第52弾 のむけはえぐすり 原善三郎の話 その31 マーカンタイル銀行2007年06月06日 01時22分36秒

第52弾 のむけはえぐすり 原善三郎の話  その31  マーカンタイル銀行

マーカンタイル銀行(Chartered Mercantile Bank of India, London and China)はインドのボンベイで1853年に設立された。4年後には英国の為替を扱うことを許された勅許状を取得(Chartered)し、ロンドンに本店を移している。

文久3年(1863)、マーカンタイル銀行は横浜に支店を開設した。門が鉄の柱でできていたので、「鉄(かね)の柱の銀行」と呼ばれていた。当時、アジア最強の東洋銀行と並び称されていた割には、横浜ではパッとせず、明治11年(1978)頃から業績が悪化し、明治18年(1885)には横浜から撤退した。

写真は、マーカンタイル銀行のあった山下78番で、現在はヤナセと朝陽門の間の東門駐車場になっている。そこには、銀行の痕跡すらない。 この銀行で特筆すべきは、日本の銀行制度の創設に力を尽くしたAlexander Allan Shand(シャンド)さんがいたことだ。

シャンドさんは、1844年にスコットランドのアバディーンに生まれた。家庭や家族の詳細は分からない。自由貿易を唱えた英首相のグラッドストーンにあこがれ、自由主義的な考えを持つ青年だった。慶応2年(1886)にマーカンタイル銀行の一員として来日し、26歳でacting manager(支配人)になった。

明治5年(1872)に、大蔵省の御雇外国人となった。紙幣寮の書記官としてまず着手したのは、同年11月に施行された国立銀行条例によって開設される国立銀行の簿記形式を統一することだった。

シャンドさんは「銀行簿記精法」の第1巻から第5巻までを著し、その本は大蔵省によって翻訳され、編集刊行された。その後も、大蔵省の銀行学局で役人や国立銀行員を前に講習を続けた。それらは「銀行簿記例題」、「銀行簿記例題解式」、「銀行大意」、「日本国立銀行事務取扱方」にまとめられ、日本銀行制度の基礎となり、シャンド式簿記法となって広まった。

第一国立銀行の小野組の破綻に際しては、日本最初の銀行検査を担当した。その報告書には、「政府は銀行の勘定の虚算を許すことがあってはいけない」と書かれ、その後の銀行検査の原点にもなった。

シャンドさんは疫病で男児を亡くし、落胆のあまり病気となって、3年契約の途中で一時帰国した。シャンドさんは多くの役人や銀行家から尊敬され、再び来日した時には、銀行業務の教授やそれに必要な書物の編纂などの功績に対して、報奨金が特別に支払われた。 契約は延長されたが、西南戦争の戦費の必要に迫られた政府によって、明治10年(1877)にシャンドさんは解雇され、帰国した。

だが、シャンドさんの功績はそれだけではない。

高橋是清さんといえば、首相にもなり、2.26事件に遭って暗殺されるまで、7回も蔵相に就任した経済のエキスパートである。その高橋さんは、13歳の頃、マーカンタイル銀行時代のシャンドさんの身の回りの世話をするボーイだった。そこで英語を学び、アメリカに渡り、苦労して経済を学んだというわけだ。

高橋さんは日露戦争開戦前夜、パース銀行ロンドン支店副支配人になっていたシャンドさんに、戦時公債の引き受けを依頼した。シャンドさんの尽力で、イギリスで公債の半分を引き受けてもらった。残りの半分は、シャンドさんがアメリカのクーン・ローブ商会のヤコブ・シフ(ソロモン・ローブさんの娘婿)さんに働きかけ、引き受けてもらった。 それがなければ、日露戦争の勝利は到底おぼつかなかった。

シャンドさんのすべての功績に対して、明治41年(1908)に勲二等瑞宝章が贈られた。   マーカンタイル銀行は、昭和34年(1959)に香港上海銀行(HSBC)の傘下に入り、昭和57年(1982)にHSBCに吸収され、名前を消した。  世界の金融を話す時、明治の日本を話す時、「ベニスの商人」のシャイロックさんの姿が見え隠れする。

参考文献 1)土屋喬雄:お雇い外国人 ⑧金融・財政、鹿島出版会、1979、東京 2)ユネスコ東アジア文化研究センター:資料 御雇外国人、小学館、1975、東京