけない出会いに驚いた。

 

本殿の右手に、樟葉宮の旧蹟と書かれた手書きの素朴な案内がある。鬱蒼とした森の中の小径へと足を踏み入れると、森の中は大きな木に光が遮られて薄暗い。所々に朽ちた倒木が横たわり、灌木もまばらだ。手つかずの原生林の姿に圧倒されながら200mほど進むと、小高い丘に向かう石段がある。登ると写真のような貴船神社があり、その辺りが継体天皇樟葉宮跡伝承地だという。格子戸の中を覗いてみると、朱塗りの小さな社殿がある他には何もない。

 

枚方市教育委員会が書いた史跡案内には、武烈天皇の死後、大連大伴金村らによって越前の三国から迎えられた男大迹(おおど)王は樟葉で即位したが、その時、王の知己である河内馬飼首荒籠(かわちのおびとあらこ)が密使として活躍し、即位には北河内を本拠とする馬飼部の大きな貢献があったと記されている。

 

石段を下りながら、何故、即位の地が樟葉なのだろうかと考えてみた。

 

継体の即位に関しては、王権の簒奪であったり、委譲であったり、大和政権側からの吸収であったりと、さまざまな説がある。いずれにしても、対抗勢力のない政権交替などありえない。それまで政権を担っていた豪族の浮沈に関わるからだ。大和入りが憚られた理由も、そこにあると考えるのが自然だ。ならば、継体が即位し王宮を構えるにしても、大和をにらんで、攻めに軸足をおいた守りの場所という戦略性が必要になる。

 

当時の通信と兵力の移動は陸上であっても、物資や兵力の移動手段は川である。樟葉で合流する三川の上流をたどれば、桂川から山城へ、宇治川からは瀬田川と名を変えて近江へ、木津川からは大和盆地の北郊へと出ることが可能だ。淀川の下流の今の大阪はその当時、河内湖という大きな淡水湖になっていた。河内湖には大和川も流入していたので、河内湖から大和川をたどれば大和盆地へ行くこともできた。

 

今は、河内湖は存在しない。5000年ほど前、今の大阪府辺りは河内湾と呼ばれる大きな入り江になっていた。弥生時代前半に、今の通天閣から森ノ宮辺りに向かって伸びた上町台地の先端の砂州がさらに発達し、海と潟に分けられた。5世紀頃には潟は淡水化し、河内湖と呼ばれる大きな湖になった。淀川や大和川によって運ばれた土砂は河内湖を埋め立て、あちらこちらに中州ができた。湖の汀線は一定せず、北は枚方市の近くまで湖岸が来ていた。開拓が進み、江戸時代には深野池や新開池に河内湖の痕跡をとどめていたが、18世紀にはそれも埋め立てられ、現代では深野新田、新開新田の名が残っている。

 

古代から樟葉の辺りは、三川ばかりではなく、河内湖に流入する支流が天井川となって氾濫を繰り返していた。枚方市史にある昭和40年の淀川の洪水被災地図を見ると、樟葉辺りは広範な洪水の被害に見舞われている。古代ならなおのこと、洪水は繰り返されたであろう。樟葉は交通の要所ではあったが、住むのに難しい土地だった。だからこそ原生林が残り、王宮は樟葉台地の上に築かれたと考えられた。

 

樟葉に王宮を築いた理由が、もうひとつ考えられる。地図の青三角印が河内馬飼首荒籠の本拠地である。枚方市の藤阪小学校の校内に、その案内板がある。大伴金村の再三の迎えに応じなかった継体が、河内馬飼首荒籠の説得によって即位することになった。よほどの信頼関係にあったと考えられる。河内馬飼首荒籠には間諜だったという説もある。馬の口取りをして陸上輸送を担当していた馬飼部には、全国の情報が入る。そのことから、いわれたことらしい。もちろん騎兵としての軍事力もあっただろう。河内馬飼首荒籠は継体にとって近衛兵のような存在だったのかも知れない。その河内馬飼首荒籠が、大和から樟葉を守るような位置にいるのは、継体にとっては心強かったはずだ。

 

樟葉は攻めるにも守るにも有利な拠点として選ばれたのだろうが、洪水の被害によっては孤立する場所でもあった。それが、即位して5年目に山背の筒城に王宮を移した要因だと、私は推測している。

 

参考文献

1)森田克行、西川寿勝、鹿野塁:継体天皇 二つの陵墓、四つの王宮、新泉社、2008

2)大阪府史編集専門委員会:大阪府史 第1巻 古代編1,1978

3)枚方市史編纂委員会:枚方市史 第1巻、1976


高又順プロのご結婚を祝うフライペンの会2010年12月07日 06時18分21秒

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12月5日高又順プロと真野さんのご結婚を祝うフライペンの会が
ローズホテルで開催されました。

とりあえず予告編を


会場の看板です




いつもこういう時はシックな和服の元賞金女王は今回”初チマチョゴリ”です

なかなか似合ってますね




続きはまた・・・これから東京に出張します

高プロのご結婚を祝うフライペンの会 パート12010年12月08日 21時15分47秒

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●新郎新婦のご入場です





●発起人挨拶

いつもアドリブが得意な監督もこういう場になるとちょっと固さが見られましたが、
こういう会の発起人が大好きです



●ヒャンフィ殿の挨拶

やはりヒャンフィの人徳ですね
高プロはじめいろんな方がひいきにしてくれる



●フライペンのお目出度い席といえば欠かせないのがオモニ



●全美貞プロからの花




●現役女子プロゴルファー(高さんももちろん現役ですが)が沢山お祝いに見えてました


●オリンパスのミラーレス一眼でカメラ小僧になりきってるよっちゃん

それはいいけど最近”よっちゃんのグルメ日誌”の写真がきませんね




●ローズホテルでは定番の”紹興酒の鏡開き”

(鏡開きとは言わないのでしょうかね?)


高プロのご結婚を祝うフライペンの会;パート22010年12月10日 21時16分40秒

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狩野史子プロことフライペンコンペでおなじみの”ふみちゃん”の女子プロ紹介

ふみちゃんもチマチョゴリで正装です

結構似合いますね





今日は髭で登場のお兄さん

発起人のひとりです


X'masパーティーでおなじみのプロのバンド

今回はボーカルに・・・中村ひかる ちゃんです

♫オールディーズの曲が♫



みんなノリノリ



かの小田和正バンドのバンマス


イェーイ


三原順子のバンマス

この年代は(僕も含めて)やっぱり・・・サンタナです




これだからフライペンのイベントはやめられない



キーボードものってます



真野ちゃん

飲むぞ!!!


高プロのご結婚を祝うフライペンの会;パート3-東床礼(トンサンレ)-2010年12月11日 03時51分37秒

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メインイベントの東床礼(トンサンレ)です

・・・とくれば司会はこの方




-東床礼(トンサンレ)-
新婚旅行から帰って来たら新婦の実家に一泊します。  
この時実家では東床礼という小宴を張ります。ここではチャンナンと呼ばれる 婿いじめの遊びをします。
新婦の友人、知人を招きご馳走をふるまうのですが、酒の勢いで盛り上がったところでこの宴席が新郎裁きの舞台となるのです。  
なれそめから初夜に至るまであらゆる事について質問を受けるのですが、答えが曖昧だとか具体的でないという口実でそのたびに、堅い物で足の裏などを叩かれます。  
耐えられなくなったところで新郎は義母(チャンモ)に救いを求めるのです。  
義母は招待客に酒食をもてなし許しをもらうよにします。  
こうして義母と新郎の信頼関係が自然に深まり、夫婦の絆がより結ばれるのです。
京栄食品HPより
検事、判事、弁護士、執行人(だったかな?)に役割を分けて追求(?)して
行きます



答えがおかしいとすぐ体罰が




前回ヒジョンちゃんの時もやりましたが足の裏が腫れてその後靴を履くのがきついとのこと


”ウーちゃん”(こう呼んでるんだそうです)が全然助けてくれないんですよ





観客は人事なので楽しそう



おやおや 李知姫プロじゃないですか



こちらも女子プロ



”ケンちゃん、可哀想”

ということでやっとウーちゃんの助け舟が



けんちゃんが歩けないので・・・
なんとウーちゃんがおんぶして救出(^_^)


いつもダンディな発起人 その3です


高プロのご結婚を祝うフライペンの会;パート42010年12月12日 02時48分02秒

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そういえば一番大事な方を忘れておりました

総合司会の○○先生です

無事勤めあげましたがかなり緊張気味でした



こちらは人生の先輩ご夫婦


先輩No.2


二人でダンスなど


ヒャンフィ殿の笑顔は”プライスレス”です



ゴッドファーザーと・・・



こんなにチマチョゴリが見れる会も少ないですね


今日はおとなしく聞く側に専念でちょっと欲求不満かな?
いっちゃん


フミちゃんはチマチョゴリ姿以外も可愛いい(^_^)


記念品贈呈です


花束贈呈


最後にお二人のご挨拶


高プロのご結婚を祝うフライペンの会; 番外編 さすが李知姫プロ2010年12月12日 21時41分23秒

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番外編です


東床礼(トンサンレ)の司会の方から


”さすが李知姫プロ!わかってる!”


と言われた賄賂のシーンです(^_^)





ということでせっかくなので李知姫プロとフミちゃんと記念撮影





そう言えば綾小路きみまろに似てません?





●衝撃の発言 (^_^)



”いまだから言いますけど・・・

実は僕はウーちゃんのストーカーだったんです

花も届けました” (^_^)








是非お二人をお祝いしたいとのことで・・・








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すみません、最後で落としてしまいました(^_^;;;

東京ドームシティ2010年12月14日 05時35分37秒

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昨日から新潟にいます

美味しい”へぎそば”も久しぶりに食べて満足!満足!


今日は日歯新潟訪問です


ところで先週は御茶ノ水にいきました

ニコライ堂です

本当に東京はこういう歴史的建造物がそこかしこにありますね



折角都心に来たので東京で一番LED数が多いという東京ドームシティに


シンボルの船です


バックがわから見るとこんな感じ


回廊


色々






まあ結構綺麗っちゃ綺麗なんですが・・・

イマイチ迫力が無かったかな(^_^)

第170弾 のむけはえぐすり 継体天皇の筒木宮(同志社大学京田辺キャンパス)2010年12月15日 03時36分27秒







第170弾  のむけはえぐすり

継体天皇の筒木宮(同志社大学京田辺キャンパス)

 

交野天神社を出て、同志社大学京田辺キャンパスまで11Km。カラシ色の新島襄記念館の道を挟んで、同志社大学の正門がある。

 

正門を入ると、右手に小高い丘がある。ツツジに囲まれた石段を登ると、写真のような小さな広場に石碑が並んでいる。左には「正一位不動谷大明神」、右には「筒木宮址」と「継体天皇皇居故址」と書かれた石柱がある。

 

この多々羅都谷辺りに継体天皇5年から12年までの7年間(511518)、筒木宮があったというのだ。考古学的には、大学敷地の奥にある普賢寺大御堂を中心とした今の観音寺辺りにあったようで、その昔、そこに筒木寺があったと「興福寺官務諜疏」に記されている。

 

「興福寺官務諜疏」によると、普賢寺と呼ばれていた頃の山号は息長山といい、普賢寺鎮守の朱智神社の祭神は迦爾米雷王(かにめいかずち)であったという。息長足比売(おきながたらしひめ・神功皇后)の祖父である。貞観11年(869)から朱智神社に伝わる神事を担当する下司家のもとの姓は息長といい、筒木は息長氏と関係が深い土地柄であったようだ。

 

息長氏というと近江の坂田郡に住む豪族を思い浮かべるが、元はこの筒木にいたという説がある。継体の父方の系譜は応神天皇から若野毛二俣王、意富富杼王(おほほど)、乎非王(おい)、彦主人王(ひこうし)、乎富等王(をほど)すなわち継体へとつながる。水谷千秋氏は、意富富杼王か若野毛二俣王の代に大和や河内から離れて近江に土着し、継体と息長氏はその末裔であると考えている。

 

時代はさかのぼるが、筒木には仁徳天皇(16)の皇后磐之姫(いわのひめ)が住んだ宮があった。

 

仁徳天皇は徳のある天皇とされているが、女性が大好き、そのくせ恐妻家でもあった。磐之姫が紀州に柏の葉を採りに行った隙に、仁徳天皇はかねて目をつけていた矢田皇女を妃として王宮に入れてしまう。それを知った磐之姫の怒りは激しく、仁徳のいる難波宮を素通りし、山背川(木津川)をさかのぼり、筒城に籠もってしまった。難波から船で木津川を上って筒木に行くルートを使ったわけだ。筒木にいて失意の磐之姫が詠んだ歌がある。

 

つぎねふ 山背河を 宮のぼり 我がのぼれば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり

 

枕詞があって分かりにくいが、要するに、木津川をさかのぼって、奈良、大和を過ぎて、私が見てみたい国は葛城にある高宮の辺りですという意味である。陸路、木津川から奈良山を越えて奈良に出て、そこから三輪山の麓の大和を通り、葛城に行くルートを使うわけだ。

 

筒木から奈良山を越えて奈良までは直線で11Km、木津川と奈良の最短距離は3Kmほどで、筒木と奈良は近い。奈良側には和珥(わに)氏がいた。和珥氏は今の天理の辺りに住んでいたが、敦賀との交易によって富を得て、本拠地を今の奈良盆地北部に移し、春日氏を名のった。和珥氏は開化天皇(9)以来、大王家との関係が深く、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達に10人もの后妃を出している。後世、その財力を背景に平城宮を誘致したが、磐之姫や神功皇后の前方後円墳がある佐紀佐保古墳群は平城宮址のすぐ北にある。

 

磐之姫がふるさとを葛城といっているのは、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の娘だからだ。葛城氏は葛城山の東の麓に住んでいた豪族で、4世紀から5世紀にかけて大王に后妃を出し、大王となった皇子も多い。葛城襲津彦は朝鮮半島へ遠征し、秦氏の祖である弓月君を招いたとされ、朝鮮半島との関係も深い。

 

古事記には磐之姫が筒木で身を寄せたのは、「筒木の韓人、奴理能美(ぬりのみ)の家」だという。新撰姓氏録では百済系となっている。蚕を飼育していたらしく、磐乃姫が筒木に来た言い訳に、珍しい蚕を見に来たと詠んだ和歌がある。葛城氏は秦氏だけではなく、百済からの帰化人とも関係が深かったようだ。

 

新羅の王子、天之日矛(あめのひぼこ)の話は秦氏の伝承であるといわれているが、天之日矛の5世孫が息長足比売(神宮皇后)の母の葛城之高額比売(たかぬかひめ)である。父は息長宿爾王で、秦氏が葛城氏と息長氏の接点にいるように思える。

 

そこに地理的にも近い和珥氏が絡むのだが、系図を見ると、和珥氏の祖、日触使主の娘が産んだ応神の子に菟道稚郎子(うじわきのいらつこ)皇子と矢田皇女がいる。菟道稚郎子皇子は応神の後を継ぐはずの太子だったが、応神が死んで3年間、仁徳と互いに王位を譲り合った末、自らの命を絶って仁徳を即位させた。謙譲の美徳談の裏に、きな臭さが漂う。皇子を支援する母方の豪族の力関係が変化して、廃嫡事件があったとは考えられないだろうか?

 

磐乃姫の嫉妬の末の別れ話は、その菟道稚郎子皇子の姉だか妹の矢田皇女を妃に迎えるという話が発端になっている。葛城の娘である磐乃姫にとって、和珥氏の妃を迎えることは、女としてよりも、葛城一族と皇子たちの命運がかかった話だったのかも知れない。仁徳の元へ戻らず、意地を通した磐乃姫は5年後に筒木で亡くなった。その後、矢田皇女が皇后になったが、磐之姫が産んだ皇子たちは履中、反正、允恭となって王位を継いだ。

 

筒木には磐之姫の頃から、息長氏、和珥氏といった近江に関係の深い氏族のルーツが交錯していた。継体の王宮を筒木に移した理由がそこにあると思った。

 

参考文献

1)森川禮次郎:古代大和を歩く、産経新聞出版、2010

2)森浩一、門脇禎二:継体王朝、大巧社、2000

3)塚口義信:神宮皇后伝説の研究、創元社、1988

4)水谷千秋:謎の大王 継体天皇、文藝春秋、2006

 


サイゴンサイゴン;サイゴンの夜明け2010年12月17日 09時21分41秒


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昨日からサイゴン・・・と今は言わなくて・・・ホーチミンシティですね
に来てます

とにかく暑い!
しかも室内は車の中も含めてギンギンに冷えてるのが辛い

ベトナム航空の機体はなかなかいい色をしてます

満員でした

ベトナムの家族連れが沢山いたのですがチェックインの荷物を見てると
ダンボール箱が必ずあります

・・・中身は子どものおむつでした・・・ベトナムではいいおむつがないのでしょうか?

昔米国に駐在してるころに単身赴任の人間がキッチンペーパーを帰国するたびに
大量に持ち帰っていたのを思い出しました




機内食です・・・まあこんなもんでしょう

JALとの共同運航便なのですがなんと食事が先に出て・・・
食べ終わった頃に「冷たいお飲み物はいかがでしょう?」
と来た。

お陰で食事が終わってからスーパードライを飲むハメになった・・・
やはりうまくないもんですね



ホテルの部屋からみるサイゴンの街

真ん中遠くに背の高いビルがありますがこれが今建設中のベトナムで一番
高いビルだそうです