第191弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社2012年11月29日 20時51分51秒

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第191弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 京阪線沿線 唐橋前 建部大社

瀬田唐橋から徒歩10分ほどで建部大社(たけべたいしゃ)の一の鳥居に着く。二の鳥居からは玉砂利が敷かれ石灯籠が並ぶ参道の先に、木肌の色が新しい平屋の神門がある。その横にある大きな石碑には、「建部大社 近江国一之宮 御鎮座壱千参百年式年 大祭記念」と彫られている。

中の拝殿の前に、三本の杉の古木がある。三本杉は孝徳天皇の755年に、大己貴命(おおむなちのみこと)を拝殿に奉祀した時に、一夜にして成長したと伝わるご神木である。

その奥に二つの社が並んでいる。左側の本殿には日本武尊(やまとたけるのみこと)と、相殿には天明玉命(あめのあかるたまのみこと)が一緒に祀られている。右側の権殿(ごんでん)には、大己貴命(おおむなちのみこと)が祀られている。本来、権殿は空殿であるべきなので、大己貴命は後で配祀されたと考えられ、三本杉の由縁はそれを物語っているようだ。

日本書紀では日本武尊、古事記では倭健命と記される。二の鳥居の側の由緒書きには、建部大社は景行の46年(316)4月に、神崎郡建部鄕千草獄に日本武尊(建部大社は日本武尊の記載の方をとっている)を祀ったのが始まりで、天武の白鳳4年(675)4月に近くの大野山に遷されたとある。社伝によれば、現在地には755年に健部伊賀麿によって遷されたという。建部伊賀麿は、続日本紀766年7月条に、近江国滋賀郡の軍団の大毅(たいき:養老律令では1000人の軍団の長のこと)であり、朝臣の姓を賜ったとある。

建部君の祖は犬上君と同じ、倭健命が安(野洲)の国造の祖である意富多牟和気(おおたむわけ)の女(むすめ)の布多遅比売(ふたぢひめ)を妻として生んだ稲依別王である。建部氏はこの地の豪族であり、建部大社は建部氏の氏神であった。

倭健命は景行の長男である。倭健命は景行の命によって、播磨、吉備、豊前、豊後、日向を経て、九州の熊襲建を征服した。熊襲建のいまわの際の遺言で建(たける)を名乗るようになった。帰途、出雲を制圧し、大和に戻った。休む間もなく、倭健命は東征を命じられた。倭健命は「父は私に死ねと思っている」と嘆き、伊勢に叔母の倭比売を訪ねた。倭比売から草薙剣をもらって東征へと旅立つ。尾張を出発し、焼津、相模を平定し、房総半島へと向かい、関東平野から足柄、甲斐、信濃と回って、再び尾張へと戻った。この後、伊吹山の神を素手で捕まえると勇んで伊吹山に入ったものの、神の化身の白猪に出会い、これを無視したために神の怒りにあって瀕死の重傷を負った。これが元で、倭健命は伊勢の能褒野で命を落とした。

古事記では、倭健命はその生涯を大和朝廷のために捧げ、ついに大和に帰り着くことがなかった悲劇の英雄として描かれている。

このような倭健命の伝承は、大和朝廷が地方への支配を進める中で、建部という一種の軍事集団の事績を一人の英雄に集約したものととらえる説がある(大津市史Ⅰ、91p)。全国の建部神社と建部鄕の分布を地図でみると、近江、美濃、吉備、出雲といった地域により多く見られている。その地域が大和朝廷の支配下に入る過程で、軍事的抵抗が強く、そこに建部が軍事的プレゼンスとして存在したことを示しており、建部のタケルが倭健命のタケルと結びついて作られた伝承と考えられている。

建部大社の東に500mほどのところに、近江国府の史跡がある。建部大社は、かつての近江国府の方八町ないしは方九町の正方形の区域の西南の角に位置する。近江国府は、瀬田川と東海道と東山道の交通の要衝を守る重要な軍事的位置にある。

712年から4年間、近江国府の守(かみ)は藤原不比等の長男の藤原武智麻呂(むちまろ)であった。その後を継いだのが武智麻呂の子、藤原仲麻呂で、右大臣に就任するまでの13年間その任にあった。仲麻呂が守を辞してから、守は不在のまま、仲麻呂の息のかかった3人の次官が就任し、仲麻呂が影響力を保持していた。

757年、仲麻呂は橘奈良麻呂の変で政敵を葬ると、その功により「押勝」を名乗り、「汎(ひろ)く恵む之美(のび)」を意味する「恵美」の二字を姓に加え、恵美押勝とした。私印である「恵美之印」を行政の命令書の公印として用いるほどの権力者となった。仲麻呂の絶頂の時である。

 だが、急激な中国文化の模倣や、石山寺に近い保良宮への遷都など、強引な政権運営に人心は離れていった。史上6人目の女帝である孝謙天皇(46)は、758年に天武系の淳仁天皇(47)に譲位した。上皇となった孝謙は保良宮で病気になった折、それを治したのが道鏡である。その時から、孝謙は道鏡と親密になり、溺れ、それを諫めた淳仁天皇や仲麻呂と対立するようになった。

 762年には、伊勢、美濃、越前、近江の国府に、年令は20才から40才の郡司の子弟や百姓から選んだ兵士を健児(こんでい)とする軍事強化策がとられた。763年には仲麻呂派の有力官僚の排斥が始まり、近江国府には孝謙派の官吏が派遣された。764年、追い詰められた仲麻呂は再起を図ろうと近江国府を目指すが、先回りをした孝謙派の数百の騎馬隊によって近江国府は奪取され、勢多橋は焼き落とされた。進退に窮した仲麻呂は逃げる途中、三尾の辺りで討ち取られた。世にいう、恵美押勝の乱である。

三本杉の伝承の755年に建部大社に大己貴命が奉祀されたのは、軍事氏族であった建部氏への楔(くさび)と懐柔であったと考えられる。健児は仲麻呂自らが作った軍事態勢ではあったが、駅馬の利用に必要な駅鈴と、天皇の印である内印(鈴印)の両方を孝謙方に押さえられては、軍は動かせない。建部伊賀麻呂が766年に軍団の長官となり朝臣の姓を賜ったのは、建部が仲麻呂にではなく、鈴印に従ったことによる論功行賞だった可能性があると思った。

参考文献
1)八幡和郎:本当は謎がない「古代史」、ソフトバンク新書、東京、2011
2)小笠原好彦編:勢多唐橋、六興出版社、東京、1990
3)大津市役所:新修大津市史Ⅰ古代、大津、1978

コメント

_ 大椙 郁 ― 2013年01月27日 14時36分36秒

いつも読ませて頂きありがとうございます。今後もぜひ続けてください。紀伊国さんの友人の古代史ファンより。

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