第171弾 のむけはえぐすり 継体天皇の弟国宮(乙訓寺)2010年12月23日 17時03分50秒









第171弾  のむけはえぐすり

継体天皇の弟国宮(乙訓寺)

 

継体は、大伴金村大連が物部麁鹿火(あらかい)大連、許勢男人(こせのおひと)大臣と協議して大王に迎えられた。

 

樟葉で即位し、5年後には綴喜に、そのまた7年後には乙訓(おとくに)に王宮を移した。乙訓は弟国とも書かれ、葛野が分郡した時に、葛野の兄の国に対して、弟の国といったのが語源だといわれている。

 

弟国宮の有力な比定地のひとつ、写真の乙訓寺に行ってみた。赤く塗られた山門には「弘法大師上錫霊場 洛西観音第6蕃霊場」と書かれた看板が掲げられ、右手には「弘法大師ゆかりの寺」と記された石碑がある。

 

元禄年間に造られた赤門をくぐり、牡丹に囲まれた参道を歩いていくと、案内がある。推古天皇の勅願で聖徳太子によって創建された寺であること、桓武天皇の弟の早良(さわら)親王が造長岡宮使の藤原種継暗殺事件の嫌疑をかけられ幽閉された寺であることが記されている。そばには旅姿の弘法大師の立像があり、弘法大師が乙訓寺の別当であったことを伝えている。だが、弟国宮を思わせるものは何もなかった。

 

周囲の地形をみると、山城と丹波の国境の老坂(おいのさか)から流れてくる小畑川が近くにある。小畑川が桂川に合流する両岸には、下植野南遺跡や算用田遺跡といった6世紀前半に発展した集落遺跡があるほか、同時代の2基の前方後円墳があるが、乙訓寺の周辺からは王宮の址を思わせる遺跡はみつかってはいない。

 

継体が都を移した頃の朝鮮半島の情勢は、急を告げていた。いわゆる任那の4県2郡の割譲問題である。朝鮮半島の全羅南道の支配が伴跛(ハヘ・大伽耶)から百済へ移るのを、倭が裁定したとされる。任那への百済の進出を追認しただけだが、結果的に任那滅亡への序章となった。裁定に関わった大伴金村は、百済から賄賂を貰ったと噂され、後の失脚につながった。

 

このような朝鮮半島の情勢と乙訓の地が選ばれたことが、無関係ではなかったはずだ。乙訓は桂川に近く、桂川は朝鮮半島から敦賀、近江を経て大和に行く重要な水路になっていたからだ。それまでの王宮はそのままにして、新たな前線基地を乙訓に作ったと考えるべきではなかろうか。

 

それにはもう一つの要件がある。これまでの王宮の所在地は、樟葉宮の河内馬飼部であったり、筒木宮の息長氏や和珥氏であったり、継体を支援する氏族の支配地に近かった。乙訓にも、継体を支援した豪族がいたはずだ。

 

継体の支援氏族について、継体の后妃の出身氏族から言及した研究が数多くある。表は日本書紀の記述を私がまとめたものだ。日本書紀と古事記の記述の相違についても併記した。

 

まず三尾君出身の妃が二人いる。そのうちの稚子(わか)媛が産んだ一男一女に太郎皇子という名の皇子がいるが、名前から継体の長男だろうといわれている。三尾氏出身の二人の妃が継体の最初の妃であり、近江の坂田氏と息長氏出身の妃も継体の初期の妃と考えられている。継体の後を継いだ安閑(27)と宣化(せんか、28)を産んだ妃は尾張氏の娘だが、尾張氏は濃尾平野を支配する強大な氏族で、近江の王族とは近い関係にあった。

 

畿内出身の妃は、茨田連の娘と和珥氏の娘である。茨田連は樟葉宮の南、今の枚方辺りにあった茨田屯倉を支配した氏族で、河内の馬飼部のいた土地にも近い。茨田連は樟葉宮の継体を支援した氏族と考えられる。筒木宮の継体を支援した氏族は和珥氏である。古事記では同じ名前の妃が安倍氏出身のように記述されているが、後世、和珥氏が衰退した時に書き換えられたといわれている。古事記に記述がない根王出身の妃は、近江の酒人公と坂田公の祖となる皇子を産んだことになっている。いかにも唐突で、始祖系譜を作り出すために描いた架空の人物という考え方が一般的だ。

 

最終的に継体は先の大王、仁賢の娘の手白香(てしらが)皇女を皇后に迎えたことで、継体の即位に反対していた勢力の認知を得て、大和入りを果たしたとされている。

 

これまでに挙げた継体の支援氏族のなかに、弟国の近くにいた氏族はいない。考えてみれば、継体が即位したのは57才の時だ。乙訓宮に入った時には69才になっていた。継体の妃というよりは、継体の息子すなわち安閑、宣化の妃を考えた方が良さそうだ。

 

継体の後を継いだ安閑の皇后は仁賢の皇女春日山田皇女だが、妃のなかに物部木連子(いたび)大連の娘の宅媛(やかひめ)がいる。物部木連子大連は、冒頭に話した物部麁鹿火の祖父だ。物部麁鹿火は継体、安閑の大連であり、宣化の時に亡くなったが、その後に大連となったのは弟の物部押甲(おしかい)連である。この物部押甲連は中臣葛野連の祖といわれ、葛野に住んでいた。

 

この物部押甲連をはじめとした物部木連子大連の系列の物部氏が、弟国宮の継体の支援氏族だったのではなかろうか。だとすれば、継体は遷都のたびに、妃とともに支援氏族も立派にステップアップしていったことになる。

 

参考文献

1)森浩一、門脇禎二:継体王朝、大巧社、2000

2)守屋尚:物部氏の盛衰と古代ヤマト王族、彩流社、2009

3)水口千秋:謎の大王 継体天皇、文春新書、2006

                                                                                                                                                




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