第191弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社2012年11月29日 20時51分51秒

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第191弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社

瀬田唐橋から徒歩10分ほどで建部大社(たけべたいしゃ)の一の鳥居に着く。二の鳥居からは玉砂利が敷かれ石灯籠が並ぶ参道の先に、木肌の色が新しい平屋の神門がある。その横にある大きな石碑には、「建部大社 近江国一之宮 御鎮座壱千参百年式年 大祭記念」と彫られている。

中の拝殿の前に、三本の杉の古木がある。三本杉は孝徳天皇の755年に、大己貴命(おおむなちのみこと)を拝殿に奉祀した時に、一夜にして成長したと伝わるご神木である。

その奥に二つの社が並んでいる。左側の本殿には日本武尊(やまとたけるのみこと)と、相殿には天明玉命(あめのあかるたまのみこと)が一緒に祀られている。右側の権殿(ごんでん)には、大己貴命(おおむなちのみこと)が祀られている。本来、権殿は空殿であるべきなので、大己貴命は後で配祀されたと考えられ、三本杉の由縁はそれを物語っているようだ。

日本書紀では日本武尊、古事記では倭健命と記される。二の鳥居の側の由緒書きには、建部大社は景行の46年(316)4月に、神崎郡建部鄕千草獄に日本武尊(建部大社は日本武尊の記載の方をとっている)を祀ったのが始まりで、天武の白鳳4年(675)4月に近くの大野山に遷されたとある。社伝によれば、現在地には755年に健部伊賀麿によって遷されたという。建部伊賀麿は、続日本紀766年7月条に、近江国滋賀郡の軍団の大毅(たいき:養老律令では1000人の軍団の長のこと)であり、朝臣の姓を賜ったとある。

建部君の祖は犬上君と同じ、倭健命が安(野洲)の国造の祖である意富多牟和気(おおたむわけ)の女(むすめ)の布多遅比売(ふたぢひめ)を妻として生んだ稲依別王である。建部氏はこの地の豪族であり、建部大社は建部氏の氏神であった。

倭健命は景行の長男である。倭健命は景行の命によって、播磨、吉備、豊前、豊後、日向を経て、九州の熊襲建を征服した。熊襲建のいまわの際の遺言で建(たける)を名乗るようになった。帰途、出雲を制圧し、大和に戻った。休む間もなく、倭健命は東征を命じられた。倭健命は「父は私に死ねと思っている」と嘆き、伊勢に叔母の倭比売を訪ねた。倭比売から草薙剣をもらって東征へと旅立つ。尾張を出発し、焼津、相模を平定し、房総半島へと向かい、関東平野から足柄、甲斐、信濃と回って、再び尾張へと戻った。この後、伊吹山の神を素手で捕まえると勇んで伊吹山に入ったものの、神の化身の白猪に出会い、これを無視したために神の怒りにあって瀕死の重傷を負った。これが元で、倭健命は伊勢の能褒野で命を落とした。

古事記では、倭健命はその生涯を大和朝廷のために捧げ、ついに大和に帰り着くことがなかった悲劇の英雄として描かれている。

このような倭健命の伝承は、大和朝廷が地方への支配を進める中で、建部という一種の軍事集団の事績を一人の英雄に集約したものととらえる説がある(大津市史Ⅰ、91p)。全国の建部神社と建部鄕の分布を地図でみると、近江、美濃、吉備、出雲といった地域により多く見られている。その地域が大和朝廷の支配下に入る過程で、軍事的抵抗が強く、そこに建部が軍事的プレゼンスとして存在したことを示しており、建部のタケルが倭健命のタケルと結びついて作られた伝承と考えられている。

建部大社の東に500mほどのところに、近江国府の史跡がある。建部大社は、かつての近江国府の方八町ないしは方九町の正方形の区域の西南の角に位置する。近江国府は、瀬田川と東海道と東山道の交通の要衝を守る重要な軍事的位置にある。

712年から4年間、近江国府の守(かみ)は藤原不比等の長男の藤原武智麻呂(むちまろ)であった。その後を継いだのが武智麻呂の子、藤原仲麻呂で、右大臣に就任するまでの13年間その任にあった。仲麻呂が守を辞してから、守は不在のまま、仲麻呂の息のかかった3人の次官が就任し、仲麻呂が影響力を保持していた。

757年、仲麻呂は橘奈良麻呂の変で政敵を葬ると、その功により「押勝」を名乗り、「汎(ひろ)く恵む之美(のび)」を意味する「恵美」の二字を姓に加え、恵美押勝とした。私印である「恵美之印」を行政の命令書の公印として用いるほどの権力者となった。仲麻呂の絶頂の時である。

 だが、急激な中国文化の模倣や、石山寺に近い保良宮への遷都など、強引な政権運営に人心は離れていった。史上6人目の女帝である孝謙天皇(46)は、758年に天武系の淳仁天皇(47)に譲位した。上皇となった孝謙は保良宮で病気になった折、それを治したのが道鏡である。その時から、孝謙は道鏡と親密になり、溺れ、それを諫めた淳仁天皇や仲麻呂と対立するようになった。

 762年には、伊勢、美濃、越前、近江の国府に、年令は20才から40才の郡司の子弟や百姓から選んだ兵士を健児(こんでい)とする軍事強化策がとられた。763年には仲麻呂派の有力官僚の排斥が始まり、近江国府には孝謙派の官吏が派遣された。764年、追い詰められた仲麻呂は再起を図ろうと近江国府を目指すが、先回りをした孝謙派の数百の騎馬隊によって近江国府は奪取され、勢多橋は焼き落とされた。進退に窮した仲麻呂は逃げる途中、三尾の辺りで討ち取られた。世にいう、恵美押勝の乱である。

三本杉の伝承の755年に建部大社に大己貴命が奉祀されたのは、軍事氏族であった建部氏への楔(くさび)と懐柔であったと考えられる。健児は仲麻呂自らが作った軍事態勢ではあったが、駅馬の利用に必要な駅鈴と、天皇の印である内印(鈴印)の両方を孝謙方に押さえられては、軍は動かせない。建部伊賀麻呂が766年に軍団の長官となり朝臣の姓を賜ったのは、建部が仲麻呂にではなく、鈴印に従ったことによる論功行賞だった可能性があると思った。

参考文献
1)八幡和郎:本当は謎がない「古代史」、ソフトバンク新書、東京、2011
2)小笠原好彦編:勢多唐橋、六興出版社、東京、1990
3)大津市役所:新修大津市史Ⅰ古代、大津、1978

のむけはえぐすりのびっくり2012年11月14日 21時00分16秒

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写真を間違えましたが、ビックリシリーズで紹介します。

1)これが本当の本殿横の紫式部の源氏の間

初めは何事かと思って中をのぞき込みました。

2)中には、小振りな紫式部がいました。

3)中の様子です。


第190弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺2012年11月13日 03時34分08秒










第190弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺

京阪線坂本石山線の終点、石山寺駅から瀬田川の大きな流れに沿って10分ほどで、石山寺の東大門に着く。

深い緑の桜やキリシマツツジの古木に囲まれた参道を、本殿へと向かう。右手の急な石段を上り、蓮如堂と毘沙門堂の間を抜けると、天然記念物に指定された硅灰石(けいかいせき)の岩塊のある庭へと出る。写真のように、まるで水飴をこねたようにうねる岩肌は、黒くザラザラしている。石灰岩が中途半端な熱で大理石になり損ねたというこの岩は、石山寺の由来となった。

鎌倉時代に作られた「石山寺縁起絵巻」によると、良弁(ろうべん)がこの岩の上に聖武天皇の念持仏を安置し、完成間近い東大寺の大仏に鍍金する黄金の産出を祈願した。すると、陸奥国から黄金産出の報があり、朝廷に献上された。この場所は、良弁の夢の中に吉野の金峯山(こんぷせん)の金剛蔵王が現れ、「近江国滋賀郡、水海の岸の南に一つの山があり、大聖垂迹の地なり」とのお告げがあったので来てみると、比良明神の化身の老翁に会って教えられたという。

念願が叶って、良弁が仏を戻そうとすると、仏は石の上から動かない。そのまま、辺りを整地して仏閣を建てたのが石山寺の創建である。761年に、岩の上に粘土製(塑像)の本尊が作られたが、1078年の火災によって損傷し、1211年についに崩壊した。1245年に新たな木造の如意輪観音が製作され、古い本尊の胎内にあった金剛仏の4体が再び納められた。今も本尊の背面にある厨子のなかには、30cm前後の4体の鋳造仏がある。観音菩薩には頭頂に小さな仏様(化仏:けぶつ)があるのが特徴で、4体のうち飛鳥時代に作られた2体の仏様には化仏があり、観音菩薩と分かった。良弁の岩の上から動かなくなった金剛仏とは、この内の一つということになるのかも知れない。

今はこの本尊は秘仏となって見ることができないが、木造の二臂(にひ)の如意輪観音である。臂とは肘のことで、他に多面多臂といった使い方もある。観音様は限りない慈悲によって、現在生きている人間の苦しみを除き、願い事を叶えることができる現世利益(げんぜりやく)の仏様である。いろいろな願い事に応じられるように、多くの顔と多くの手を持った姿をした観音様を変化観音といい、千手、馬頭、十一面、准胝(じゅんてい)、如意輪といった五種類の観音様がある。変化しない基本の姿をした観音様を聖観音(しょうかんのん)といい、普通に観音様というと聖観音を指す。聖観音は出家前のお釈迦様の姿が基本なので、宝冠を被り、装身具つけ、ゆったりと体に天衣や条帛(じょうはく)をまとい、きらびやかな姿をしている。

五種類の変化観音と聖観音の組み合わせを六観音といい、地獄道、餓鬼道、畜生道などの六道で迷える衆生を救うために、担当が決められている。石山寺の本尊の如意輪観音は、天道に住む天人の煩悩を救うという、比較的恵まれた観音様である。法華経では、観音様は子供や女性や鬼といった三十三の姿に変身するとされ、ここから三十三カ所観音霊場を巡拝する信仰が生まれた。

石山寺は奈良時代から観音信仰の参拝の寺として有名で、平安時代の花山天皇の頃に成立した西国三十三カ所観音霊場にも選ばれた。現在は第十三番札所に数えられている。石山寺は京から近く、琵琶湖を望む風光明媚な地であることから、信仰と遊覧を兼ねた石山詣が平安時代の宮廷の女性に流行した。清少納言の枕草子に登場し、藤原道綱の母の蜻蛉日記、菅原孝標の娘の更級日記にもとり上げられている。

先ほどの硅灰岩の庭を左手に行くと、山の斜面に張り出した舞台の上に本堂がある。懸造り(かけづくり)という。初期の本堂は1078年に焼失し、現存する本堂は1096年に再建された。写真のように、本堂の横、入り口近くに、「紫式部源氏の間」と記された小さな部屋がある。中に十二単を着た女性のマネキンが置かれ、紫式部だという。

紫式部は、一条天皇の后、上東門院彰子(しょうし)に女房兼家庭教師として仕えた。1004年、紫式部は彰子の願いによって、物語を書くために七日間石山寺に籠もった。8月15日の夜、月に映える琵琶湖を眺めながら、物語の構想が浮かび、手近にあった大般若経の裏に書き留めた。それは源氏物語の冒頭の「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひける中に・・・・」ではなく、源氏が恋の遍歴の末の不祥事から須磨に住むことになって、十五夜を見ながら都を回想する場面であったという。

この話は、石山寺縁起や、1367年に成立した源氏物語の注釈本「河海抄」に記されている。本堂脇の「源氏の間」は紫式部が参籠した部屋ということにされ、その時に使用したとされる硯も残された。

創建当時の石山寺は檜皮葺の仏堂1宇、板葺きの板倉1宇、他に板屋が9宇の小さな寺であった。759年に淳仁天皇によって石山寺の近くに保良宮が造営される際、その鎮護の寺院として増改築が行われた。その後、孝謙上皇によって再び平城宮に都が戻されると、保良宮は寂れ、石山寺だけが残った。

761年に「造東大寺司」のもと「造石山寺司」によって増改築が行われた時に、良弁は大僧都として全国の僧尼を統括する僧綱(そうごう)の最高位にあった。良弁は東大寺造営にも関与する傍ら、たびたび石山を訪れ、工事を指揮した。これが良弁と石山寺の伝説の元になったようだ。

良弁の出自は、「東大寺要録」には相模国漆部氏とあるが、「元享釈書」には「姓は百済氏、近州志賀里の人」ともある。2年ほど前、上田正昭先生は良弁が百済氏の出自で、百済系の"渡来人"の末裔と講演なさっていたのが懐かしい。

参考文献
1)綾村宏編;石山寺の信仰と歴史、思文閣出版、東京、2008
2)宇津野善晃監修:よくわかる仏像の見方、JTBキャンブックス、1998
3)古社名刹巡拝の旅15:湖南 滋賀、集英社、2009
4)朴鐘鳴編:志賀のなかの朝鮮、明石書店、東京、2003


第189弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 瀬田唐橋2012年11月04日 03時22分58秒











第189弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 瀬田唐橋

京阪線を唐橋前駅で下りると、すぐ瀬田唐橋の西詰がある。写真は西詰めから見た現代の瀬田唐橋である。遠くに三上山、左手に琵琶湖を見ながら、中州を越えて、屋形船が停留する東詰に行く。

そこから右の堤防まで下りると、「日本三大名橋 瀬田の唐橋」と書かれた石碑と、写真のような1543年から1979年まで24回橋が架け替えられた歴史が記された「瀬田の唐橋 架替略歴」がある。

側にある雲住寺は百足退治で有名な藤原秀鄕ゆかりの寺で、600年前に子孫の蒲生高秀候によって建立された。藤原秀鄕の百足退治とは、夜な夜な現れては琵琶湖の魚を食い尽くし、人々を困らせていた三上山の百足を秀鄕が退治し、喜んだ人々から一生食い切れないほどの米俵をいただいて、それで俵藤太と呼ばれたという話だ。

1988年、ちょうどこの雲住寺のあたりの浚渫工事に先立ち、堤から15mほど入った川の中の調査が行われた。

川の中の一区画を鋼板で囲い、排水して乾燥させると、川底に10m四方ほど整地された跡があった。そこに川の流れの方向に直径20cmほどの丸太が数本並べられ、その上に直径25cmほどの丸太が直角方向に重ねて11本並べられていた。そのまた上に、40~50cmの角材が長い六角形に組まれて置かれ、角材には穴が1カ所ずつあけられていた。その穴は橋脚の柱を立てるための仕口(しぐち:木材を接合する技法の一種)だという。全体が大量の山石で埋められた状態で、木造の橋が流されない仕組みになっていた。川が深ければ現代でも難工事だが、それができた当時の川底は今より浅かったのではないかという人もいる。その15mほど先にも同じような跡があり、橋脚の遺構と確認できた。

この調査に先立つ潜水調査では、無文銀銭や和同開珎といった天武期以前に使われた貨幣が出土していた。勢多(ママ)橋の建設工事や補修工事の際の地鎮祭的に使われたと推測され、かなり古い橋の遺構であることが分かった。

瀬田川にかかる橋の記載は、日本書紀の壬申の乱での記載が初見である。

不破関を出陣した村国男依(おより)率いる大海人軍は、横河(米原付近か)の戦い、安河の戦いに連勝し、天武5年(676)7月17日に瀬田の東岸に到着した。近江方の将、智尊は精兵を率いて西岸に陣取り、勢多橋の中央を杖3本ほどの幅に切断し、綱のついた一枚の長板を渡しておいた。もし渡る兵士がいれば、板を引いて下に落とそうという罠だ。大海人軍の進軍は止まった。しばらくすると、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が鎧を重ね、刀を抜いて、一気に板を渡った。板に付いていた綱を切り、さらに突入した。近江方は驚き、総崩れとなった。智尊は逃げる兵士を切り、押しとどめようとしたがかなわない。智尊は橋のほとりで切られた。逃げ場を失った大友皇子は山前に身を隠したが、23日に自ら首をくくって死んだ。

壬申の乱で大分君稚臣が渡った橋が、今回橋脚が発見された橋なのだろうか。

今回みつかった勢多橋は天武以前に作られたというから、時代としては近そうだ。それでも、和同開珎が出土していることから8世紀初頭より古いということはないとされる。先ほどの「架替略歴」をみると、橋は436年間に24回架け替えられ、古い時代には約15年で架け替えられている。流されたり壊れたりすれば、すぐ架け替えられたのかというと、そうでもないらしい。更級日記には「瀬多橋(ママ)皆くずれて渡りわづらふ」とあり、平治物語には頼朝が流罪となって東国に行く時に、「勢多(ママ)には橋もなくて、船にてむかひの地へわた」ったと記されている。壊れたままにされた時期もあったらしく、一つの橋の寿命はもっと短かった可能性がある。8世紀初頭に作られたとしても、今回の勢多橋は676年まではさかのぼれないようだ。

平城京で発見された橋の橋脚には掘立柱の構造と、柱の先を尖らせて打ち込んだ打ち込み柱の構造の2種類があり、今回の勢多橋のような例はないという。この勢多橋は当時の日本にあった橋とは違う流れで作られていたと考えるべきで、これに似た橋は韓国の新羅の都、慶州にあった月精橋だという。

慶州の宮城、月城の南側を東西に南川が流れていて、そこに1984年に石造りの橋跡と、19m下流に木造の橋跡が発見された。石造橋の方は統一新羅初期の8世紀半ばの文献にある「月浄橋」に比定され、木造橋は7世紀後半の「楡橋」に比定された。二つの橋の橋脚の基礎構造は、縦長の六角形であり、今回の勢多橋と同じである。慶州以外では、高句麗にも大きな橋の遺構はあるが、橋脚の構造は舟形や菱形ではない。百済からは小さな橋しか見つかっていない。そこで、今回の勢多橋は新羅系の帰化人によって作られたと考えられている。

天智は百済復興運動に荷担し、663年に唐と新羅の連合軍に白村江で敗れた。天智の時代ならば、新羅系の帰化人による橋の建設はあり得ない。天武の時代になると、一転して、新羅との関係は親密になる。天武の即位に際し、新羅から使節が来て祝賀を述べている。680年に建立された薬師寺の伽藍様式は新羅の双塔式伽藍であり、新羅系の瓦も出土している(小笠原編:東潮、229p)。

7世紀末から8世紀にかけて、急速に新羅系の文物が近江に広がった。勢多津のあったこの辺りには百済系の志賀漢人が古くからいたのだが、今回の勢多橋が新羅の帰化人によって作られたとしても、不思議ではない時代があった。

(勢多、瀬田、瀬多の表記は依拠した文献の表記をそのままを用いた)

参考文献
1)宇治谷猛:全現代語訳 日本書紀、講談社学術文庫、東京、2009
2)小笠原好彦編:勢多唐橋、六興出版社、東京、1990
3)滋賀県文化財保護協会編:琵琶湖をめぐる交通と経済力、サンライズ出版、滋賀県
4)大津市役所:新修大津市史Ⅰ古代、大津、1978

第188弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂2012年10月13日 06時49分34秒










第188弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂

 錦織遺跡からタクシーで新羅善神堂へと向かう。大津市役所の裏の森に続く道を入ると、左に弘文天皇陵、右に新羅善神堂がある。あいにく新羅善神堂は修理中でシートに覆われていた。
 
新羅善神堂は第5世天台座主の円珍(在位868-)が創立したと伝えられている。

天台座主とは天台宗の総本山、比叡山延暦寺の住職であり、一宗の首長として教学を統括し、教団経営にあたる僧職をいう(大津市史Ⅰ334p)。宗祖の最澄を座主とはいわない。座主と呼ぶのは最澄の後を継いだ初世義真(824-)からで、それも太政官から任命されるようになったのは、第2世円澄(833-)の後、第3世円仁(854-)からである。
 
当時、国費による得度者を年分度者という。いわば官費の奨学僧だが、毎年何人と決められていた。最澄は帰国後、その割り当てを南都六宗の10名に対して、2名獲得した。だが、その得度や受戒は従来通り東大寺戒壇で行うことが義務づけられ、国家仏教の支配から抜け出すことはできなかった。さらに、年分度者の2名の内、1名は天台宗、もう1名は密教の専門と定められた。最澄は密教の灌頂(種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を授ける資格がない。それができるのは、最澄と同じ遣唐使船に乗っていた空海で、空海は長安の青龍寺で恵果に師事し、密教の阿闍梨位の灌頂を得て帰国した。そのため、最澄は密教では7才年下の空海に弟子として教えを請い、自らの弟子の灌頂を空海にお願いする立場にあった。だが、二人は徐々に対立を深め、決別した。

最澄の没後、7日目にして比叡山に大乗戒壇建立の勅許が下った(822年)。翌年、比叡山の寺は延暦寺と改められ、延暦寺において得度、受戒が可能になり、ようやく国家仏教の支配から脱することができた。だが、当時は空海の真言密教による加持祈祷が貴族社会に流行しており、天台宗の僧は「比叡無食の僧」と言われるほど困窮を極めていた。

天台宗における密教の不備を補ったのが、円仁である。円仁は835年に唐に渡った。長安に留まり、空海が受法した金剛界、胎蔵界はもちろん、空海も受法しえなかった蘇悉地(そしつじ)の大法を学び、天台密教の弱点であった悉曇(しったん)も習得し、約10年後に帰国した。それ以後、天台密教の真言密教に対する劣等感はなくなり、天皇や貴族にも灌頂ができるようになった。円仁は円澄の後を次いで、第3世天台座主となった。

833年、初世義真が亡くなり第2世を円澄が継いだ時、義真系の弟子は比叡山を追われ、大和の室生寺に移った。勢力挽回を願った室生寺の義真の弟子たちは、満を持して、円珍を唐に送り出した。

853年、円珍は唐の商船に乗って出発した。唐に6年間滞在し、円仁以上の密教、天台を極め、数多くの典籍と共に帰国した。円珍は比叡山東塔西谷山王院の住房唐院を建て、それらの書物を収蔵し、自らもそこに住んだ。その後、円珍は園城寺の別当に迎えられた。園城寺は大友与太王が壬申の乱で敗れて亡くなった父・大友皇子(後の弘文天皇)の菩提を弔うために寺地を寄進して建立された寺で、琵琶湖湖岸の広大な土地を有していた。866年、滋賀郡少領大友村主夜須良麿の請願により、園城寺は円珍を主持として天台別院となった、

円珍は摂政藤原良房の知遇を得て、清和天皇や良房など30人を超える貴族の入壇受法を行った。この頃から比叡山の僧は巨大な荘園領主となり、生活は華美になった。868年、円珍は第5世天台座主となった。円珍の在職23年の間、延暦寺では円珍派が勢力を伸ばし、円仁派門徒と競い合った。993年、ついに両派の門徒は武力衝突し、円珍派門徒は比叡山を下り園城寺に移った。以後、天台宗の宗徒は比叡山に残った円仁派の山門派と、園城寺に移った円珍派の寺門派に別れ、長く争うことになった。

これまで、ながながと天台宗徒が山門派と寺門派に分かれ紛争にいたった経緯を述べてきた。そこを踏まえて、これからが新羅善神堂の本題である。

1062年に藤原実範が書いた「園城寺竜華会縁起」という本がある。その中に、円珍が唐から帰国する船のなかで、新羅明神と名乗る老翁が現れ、弥勒菩薩の世が来るまで円珍のために仏法を守ると約束したと記されている。帰国した円珍は、新羅明神の導きで、園城寺を復興し新羅善神堂を設立したという。

新羅善神堂に祀られている新羅明神像は、今は秘仏である。平安後期に作られた新羅明神像は、不思議な容貌をしている。唐服、三角形のあごひげ、むくんだ顔、何よりも印象的なのは垂れ目である。山門寺門両派の抗争が激しい中で作られ、あきれている顔だという人もいるが、私が見るには、「えー!! なんでぇー!?」といって中年のおじさんの困った時の顔だ(URL参照)。

方や、延暦寺は中国山東省にあった赤山法華院を守護神にして、人を集めていた。園城寺にもそうした外来神が必要となり、新羅善神堂が作られた。新羅善堂の前身は、大友氏の氏神だったのだろう。そのため、百済系の大友氏の氏神を新羅善神堂と名乗るのは、不思議だと考える人もいる。

大友村主氏は後漢献帝の苗裔(すえ)と、続日本紀に記されている。百済系というのは後世の考証であって、当時は後漢の最後の皇帝の子孫を自称していた。今更、百済系を名乗るわけにもいかない。かといって、後漢を滅ぼした唐の神様を祀るわけにもいかない。9世紀の半ば、百済の故地は統一新羅の支配下にあった。地方勢力の反乱が相次ぎ、衰えたとはいえ、新羅である。百済が滅亡して200年、今更百済にこだわることはない。いっそのこと、「新羅でいいヤ」となって、新羅善神堂になったと私は考えている。

参考文献
1)新羅明神像:NHK日曜美術館、2012年10月確認、
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/1123/index.html 
2)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
3)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991



第187弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡2012年10月05日 06時09分50秒











第187弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡

 

 次は、近江神宮前駅で降りる。この辺りになると、周りは住宅になっている。駅から西に向かい、車通りの多い47号線に出る。

 

そこで右折するとすぐ、住宅の間に1軒分ほどの広さの平地があり、「史跡近江大津宮錦織遺跡 第8地点」と記された案内板がある。案内には、この地の北に隣接する第1地点で、昭和49年に内裏南門跡が発見され、この地に大津宮があったことが確認されたと記されている。

 

発見者は、当時、滋賀県教育委員会文化財保護課の若い技師、林博通さんである。林さんは南滋賀廃寺の瓦工房跡を調査するため、三井寺の近所にあったアパートから歩いて通っていた。晩秋の頃、この地に重機が入って地面を掘削しようとしているのを目にした。直感が働いたのだろう。その場で、施主の伊藤さんに調査を願い出た。何かが出ると、確信があったわけでもない。それでも、伊藤さんのご厚意で承諾していただいたという。

 

「そういう所をいくら掘っても、何も出やしないヨ」という言葉を背中で聞きながら、林さんは教育委員会を説得し、調査は始まった。間もなく平安時代末の土器片を含む地層にあたった。さらに掘り進むと、地面から95cmの深さに四角い穴の跡が発見された。穴は垂直に掘られ、穴に詰まった土は硬く突き固められた様子がうかがえた。四角い穴の大きさは1辺が1.6m前後なので、宮殿クラスの建物が予想された。これが規則正しくどちらかの方向に並んでいるのが確認できれば、柱穴と判明する。果たして、その穴の東側1.5mの所に同様の大きさの方形の穴があった。柱穴は合計13個発見され、東西南北に整然と並ぶ構造から門と回廊と判断された。

 

結局、この調査は3月までかかり、史跡として公有化するかなどの議論があった末、遺跡は埋め戻され、伊藤家に返還され新居が建てられた。その時点では、大津宮に限りなく近い遺構という結論で、確定ではなかった。その後、空き地や住宅建設の際の調査を重ね、新たな発見が続き、昭和53年に志賀県教育委員会は大津宮の所在地を錦織地区であると発表した。次いで昭和54年には国の史跡に指定された。これまで、このような重要な決定は国が行ってきたから、極めて異例のことで、林さんは多少の軋轢があったことをほのめかしている。

 

今回、第8地点の案内板を撮った写真の背景に、偶然にも伊藤家の住宅が写っていた。その時はそのような経緯を知らない私は、伊藤家に敬意を払うこともなく、通り過ぎてしまった。

 

車道をさらに北へ向かう。緑の多い小さな公園があり、3mほどの高さの石碑が立っている。明治28年に建てられた石碑には、日吉大社の宮司が書いた漢文が彫られているが、摩耗してほとんど読めない。題字は志賀宮跡碑と篆書で書かれている。

 

碑文の内容を調べてみると、天智天皇の志賀大津宮の旧蹟だということから始まる。かつては舟と車が往来し栄えたが、いつか草が茂り田畝となって場所が分からなくなった。古老に尋ねると、錦織里に御所内という地名があるという。時折壊れた瓦が出たり、一帯にも皇子山とか東大路、西大路といった地名もあったりするので、ここに碑を建て、この地を大津宮の跡地として「無窮に伝える」とある。要するに、地名を頼りに、たいした根拠もなく、この地を大津宮跡と決めたようだ。

 

結果的には正解だったが、大津宮の所在がつい最近まで分からなかったということに驚いた。

 

それまでは、大津宮の所在について数々の論争があった。江戸時代には、錦織村の「御所跡」の地名を頼りに所在地論が展開した。明治時代になると、大津北郊にある条里遺構と小字名から導き出そうとする動きと、平安後期に比叡山の僧が書いた歴史書「扶桑略記」などの文献を頼りに、崇福寺や梵釈寺の遺構から割り出そうとする動きがあった。その頃は滋賀里説や南滋賀説が主流であった。昭和49年春、今のJR大津京駅の北側にある古代の溝の遺構から、大津宮から流れてきたとみられる音義木簡が見つかった。溝の上流にある錦織が大津宮の所在地として注目される発見であった。錦織第1地点で大津宮の遺構が発見されたのは、その年の秋であった。林さんの直感には裏付けがあったのだ。

 

志賀宮址碑をさらに北へと向かう。再び平地があり、地面には丸太が並んでいる。案内には大津宮錦織遺跡第2地点とある。第2地点は天智天皇自ら政(まつりごと)を執った内裏正殿のあった場所と推定されている。内裏正殿の建物は、道を挟んで第7地点から第9地点まで、東西が21.3m、南北が10.4mあったとされる。地面から突き出た丸太は、昭和57年に発掘された10個の柱穴の場所を示している。当時の柱の直径は35cmで、礎石を使わず直接地中に柱が埋め込まれていた。柱が焼けた痕跡はなく、抜いて持ち去られたようだという。

 

南門のあった第8地点から89m離れて内裏正殿のあった第2地点まで、南北一直線に走る47号線に沿って存在したことになる。今歩いてきたその道は大津宮の南北の中軸線であることが判明し、後世の西近江路と呼ばれた幹線道路だった。

 

そして、路傍にもう一つ案内があった。錦部(ママ)鄕は、機織(はたおり)関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来人である錦部氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたと、地名の由来が記されていた。

 

 参考文献

1)林博通:幻の都 大津京を掘る、学生社、東京、2005

2)大津市歴史博物館編:近江・大津になぜ都は営まれたか 大津宮・紫香楽宮・保良宮、サンライズ出版、彦根、2004

3)大橋信弥、小笠原好彦:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、京都、2003


第186弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群2012年09月27日 20時54分53秒











第186弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群

京阪線穴太駅の次は、滋賀里駅。駅から山に向かって、「大津京の道」を約1km歩くと、百穴(ひゃっけつ)古墳群がある。

 坂本から大津の間は山が湖に迫り、平地が少ない。その丘陵部の急斜面や扇状地の要の位置に、多くの後期古墳の群集墳がある。

68基の日吉大社古墳群の周囲には140基。152基の穴太野添古墳群の周囲には218基。63基の百穴古墳群の周囲には214基。そして、南滋賀と錦郡の周囲に70基と、全て数えたら1000基は優に超える。

 地図で古墳群の分布を見ると、穴太の穴太野添古墳群のグループと滋賀里の百穴古墳群のグループとの間に、ほんの200~300mだが古墳群が途切れるところがある。そこが、古代の大友郷と錦郡鄕の境目だと大橋氏はみている(大橋、147p)。

 百穴古墳群のそばを際川が流れ、森の中に枯れ葉に覆われた斜面の所々に大きな石が露出している。石は半ば埋もれながら、ここに2個、あそこに3個と顔を出している。中には、石室内部が見える古墳もある。

 写真は露出した玄室で、手前が石室の通路だったのだろう。玄室の左右と奥の壁が、上に行くほど内側にせり出している。「持ち送り」と呼ばれ、かなり急な傾きである。手前の石は石室の天井を覆っていた石のようだ。この大きさだと天井は2~3個の石に覆われていたのではなかろうか。他の地方にはなく、6世紀中頃に盛んになり6世紀末には消滅した横穴式石室である。一般的にこのような横穴式古墳の3分の1には、ミニチュア炊飯具が副葬されているという。ミニチュア炊飯具はこの百穴古墳群の古墳からも発見され、帰化人の古墳と考えられている。

 志賀漢人という言葉がある。古代の滋賀郡の南部は、大友村主、穴太村主、錦部村主などの帰化人で埋め尽くされ、これらの帰化人たちを志賀漢人と呼ぶことを山尾幸久氏が提唱した。志賀漢人には先にあげた主な3氏の他に、槻本村主や三津首などもいる。多くは後漢の献帝の子孫を名乗っている。

志賀漢人とは何者で、いつ頃、どこから来たのか、滋賀里あたりにいたのはどの志賀漢人かということに興味がある。

 その手がかりになるのが、坂上系図にある姓氏録の逸文である。応神天皇の頃、阿智王は段、李、郭、朱、多、皀(きゅう)、高の7姓の漢人を率いて帰化し、大和国檜隈郡に住んだ。しばらくして阿智王は、同じ出身地の人々が高句麗や百済や新羅に離れて住んでいるので、呼び寄せたいと申し出た。仁徳天皇の頃に、たくさんの人々がやって来て、初めは今来郡(今の武市郡)に住んでいたが、手狭になったので諸国に移住したというのだ。

 もとより、この話がどれほどの史実に基づいているのか、分からない。だが何者かということでは、志賀漢人が姓氏録で後漢献帝の末裔と主張するように、中国系の渡来人と見る説もあるが、この姓氏録の逸文からは、先に帰化した人々の招きによってやって来た高句麗や百済や新羅からの人々ということになる。

いつ頃かというと、仁徳天皇の頃という。それを、志賀漢人を唱えた山尾氏は、当時の国際情勢に対する分析から、570年とみている。新羅の隆盛に危機感を抱いた高句麗から日本海ルートで使節が派遣され、その対応のために志賀津という交通の要所にこれらの人々を配置し、実務を担当させたという。一方、大橋氏は607年に小野妹子の遣隋使派遣の一行の中に、志賀漢人慧隠の名がみえることから、それ以前から住み始めており、大津北郊の後期群集墳の築造年代からすると、5世紀後半から6世紀後半あたりまでを考えている。

どこからということでは、もとは朝鮮半島からだが、先に来て檜隈郡に住んでいた倭漢(やまとあや)氏のもとに統合され、河内や大和に住んでいた人々の中から、配置されてきたということのようだ。

何のためにということでは、大和政権の指示で、北陸、東山道諸国からの物資を湖上ルートで輸送する際に、志賀津で管理・運営するためということだが、その運営にあたったのは蘇我氏である。

最後に、この滋賀里に住んでいたのは、どの志賀漢人かということだが、百穴古墳群から1Kmほど南にある志賀町廃寺が天平時代の錦部寺にあてられることから、錦部村主の氏寺であったと考えられる。だから、この志賀里あたりに住んでいた志賀漢人は、錦部村主であったといえそうだ。だが、錦部鄕に錦部がいたことは文献的には確認されていない。

実は大友氏も穴太氏も近江全域に進出し、各地で勢力を築いた記録はあるが、志賀鄕のどこに居住していたかが分かるような記録がない。先に述べた古墳群が途切れる場所が大友鄕と錦部鄕の境だとして、大友氏の本拠は氏(うじ)の名が一致する大友郷と考えられる。大友鄕の南には穴太氏の本拠があったので、大友氏は北、すなわち坂本周辺に本拠があったと考えられる。

ところが、「続日本紀」によれば、延暦6年(787)に大友村主、大友民曰佐、錦曰佐、穴太村主がそろって志賀忌付を賜ったと記されている。「続日本後紀」には、837年に今度は志賀史、錦部村主、大友村主が春良宿禰を賜ったとある。それぞれの氏族がそろって願い出たわけだが、この同じ姓を名乗ることになった氏族はその昔、出身が一緒だった可能性がある。

200年たっても、あるいは300年たっても、自らの出自に対する絆と思いは続いていたということなのだろう。
 
 参考文献
1)大橋信弥:古代豪族と渡来人、吉川弘文館、東京、2004


第185弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社2012年09月21日 23時38分15秒











第185弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社

 

 始発の坂本の次が松の馬場、その次が穴太である。駅は、山から湖岸までの短い傾斜の途中にある。300mも山に向かえば四ツ谷川に沿った穴太野添古墳群があり、湖岸に向かえば穴太廃寺跡がある。

 

現在の穴太廃寺跡は西大津バイパスの高架の下にある。1979年に西大津バイパスが完成するまでの発掘調査で、この辺り一帯に縄文時代から7世紀にかけての4層以上に重なる集落の遺跡のあることが分かった。

 

 一番上の第1遺構面には、7世紀中頃の柵や溝の間に掘立柱建物群と切妻大壁造住居跡がある。上の写真は切妻大壁造住居の発掘の様子で、四角形に掘られた溝とその中に等間隔に柱が並んでいる。地面から上の部分を土で塗り込めて壁を造り、それで屋根を支える構造になっている。内部は土間であったらしい。

 

上から2番目の第2遺構面は、6世紀末から7世紀初頭にかけての住居跡で、掘立柱住居群と切妻大壁造住居の他に、礎石を持つ14m5mほどの建物もみつかっている。第3遺構面は、6世紀後半の掘立柱建物群の遺構である。第4遺構面は縄文時代の遺跡である。そのうち、第1から第3までの遺構面には切妻大壁造住居や礎石建物などの特殊な建物があり、近くにオンドルのある建物も発見されていることから、帰化人の集落の遺跡と考えられている。ざっくり言えば、穴太の一帯には560年頃から630年頃にかけて、帰化人の集落があったといえそうだ。

 

 穴太廃寺跡には2層の寺院跡が重なっている。下層の寺院は白鳳時代の創建とされ、中門を入ると右手に五重塔、左手に西金堂、そしてその向こう正面に中金堂がある「一塔二金堂」の川原寺式伽藍配置で、近くの南滋賀町廃寺と同じ配置である。だが、建てられて間もなく、全面的に建て替えられ、上層の寺院跡は大津宮の建物と方位が一致していることから、大津宮と同じ頃に建てられたと考えられている。瓦に刻まれた「庚寅年」の年代から、こちらもざっくりと、下層の穴太廃寺の創建は630年頃といえそうだ。

 

 現代の穴太駅から100mほどの所に、髙穴穂(たかあなほ)神社の杜が見える。

 

杜を目当てに歩いて行くと、髙穴穂神社の鳥居の横に案内がある。髙穴穂宮跡(伝承地)と記され、景行(12)は3年、成務(13)は61年、仲哀(14)は半年と、三帝の都の跡とある。拝殿と本殿はあっけないほど小振りで、とても天皇の宮の旧蹟とは思えない。下の写真のような杜の奥にある東郷平八郎によって揮毫された「髙穴穂宮址」の碑で、どうにか面目を保っている。

 

髙穴穂宮は古代から成務の宮地という認識だが、髙穴穂神社の周辺に宮殿らしい遺跡や遺物はみつかってはいない。成務の業績として、日本書紀に各地の豪族を国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)に任命したことが記されている。古代に地方行政組織を確立した天皇とされ、全国支配を成し遂げたように語られている。

 

それを連想させる伝承が、成務の周りにはある。成務の兄は小碓命すなわち倭健命で、倭健命は父・景行の命令で九州、出雲、東国に遠征して成功したとする伝承がある。この伝承が成務の全国支配と重なる。

 

また、倭健命の命を奪ったのが近江の伊吹山の神であり、倭健命が息長氏の系譜に登場し、息長帯比売命(神功皇后)につながる。この伝承が成務の都が近江にあることと重なり、近江が重要な役割を果たしていることを示している。

 

結局、成務には子がなく、成務の後を継いだ仲哀は倭健命の子である。成務は在位60年、107才で亡くなったとされるが、日本書紀には実質5年の記録しかない。成務の地方支配の説話を、後の天智の大津宮における中央集権化の投影と見る説は多く、大津市史も日本歴史地名体系もこの立場をとる。成務は実態が謎に包まれた天皇である。

 

崇神(10)、垂仁(11)、景行(12)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)と続く系譜の中で、崇神の都は磯城、垂仁の都は纒向で、共に三輪山麓にあった。陵墓は崇神が山辺、垂仁が平城宮の西にあり、三輪王朝と呼ぶ。それに対して、応神の都は橿原、仁徳の都は難波だが、陵墓は共に河内にあり、河内王朝と呼ぶ。三輪王朝から河内王朝への交替があったと考え、両王朝の交替はスムーズではなく、成務と仲哀の時代はその混乱期であったとする説がある(大津市史、79p)。成務の都は髙穴穂宮で、陵墓は平城宮の北で三輪王朝に近いが、仲哀は都が福岡の香椎宮だが陵墓は河内で河内王朝に近い。成務の髙穴穂宮はその混乱のなかで生まれた都と考えられている。

 

その髙穴穂の地に、百済からの帰化人、穴太氏がいた。「歴代天皇記」をみると、成務の在位は4世紀中頃となっている。一方、穴太氏の先祖が帰化したのは応神の頃というが、実際は百済の近肖古王の時代のこととされ、400年前後に比定されている。ということは、後漢の孝献帝の子、美波夜王の子孫が穴太氏を名乗ったから穴太の地名になったのではなく、穴太の地は古くは穴穂(あなほ)といい、百済からの帰化人が穴穂に居住したから穴太氏となったようだ。

 

「あのう」の地名は、畿内の交通の要所に多いという(日本歴史地名体系、214p)。今回、穴太駅から見渡した一帯は、山が湖に迫る四ツ谷川の扇状地であった。大和と山城からはいずれの間道を通っても、この狭隘な地を通らなければならない。農業に適した土地とはいえないが、北陸道の要所であることが分かった。

 

参考文献

1)滋賀県教育委員会(2012年):切妻大壁造住居跡,http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2001/index.html  20129月確認

2)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991

3)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978

4)肥後和男編:歴代天皇記、秋田書房、東京、1985

 


第184弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 最澄・三津首広野2012年09月13日 02時38分24秒








第184弾  のむけはえぐすり

近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 最澄・三津首広野

 

 日吉大社から歩いて5分、比叡山坂本ケーブルに乗り、比叡山へと向かう。山頂駅の展望台から琵琶湖を望むと、写真の左の奥に猛暑のなか琵琶湖大橋が霞んで見える。

 

大橋の左側が湖西線の堅田駅の辺りだが、古代でいえば真野鄕になる。琵琶湖はそこから狭くなり、写真の中央にある緑濃い小高い山との間に雄琴駅がある。その右手に続く町並みが坂本で、古代の大友郷である。

 

 坂本は日吉大社の門前町として栄え、比叡山の里坊の町でもあった。日吉大社の参道に面した里坊の生源寺が、天台宗の祖最澄の生誕地と伝えられ、境内には産湯に使ったとされる井戸がある。

 

 下の写真は、比叡山の根本中堂の前にある伝教大師童形像である。最澄は天平神護2年(766)に生まれ、「叡山大師伝」に「年7歳にして学同列を超え」とあり、小学では抜群の成績を修め、小学の教師になることを勧められたほどの秀才であった。13歳で国分寺に入り、15歳で得度(正式に仏門に入ることを許可されること)が認められ、その時から最澄を名のった。

 

古代から近世までの古文書が東京大学史料編纂室によって集大成された「大日本古文書」という本の中の「来迎院文書」に、伝教大師最澄の得度に関する記録がある。俗名は三津首広野といい、滋賀郡古市鄕戸主正八位下三津首浄足の戸口と記されている。三津首浄足は最澄の祖父か叔父の名で、古市鄕の人だという。

 

この三津首について、「元享釈書」の「最澄伝」に「其先東漢献帝之孫・・」とある。先祖は後漢最後の皇帝、献帝(孝献帝、在位189220)の登万貴王で、国が滅び、応神の頃に日本に来て、滋賀の地に土地を賜ったという。献帝の子孫は、新撰姓氏録の諸蕃にいくつかの氏族が登場する。新撰姓氏録とは815年に嵯峨天皇によって編纂され、当時、京域と5畿内に住む1182の氏族の出自を明らかにしたもので、そのうち帰化人の氏族である諸蕃は326氏族ある。その中で献帝の子孫と称する氏族は、献帝の子の博竜王の子孫が台忌付(うてなのいみつき)と河内忌付、美波夜王の子孫が志賀の穴太村主(すぐり)、孝徳王の子孫が広原忌付、献帝の4世の孫山陽公の子孫が当宗(まさむね)忌付などである。

 

三津首は新撰姓氏録には記載されてはいない。京域と山城国大和国河内国和泉国摂津国5畿内に住む氏族が対象なので記載されなかったか、首という姓(かばね)の身分が低すぎて記載されなかったか。大伴氏や穴太氏にしても本当に後漢の皇帝の子孫かどうかは怪しいが、三津首は大友氏や穴太氏と同じ伝承を持つ帰化人であり、百済系の帰化人と考えられている。

 

三津氏の本貫に関して、「日本歴史地名体系」は今の石山寺の近くの古市鄕としている。古市鄕にはかつて国昌寺があった。平安初期に近江国分寺が焼失した時に近江国分寺の寺格を継承した寺で、最澄13歳の時に修行をはじめ、15才の時に得度した寺である。古市鄕には大友丹波史という有名な氏族がいるが、三津首は大友丹波史とともに古市鄕の有力な豪族であり、両氏によって国昌寺が創建されたとしている。

 

一方、三津氏の三津とは、坂本の東南、大友郷の志津、戸津、今津の三つの津(港のこと)に由来する名で、湖沿いの陸地や交通を掌握していたと考え、大友郷が三津氏の本貫だったという説もある(池田:2012)。

 

坂本には広野の生誕地とされる生源寺があり、そこから歩いて間もない小さな丘の上にかつて紅染寺(こうぜんじ)があった。その紅染寺跡が最澄の父、百足の旧宅のあった所だ。永井路子氏は「雲と風と」の中で、当時の妻訪い婚の風習から、最澄の父、百足が古市鄕から大友郷まで訪ねて行く姿を想像している。

 

最澄の母は贈太政大臣藤原魚名の子の鷲取の娘、藤子と伝えられている。永井路子氏は、確かに藤原鷲取に藤子という娘はいるが、実際の年齢を計算すると、広野の母とするのは無理だという。また、左大臣まで上がった藤原魚名の孫が、正八位の三津首浄足の息子と結婚するはずはないともいう。したがって、最澄の母を藤原氏としたのは、後に桓武天皇と最澄の親密な関係から生まれた伝承であるとし、藤子は三津首と同程度の小さな豪族の娘だったのではないかと考えている。

 

私はもう少し違う興味から、藤子の出自を調べてみた。桓武天皇の母、高野新笠の先祖は百済の武寧王の子の純陀(じゅんだ)で、百済からの帰化人の子孫である。桓武天皇は即位後、百済王(くだらこきし)氏との関係を深め、百済王氏の女性、明信を信任し、その夫である藤原朝臣継縄を右大臣として重用した。実質ナンバーワンである。この辺りに広野の母の藤子との接点がないか、藤原氏の系図を紐解いてみた。

 

藤原不比等には4人の息子がいた。藤原継縄は藤原四兄弟の長男、武智麻呂の直系で、藤原南家の人である。藤原鷲取の父、魚名は四兄弟の次男の房前の5男で、藤原北家の人である。その妻で鷹取の母は四兄弟の三男、藤原宇合(うまかい)の娘で、藤原式家の人である。当代の学問仏教の第一人者、伝教大師の母に藤原家出身の女性を配したのは、夫の藤原南家や百済系帰化人に箔をつけることを目論んだ明信あたりから出た話と疑って調べてみたが、藤子と明信はそれほど近い関係ではなかった。

 

のむけはえぐすりの第182弾の「滋賀郡の渡来系氏族の分布図」では、坂本の辺りに三津氏の名がある。その割には「大日本古文書」に三津氏の記事がない。同じ百済系の帰化人の中でも、三津氏は大伴氏や穴太氏と並ぶほどの有力な氏族ではなかったのではないかと、私も考えている。

 

参考文献

1)池田宗譲:最澄と比叡山、青春出版社、東京、2012

2)西田弘:近江の古代氏族、真陽社、京都、1999

3)田辺正三、井上満郎:湖都の黎明:新修大津市史1 古代、大津市役所、1978

4)永井路子:雲と風と 伝教大師最澄の生涯、中公文庫、中央公論、東京、1990

「のむけはえぐすり」のビックリ2012年08月19日 00時50分38秒











「のむけはえぐすり」のビックリ



葵は珍しいので、、載っけてみました。

日吉大社の東本宮の樹下神社の奥に、亀井霊泉があります。

その奥に、清水が神奈備の牛尾山から流れ出ています。

清水が飲めるように、茶碗と漉し器が供えられています。

その傍らに、手のひら半分ほどの大きさの葉が地面を這うように並んでいます。

これが葵だそうです。

よく見ると、テレビの水戸黄門様でよく「目に入る紋所」です。

説明の案内も載せておきました。