第191弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社 ― 2012年11月29日 20時51分51秒
のむけはえぐすりのびっくり ― 2012年11月14日 21時00分16秒
第190弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 石山寺 ― 2012年11月13日 03時34分08秒
第189弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 瀬田唐橋 ― 2012年11月04日 03時22分58秒
第188弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 新羅善神堂 ― 2012年10月13日 06時49分34秒
第187弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡 ― 2012年10月05日 06時09分50秒
第187弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 近江神宮前 近江大津宮錦織遺跡
次は、近江神宮前駅で降りる。この辺りになると、周りは住宅になっている。駅から西に向かい、車通りの多い47号線に出る。
そこで右折するとすぐ、住宅の間に1軒分ほどの広さの平地があり、「史跡近江大津宮錦織遺跡 第8地点」と記された案内板がある。案内には、この地の北に隣接する第1地点で、昭和49年に内裏南門跡が発見され、この地に大津宮があったことが確認されたと記されている。
発見者は、当時、滋賀県教育委員会文化財保護課の若い技師、林博通さんである。林さんは南滋賀廃寺の瓦工房跡を調査するため、三井寺の近所にあったアパートから歩いて通っていた。晩秋の頃、この地に重機が入って地面を掘削しようとしているのを目にした。直感が働いたのだろう。その場で、施主の伊藤さんに調査を願い出た。何かが出ると、確信があったわけでもない。それでも、伊藤さんのご厚意で承諾していただいたという。
「そういう所をいくら掘っても、何も出やしないヨ」という言葉を背中で聞きながら、林さんは教育委員会を説得し、調査は始まった。間もなく平安時代末の土器片を含む地層にあたった。さらに掘り進むと、地面から95cmの深さに四角い穴の跡が発見された。穴は垂直に掘られ、穴に詰まった土は硬く突き固められた様子がうかがえた。四角い穴の大きさは1辺が1.6m前後なので、宮殿クラスの建物が予想された。これが規則正しくどちらかの方向に並んでいるのが確認できれば、柱穴と判明する。果たして、その穴の東側1.5mの所に同様の大きさの方形の穴があった。柱穴は合計13個発見され、東西南北に整然と並ぶ構造から門と回廊と判断された。
結局、この調査は3月までかかり、史跡として公有化するかなどの議論があった末、遺跡は埋め戻され、伊藤家に返還され新居が建てられた。その時点では、大津宮に限りなく近い遺構という結論で、確定ではなかった。その後、空き地や住宅建設の際の調査を重ね、新たな発見が続き、昭和53年に志賀県教育委員会は大津宮の所在地を錦織地区であると発表した。次いで昭和54年には国の史跡に指定された。これまで、このような重要な決定は国が行ってきたから、極めて異例のことで、林さんは多少の軋轢があったことをほのめかしている。
今回、第8地点の案内板を撮った写真の背景に、偶然にも伊藤家の住宅が写っていた。その時はそのような経緯を知らない私は、伊藤家に敬意を払うこともなく、通り過ぎてしまった。
車道をさらに北へ向かう。緑の多い小さな公園があり、3mほどの高さの石碑が立っている。明治28年に建てられた石碑には、日吉大社の宮司が書いた漢文が彫られているが、摩耗してほとんど読めない。題字は志賀宮跡碑と篆書で書かれている。
碑文の内容を調べてみると、天智天皇の志賀大津宮の旧蹟だということから始まる。かつては舟と車が往来し栄えたが、いつか草が茂り田畝となって場所が分からなくなった。古老に尋ねると、錦織里に御所内という地名があるという。時折壊れた瓦が出たり、一帯にも皇子山とか東大路、西大路といった地名もあったりするので、ここに碑を建て、この地を大津宮の跡地として「無窮に伝える」とある。要するに、地名を頼りに、たいした根拠もなく、この地を大津宮跡と決めたようだ。
結果的には正解だったが、大津宮の所在がつい最近まで分からなかったということに驚いた。
それまでは、大津宮の所在について数々の論争があった。江戸時代には、錦織村の「御所跡」の地名を頼りに所在地論が展開した。明治時代になると、大津北郊にある条里遺構と小字名から導き出そうとする動きと、平安後期に比叡山の僧が書いた歴史書「扶桑略記」などの文献を頼りに、崇福寺や梵釈寺の遺構から割り出そうとする動きがあった。その頃は滋賀里説や南滋賀説が主流であった。昭和49年春、今のJR大津京駅の北側にある古代の溝の遺構から、大津宮から流れてきたとみられる音義木簡が見つかった。溝の上流にある錦織が大津宮の所在地として注目される発見であった。錦織第1地点で大津宮の遺構が発見されたのは、その年の秋であった。林さんの直感には裏付けがあったのだ。
志賀宮址碑をさらに北へと向かう。再び平地があり、地面には丸太が並んでいる。案内には大津宮錦織遺跡第2地点とある。第2地点は天智天皇自ら政(まつりごと)を執った内裏正殿のあった場所と推定されている。内裏正殿の建物は、道を挟んで第7地点から第9地点まで、東西が21.3m、南北が10.4mあったとされる。地面から突き出た丸太は、昭和57年に発掘された10個の柱穴の場所を示している。当時の柱の直径は35cmで、礎石を使わず直接地中に柱が埋め込まれていた。柱が焼けた痕跡はなく、抜いて持ち去られたようだという。
南門のあった第8地点から89m離れて内裏正殿のあった第2地点まで、南北一直線に走る47号線に沿って存在したことになる。今歩いてきたその道は大津宮の南北の中軸線であることが判明し、後世の西近江路と呼ばれた幹線道路だった。
そして、路傍にもう一つ案内があった。錦部(ママ)鄕は、機織(はたおり)関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来人である錦部氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたと、地名の由来が記されていた。
参考文献
1)林博通:幻の都 大津京を掘る、学生社、東京、2005
2)大津市歴史博物館編:近江・大津になぜ都は営まれたか 大津宮・紫香楽宮・保良宮、サンライズ出版、彦根、2004
3)大橋信弥、小笠原好彦:新・史跡でつづる古代の近江、ミネルヴァ書房、京都、2003
第186弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 滋賀里 百穴古墳群 ― 2012年09月27日 20時54分53秒
第185弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社 ― 2012年09月21日 23時38分15秒
第185弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 穴太 髙穴穂神社
始発の坂本の次が松の馬場、その次が穴太である。駅は、山から湖岸までの短い傾斜の途中にある。300mも山に向かえば四ツ谷川に沿った穴太野添古墳群があり、湖岸に向かえば穴太廃寺跡がある。
現在の穴太廃寺跡は西大津バイパスの高架の下にある。1979年に西大津バイパスが完成するまでの発掘調査で、この辺り一帯に縄文時代から7世紀にかけての4層以上に重なる集落の遺跡のあることが分かった。
一番上の第1遺構面には、7世紀中頃の柵や溝の間に掘立柱建物群と切妻大壁造住居跡がある。上の写真は切妻大壁造住居の発掘の様子で、四角形に掘られた溝とその中に等間隔に柱が並んでいる。地面から上の部分を土で塗り込めて壁を造り、それで屋根を支える構造になっている。内部は土間であったらしい。
上から2番目の第2遺構面は、6世紀末から7世紀初頭にかけての住居跡で、掘立柱住居群と切妻大壁造住居の他に、礎石を持つ14mx5mほどの建物もみつかっている。第3遺構面は、6世紀後半の掘立柱建物群の遺構である。第4遺構面は縄文時代の遺跡である。そのうち、第1から第3までの遺構面には切妻大壁造住居や礎石建物などの特殊な建物があり、近くにオンドルのある建物も発見されていることから、帰化人の集落の遺跡と考えられている。ざっくり言えば、穴太の一帯には560年頃から630年頃にかけて、帰化人の集落があったといえそうだ。
穴太廃寺跡には2層の寺院跡が重なっている。下層の寺院は白鳳時代の創建とされ、中門を入ると右手に五重塔、左手に西金堂、そしてその向こう正面に中金堂がある「一塔二金堂」の川原寺式伽藍配置で、近くの南滋賀町廃寺と同じ配置である。だが、建てられて間もなく、全面的に建て替えられ、上層の寺院跡は大津宮の建物と方位が一致していることから、大津宮と同じ頃に建てられたと考えられている。瓦に刻まれた「庚寅年」の年代から、こちらもざっくりと、下層の穴太廃寺の創建は630年頃といえそうだ。
現代の穴太駅から100mほどの所に、髙穴穂(たかあなほ)神社の杜が見える。
杜を目当てに歩いて行くと、髙穴穂神社の鳥居の横に案内がある。髙穴穂宮跡(伝承地)と記され、景行(12)は3年、成務(13)は61年、仲哀(14)は半年と、三帝の都の跡とある。拝殿と本殿はあっけないほど小振りで、とても天皇の宮の旧蹟とは思えない。下の写真のような杜の奥にある東郷平八郎によって揮毫された「髙穴穂宮址」の碑で、どうにか面目を保っている。
髙穴穂宮は古代から成務の宮地という認識だが、髙穴穂神社の周辺に宮殿らしい遺跡や遺物はみつかってはいない。成務の業績として、日本書紀に各地の豪族を国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)に任命したことが記されている。古代に地方行政組織を確立した天皇とされ、全国支配を成し遂げたように語られている。
それを連想させる伝承が、成務の周りにはある。成務の兄は小碓命すなわち倭健命で、倭健命は父・景行の命令で九州、出雲、東国に遠征して成功したとする伝承がある。この伝承が成務の全国支配と重なる。
また、倭健命の命を奪ったのが近江の伊吹山の神であり、倭健命が息長氏の系譜に登場し、息長帯比売命(神功皇后)につながる。この伝承が成務の都が近江にあることと重なり、近江が重要な役割を果たしていることを示している。
結局、成務には子がなく、成務の後を継いだ仲哀は倭健命の子である。成務は在位60年、107才で亡くなったとされるが、日本書紀には実質5年の記録しかない。成務の地方支配の説話を、後の天智の大津宮における中央集権化の投影と見る説は多く、大津市史も日本歴史地名体系もこの立場をとる。成務は実態が謎に包まれた天皇である。
崇神(10)、垂仁(11)、景行(12)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)と続く系譜の中で、崇神の都は磯城、垂仁の都は纒向で、共に三輪山麓にあった。陵墓は崇神が山辺、垂仁が平城宮の西にあり、三輪王朝と呼ぶ。それに対して、応神の都は橿原、仁徳の都は難波だが、陵墓は共に河内にあり、河内王朝と呼ぶ。三輪王朝から河内王朝への交替があったと考え、両王朝の交替はスムーズではなく、成務と仲哀の時代はその混乱期であったとする説がある(大津市史、79p)。成務の都は髙穴穂宮で、陵墓は平城宮の北で三輪王朝に近いが、仲哀は都が福岡の香椎宮だが陵墓は河内で河内王朝に近い。成務の髙穴穂宮はその混乱のなかで生まれた都と考えられている。
その髙穴穂の地に、百済からの帰化人、穴太氏がいた。「歴代天皇記」をみると、成務の在位は4世紀中頃となっている。一方、穴太氏の先祖が帰化したのは応神の頃というが、実際は百済の近肖古王の時代のこととされ、400年前後に比定されている。ということは、後漢の孝献帝の子、美波夜王の子孫が穴太氏を名乗ったから穴太の地名になったのではなく、穴太の地は古くは穴穂(あなほ)といい、百済からの帰化人が穴穂に居住したから穴太氏となったようだ。
「あのう」の地名は、畿内の交通の要所に多いという(日本歴史地名体系、214p)。今回、穴太駅から見渡した一帯は、山が湖に迫る四ツ谷川の扇状地であった。大和と山城からはいずれの間道を通っても、この狭隘な地を通らなければならない。農業に適した土地とはいえないが、北陸道の要所であることが分かった。
参考文献
1)滋賀県教育委員会(2012年):切妻大壁造住居跡,http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2001/index.html 2012年9月確認
2)日本歴史地名体系25巻、滋賀県の地名:平凡社、東京、1991
3)大津市役所:新修 大津市史Ⅰ 古代、1978
4)肥後和男編:歴代天皇記、秋田書房、東京、1985
第184弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 最澄・三津首広野 ― 2012年09月13日 02時38分24秒
第184弾 のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 坂本 最澄・三津首広野
日吉大社から歩いて5分、比叡山坂本ケーブルに乗り、比叡山へと向かう。山頂駅の展望台から琵琶湖を望むと、写真の左の奥に猛暑のなか琵琶湖大橋が霞んで見える。
大橋の左側が湖西線の堅田駅の辺りだが、古代でいえば真野鄕になる。琵琶湖はそこから狭くなり、写真の中央にある緑濃い小高い山との間に雄琴駅がある。その右手に続く町並みが坂本で、古代の大友郷である。
坂本は日吉大社の門前町として栄え、比叡山の里坊の町でもあった。日吉大社の参道に面した里坊の生源寺が、天台宗の祖最澄の生誕地と伝えられ、境内には産湯に使ったとされる井戸がある。
下の写真は、比叡山の根本中堂の前にある伝教大師童形像である。最澄は天平神護2年(766)に生まれ、「叡山大師伝」に「年7歳にして学同列を超え」とあり、小学では抜群の成績を修め、小学の教師になることを勧められたほどの秀才であった。13歳で国分寺に入り、15歳で得度(正式に仏門に入ることを許可されること)が認められ、その時から最澄を名のった。
古代から近世までの古文書が東京大学史料編纂室によって集大成された「大日本古文書」という本の中の「来迎院文書」に、伝教大師最澄の得度に関する記録がある。俗名は三津首広野といい、滋賀郡古市鄕戸主正八位下三津首浄足の戸口と記されている。三津首浄足は最澄の祖父か叔父の名で、古市鄕の人だという。
この三津首について、「元享釈書」の「最澄伝」に「其先東漢献帝之孫・・」とある。先祖は後漢最後の皇帝、献帝(孝献帝、在位189-220)の登万貴王で、国が滅び、応神の頃に日本に来て、滋賀の地に土地を賜ったという。献帝の子孫は、新撰姓氏録の諸蕃にいくつかの氏族が登場する。新撰姓氏録とは815年に嵯峨天皇によって編纂され、当時、京域と5畿内に住む1182の氏族の出自を明らかにしたもので、そのうち帰化人の氏族である諸蕃は326氏族ある。その中で献帝の子孫と称する氏族は、献帝の子の博竜王の子孫が台忌付(うてなのいみつき)と河内忌付、美波夜王の子孫が志賀の穴太村主(すぐり)、孝徳王の子孫が広原忌付、献帝の4世の孫山陽公の子孫が当宗(まさむね)忌付などである。
三津首は新撰姓氏録には記載されてはいない。京域と山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の5畿内に住む氏族が対象なので記載されなかったか、首という姓(かばね)の身分が低すぎて記載されなかったか。大伴氏や穴太氏にしても本当に後漢の皇帝の子孫かどうかは怪しいが、三津首は大友氏や穴太氏と同じ伝承を持つ帰化人であり、百済系の帰化人と考えられている。
三津氏の本貫に関して、「日本歴史地名体系」は今の石山寺の近くの古市鄕としている。古市鄕にはかつて国昌寺があった。平安初期に近江国分寺が焼失した時に近江国分寺の寺格を継承した寺で、最澄が13歳の時に修行をはじめ、15才の時に得度した寺である。古市鄕には大友丹波史という有名な氏族がいるが、三津首は大友丹波史とともに古市鄕の有力な豪族であり、両氏によって国昌寺が創建されたとしている。
一方、三津氏の三津とは、坂本の東南、大友郷の志津、戸津、今津の三つの津(港のこと)に由来する名で、湖沿いの陸地や交通を掌握していたと考え、大友郷が三津氏の本貫だったという説もある(池田:2012)。
坂本には広野の生誕地とされる生源寺があり、そこから歩いて間もない小さな丘の上にかつて紅染寺(こうぜんじ)があった。その紅染寺跡が最澄の父、百足の旧宅のあった所だ。永井路子氏は「雲と風と」の中で、当時の妻訪い婚の風習から、最澄の父、百足が古市鄕から大友郷まで訪ねて行く姿を想像している。
最澄の母は贈太政大臣藤原魚名の子の鷲取の娘、藤子と伝えられている。永井路子氏は、確かに藤原鷲取に藤子という娘はいるが、実際の年齢を計算すると、広野の母とするのは無理だという。また、左大臣まで上がった藤原魚名の孫が、正八位の三津首浄足の息子と結婚するはずはないともいう。したがって、最澄の母を藤原氏としたのは、後に桓武天皇と最澄の親密な関係から生まれた伝承であるとし、藤子は三津首と同程度の小さな豪族の娘だったのではないかと考えている。
私はもう少し違う興味から、藤子の出自を調べてみた。桓武天皇の母、高野新笠の先祖は百済の武寧王の子の純陀(じゅんだ)で、百済からの帰化人の子孫である。桓武天皇は即位後、百済王(くだらこきし)氏との関係を深め、百済王氏の女性、明信を信任し、その夫である藤原朝臣継縄を右大臣として重用した。実質ナンバーワンである。この辺りに広野の母の藤子との接点がないか、藤原氏の系図を紐解いてみた。
藤原不比等には4人の息子がいた。藤原継縄は藤原四兄弟の長男、武智麻呂の直系で、藤原南家の人である。藤原鷲取の父、魚名は四兄弟の次男の房前の5男で、藤原北家の人である。その妻で鷹取の母は四兄弟の三男、藤原宇合(うまかい)の娘で、藤原式家の人である。当代の学問仏教の第一人者、伝教大師の母に藤原家出身の女性を配したのは、夫の藤原南家や百済系帰化人に箔をつけることを目論んだ明信あたりから出た話と疑って調べてみたが、藤子と明信はそれほど近い関係ではなかった。
のむけはえぐすりの第182弾の「滋賀郡の渡来系氏族の分布図」では、坂本の辺りに三津氏の名がある。その割には「大日本古文書」に三津氏の記事がない。同じ百済系の帰化人の中でも、三津氏は大伴氏や穴太氏と並ぶほどの有力な氏族ではなかったのではないかと、私も考えている。
参考文献
1)池田宗譲:最澄と比叡山、青春出版社、東京、2012
2)西田弘:近江の古代氏族、真陽社、京都、1999
3)田辺正三、井上満郎:湖都の黎明:新修大津市史1 古代、大津市役所、1978
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